ハイサぁ~イ⭐
以前、1605年に中国から甘藷(かんしょ)の苗を持ち帰った人物が眠る嘉手納町字兼久下原にある
『野國總管の墓』をご紹介しましたが、同町字嘉手納には甘藷伝来350年周年を記念して建立されたお宮があるんですよ。
んで、今月(5月)の19日、とてもいい天気だったんで、ヨメさんと一緒にそのお宮を見学しに行って参りました。
沖縄県中頭郡嘉手納町嘉手納にある
『野國總管宮(のぐにそうかんぐう)』☆
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園内の最高所に建立されている『野國總管宮』 |
こちらはまず、嘉手納町の
国道58号線と
県道74号線がぶつかる交差点から、
国道58号線を
読谷村向けに進み、2つめの信号を通過して
約100mほどの距離にある左側の脇道に左折します。
左折して、しばらく直進していくと、突き当りに
『嘉手納中学校』が見えてくるんですが、そのすぐ手前を右折して
約50mほど進んでいくと、真正面にあります。
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『野國總管公園』の入口。右側の建造物は『嘉手納中学校』の体育館です。 |
この日、こちらに到着したのは、午後の2時半くらい。。。
公園入口手前の路肩にクルマをちょこっと停めさせてもらい、すぐさまお宮へと向かいました。
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表道から園内に入ってきたところ。丘の上に『野國總管宮』が見えます。 |
入口を入ってすぐのところに、平成7年7月に受賞した『手づくり郷土賞』の記念碑が立てられていました。
石碑の下部に碑文が記されていたんですけど、文字が消えかかってて判読しづらい部分もありましたが、何とか読めました。。。
※もし誤字などがありましたら、すいません。。。
≪手づくり郷土賞≫
≪野國總管公園は、1605年中国福建省より持ち帰って栽培した甘藷の苗が、後に全国に伝播栽培され、飢餓に苦しむ人々を救った琉球の恩人「野國總管」の恩徳を偲んで建立された總管宮をメインテーマに、恩人の郷里として、その業績を末永く後世に伝えるため、歴史を偲ばせる公園として整備された。
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手づくり郷土賞 受賞記念碑 |
本公園はかつて沖縄八景の一つとして名高い比謝川渓谷の自然を生かし、散策路として整備された比謝川緑地と結ばれ、歴史と水が調和する公園である。
平成7年7月、建設省より歴史と文化に根ざした公園として認められ「手づくり郷土賞」を受賞した。≫
・・・とありました。
この石碑を後にし、『野國總管宮』をと向かいます。
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『野國總管宮』の入口 |
『野國總管宮』へと続く階段の前は、『嘉手納小・中学校』のグラウンドがあるんですが、公園とグラウンドの境には、フェンスなどの仕切りが無く、ちょっとビックリしちゃいました。
また、お宮へと続く階段には、現在、両側に灯籠が設けられていたんですが、以前は無かったみたいですね。
この灯籠は、野國總管甘藷伝来400年祭記念に、沖縄県立農林学校同窓会が平成17年(2005年)9月に建立したものなんだそうです。
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お宮の前には、立派な鳥居が建てられていました。 |
階段を上がり、鳥居の前まで行くと、その手前左側に『野國總管宮』の説明板が設置されていました。
≪野國總管宮≫
≪野國總管は、一六〇五年に中国の福建省福州より甘藷の苗を持ち帰り、郷里の野國村で栽培させました。
野國總管は儀間真常(ぎましんじょう)と共に甘藷の普及に努め、わずか十五年で沖縄全土で甘蔗の栽培がされるようになりました。
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『野國總管宮』の説明板 |
当時の沖縄では、干ばつや暴風によりコメや雑穀等が不作になると、餓死者を出すことも度々ありましたが、甘藷の普及によって飢饉から救われることになりました。
