この前、前々回にご紹介した嘉手納町嘉手納にある『野國總管宮(野國總管公園)』を見学した後、ちょっと遅めの昼食をとりに読谷村伊良皆の『そば処 根夢 読谷店』へ向かいました。
んで、食事を終えた後、帰る途中に嘉手納町の国道沿いにあるグスク跡に立ち寄りました。
グスク跡と言っても、石積みなどの遺構は全く存在しておらず、嘉手納町の旧中央公民館(現在は嘉手納町青少年センター)が建っているんですが、敷地内やその周辺には、拝所や石碑などが建立されています。
沖縄県中頭郡嘉手納町嘉手納にある
『嘉手納グスク』☆
比謝矼の上から見た『嘉手納グスク跡』。現在は『嘉手納青少年センター』になっています。 |
『嘉手納グスク』跡地に建てられた『嘉手納青少年センター(旧中央公民館)』 |
『嘉手納グスク』は、詳しい調査などが行われていないようで、築城年代や築城者などは不明なんだそうです。
同センターの駐車場内には、4基の石碑が建立されています。
『幸地亀千代先生像』と歌碑(左)、そして『挙聖 喜屋武朝徳先生』顕彰碑(右) |
『幸地亀千代先生』の胸像と歌碑 |
≪先生は、琉球音楽の普及並びに門弟の指導育成に献身され、特に地謡音楽譜の編纂を野村流音楽の閑静に盡(つく)された功績は偉大であります。
ここに門弟一同相図り胸像を建立し先生の足跡を永久に遺したいと思ひます。
一九六四年十月建立 門弟一同≫
・・・とありました。幸地亀千代先生像 |
≪幸地亀千代師匠の胸像は嘉手納町水釜に建立されてましたが、手狭になり拝謁及び献奏等に大変支障をきたしておりました。
この度、幸地家並びに嘉手納町の御厚意によりこの地に移設することが出来ました。
『幸地亀千代先生像』の隣に建立されていた琉歌が刻まれた歌碑 |
幸地亀千代門下会を代表し喪心より感謝申し上げます。
建立 一九六四年十一月一日 移設 二〇〇六年九月二三日
幸地家 幸地亀千代門下会≫
・・・とありました。そして、『幸地亀千代先生像』と歌碑から少し離れた場所には、『挙聖 喜屋武朝徳先生』の顕彰碑が建立されています。
『挙聖 喜屋武朝徳先生』顕彰碑 |
≪顕彰碑の説明文≫
≪喜屋武朝徳先生(明治三年~昭和二十年)は、近代沖縄が生んだ傑出した空手道の名人である。通称「チャンミーグヮー」として知らぬ者なき武名を天下に轟かした。先生は、明治三年首里の名家に生まれ、多感な幼少時代を東京で過ごし、在京中(現二松舎学院大学)で漢学を学んだ。
幼少の頃、父から空手道の手ほどきを受けた先生は、東京から帰郷後は、いわゆる首里手や泊手の達人たちに師事を受け、さらに修練を積み空手道の大家となった。五尺たらずの小兵ながら、先生の技は鍛え抜かれた力強さと飛鳥の如き早技であったという。
台座に設置された『顕彰碑の説明文』 |
厳しい稽古の中にも深い学識と温かい人柄は、すべての教え子から敬慕された。文武両道に優れたまさに挙聖と呼ぶにふさわしく、我々門弟・孫弟子たちは、ここに碑を建立して、先生の遺徳を偲ぶものである。
平成十一年(一九九九年)七月吉日≫
・・・とありました。そして、駐車場の一番奥の木々が生い茂った場所には、『天川の池の碑』という石碑が建立されています。
天川の池の碑 |
≪比謝川を渡り、那覇へ向かってまっすぐ行くと戦前まで石を敷き詰めた幅一間程の坂道があり、俗に天川坂(天川ビラ)と言った。
その登り口の東側、カシタ山のふもとのンブガーの西隣に、直径二尺ぐらいの円筒形に積み上げられた井戸が天川〔天井戸(アマカー)〕と言われた。
このあたりは、樹木がうっそうと繁茂し、その側を流れる比謝川で遊浴する雌雄のおしどりを見て、比謝川と天川井戸を結びつけて、約四百五十年前、赤犬子が上記の歌を詠まれたものと思われる。
(沖縄県文化財調査報告)(嘉手納町史民族資料編)
平成8年8月30日建立≫
・・・とありました。この4基の石碑を見学させて頂いた後、次は敷地南側にある小道へと向かいました。
『嘉手納青少年センター』の南側の道路沿いにあった拝所 |
この一帯は、『天川の池の