甘藷は後にウィリアム・アダムス(三浦按針(みうらあんしん))の手で長崎の平戸へ、前田利左衛門(まえだりざえもん)により薩摩へ、そして、青木昆陽(あおきこんよう)により関東に広められ、数々の飢饉に際し、多くの人々を飢えから救う、貴重な食料となりました。
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野國總管宮 |
野國總管は俗に「ウム大主(うふしゅう)」と呼ばれて尊敬され、産業の恩人として県民や町民から親しまれています。
嘉手納町では毎年、野國總管まつりの前に例祭を催し、その功績をたたえております。
当お宮は甘藷伝来三五〇年を記念し、一九五五年に当地に建立されたものです。
嘉手納町≫
・・・とありました。
説明を読み終え、鳥居を潜って行くと、奥に『野國總管宮』があり、その手前に二棟の建造物が建てられていました。
この二棟の建造物の内部には大きな獅子像が建立されており、これは中華人民共和国福建省泉州市恵安県人民政府から友好親善の証として寄贈されたものなんだそうですよ。
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獅子像が建立されている建造物の横に設置されていた石碑 |
この二棟の建造物の間から、さらに奥へ進むと、『野國總管宮』の前に出ます。
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獅子像が納められている二棟の建造物の間から見た『野國總管宮』 |
通常は、ご覧の通り扉が閉じられた状態なんですが、例祭などが行われる際には扉があけられるみたいです。
また、お宮の内部には『野國總管』の分骨が祀られているんだそうですよ。
『野國總管宮』を見学した後、今度は公園の北東側へ向かいました。
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『招魂之塔』 |
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『招魂之塔』・『顕彰碑』・『戦没者刻名板』 |
公園の北東側には、『招魂之塔』という慰霊塔が建立されています。
その『招魂之塔』が建立されている場所には、顕彰碑や戦没者刻銘板等も建立されていました。
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招魂之塔 |
塔の台座部分には由来記と題された碑文が設置されていたので、引用させて頂きます。
≪由来記≫
≪日露戦役以来海外及本島内に於て散華せる軍人軍属学徒の英霊を此處に祀り世界平和を祈願して慰霊の塔を建立せり
一九五七年十二月吉日 嘉手納村≫
・・・とありました。
建立されたのは「1957年」となっているんですが、現在の『招魂之塔』や戦没者刻銘板は、終戦五十周年を記念して平成7年に全面改修されたものなんだそうです。
また、『招魂之塔』に隣接する『顕彰碑』は、全面改修を行った際にを建立されたものなんだそうです。
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戦没者刻銘板 |
平成7年8月15日に、新たに建立された顕彰碑の後方には、『鎮魂』と題された碑文も建立されていました。
≪鎮 魂≫
≪太平洋戦争終結五十周年にあたり
招魂の塔に祀られた戦没者の御霊を末永く慰霊顕彰すると共に恒久平和希求の切なる願いをこめ、ここに戦没者刻銘版の改修を行い、嘉手納町遺族会の総意により慰霊顕彰碑を建立する。
今日の我が国の平和と繁栄はひとえに諸霊の尊い犠牲によってもたらされていることを決して忘れてはならない。
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『顕彰碑』と碑文 |
わたしたちは、命の貴さ、平和の尊さを常に肝に銘じ二度と戦争の悲劇を繰り返してはならないことを後世に伝え、我が国唯一の地上戦が展開された激戦地沖縄が、恒久平和の発信地となるよう強く希望し、世界の恒久平和の確立に邁進することを固く誓うものである。
御霊よとこしえに 安らかなれと祈る
平成七年八月十五日 嘉手納町遺族会 嘉手納町≫
・・・とありました。
『招魂之塔』を見学させて頂いた後、さらに公園の北東側へと向かいました。
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県立農林学校の記念木・記念碑と『農林健児之塔等の維持管理及び慰霊祭の引継ぎについて』の説明板 |
向かう途中、遊歩道の脇には、沖縄県立農林学校の記念木と記念碑、そして『農林健児之塔等の維持管理及び慰霊祭の引継ぎについて』と題された説明板が建立されていました。
この記念碑等がある場所からさらに奥へ進んでいくと、その先に『農林健児之塔』が見えてきました。
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遊歩道から見た『農林健児之塔』 |
塔が建立された場所の手前には、小さな説明板が設置されていたので、こちらも引用させて頂きます。
≪農林鉄血勤皇隊(沖縄県立農林学校)≫
≪沖縄県立農林学校の前身は、1902年(明治35年)に開校された国頭郡各間切島組合立国頭農学校で、その後変遷を経て、1932年(大正12年)に林科を設置し、沖縄県立農林学校と改称しました。
1945年(昭和20年)3月27日、鉄血勤皇隊農林隊は、第十九航空地区司令部(青柳隊)の指揮下に入り、中飛行場の糧秣(食糧)を倉敷(現沖縄市)の山中まで運搬する仕事をさせられました。
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農林鉄血勤皇隊(沖縄県立農林学校)の説明板 |
米軍が上陸した4月1日の夕刻、敵陣に身をもって迫って攻撃する肉弾攻撃隊要員として20名の生徒が選抜され、中飛行場に向かいましたが、もぬけの殻で、引き返し、本部半島の独立混成第四十四旅団第二歩兵隊(宇土部隊)の指揮下に入ることになり、5日、伊豆味で同部隊に入隊しました。
一方、農林隊本隊(肉迫攻撃隊以外の農林隊)は、4月4日に金武の観音堂の壕に到着しましたが、食料確保という難題を抱えていたため、解散することになりました。
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『農林健児之塔』・『農林健児之像』・『鉄血勤皇隊農林学校隊編成の碑』 |
4月7日、肉迫攻撃隊の生徒たちは、真部山に移動させられましたが、米軍の猛攻撃を受け、16日に多野岳への撤退を開始し、多野岳に到着した翌24日、東村の山中に撤退することになりました。
27日、東村内福地に到着。28日、米軍との銃撃戦で少尉以下、9名の生徒が戦死しました。
平成28年3月 沖縄県子ども生活福祉部平和援護・男女参画課≫
・・・とありました。
また、『農林健児之塔』の台座には、戦没者刻銘版が設置されており、塔の左側には『農林健児之像』が建立されていました。
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鉄血勤皇隊農林学校隊編成の碑 |
そして、『農林健児之塔』と『農林健児之像』の横には、『鉄血勤皇隊農林学校隊編成の碑』が建立されています。
その碑文には・・・
≪昭和二〇年(一九四五年)三月二六日夜間、配属将校尚謙少尉は、中飛行場(現嘉手納飛行場)守備指揮官青柳時香中佐の命を受け、この地点から比謝川上流約二キロの農林壕において、鉄血勤皇隊農林学校隊を編成し、農林学徒は陸軍二等兵として青柳部隊に入隊した。
比謝川のたながをとりしかのおとこ いつかうるまのはなとちるらむ
(田本清辞世の歌)≫
・・・とありました。
『農林鉄血勤皇隊』についてネットでちょこっと調べてみると、『鉄血勤皇隊農林学校隊編成の碑』の碑文にあった壕は、『嘉手納野球場』近くにあるんだそうで、現存しているようですね。
・・・と、ここまで見学させて頂いた後は、そのままクルマへと戻り、次の目的地へと向かいました。
今回ご紹介したように、『野國總管公園』には、琉球の恩人「野國總管」の分骨が祀られた御宮の他に、先の大戦で亡くなられた戦没者が祀られた2基の慰霊塔も建立されているので、同公園を訪れる際は、そちらの方にも足を運ばれてみてはいかがでしょうか。。。?
今回は少し長くなってしまいましたが、そろそろこの辺で。。。でわでわ☆★☆
最後まで読んでくださって、ありがとうございますm(_ _)m
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☆『野國總管宮』(野國總管公園)☆
☆場所:〒904-0203
沖縄県中頭郡嘉手納町嘉手納322番地
☆お問合せ:098-956-1111(内線333) 嘉手納町役場 都市建設課
☆見 学:無料
☆駐車場:なし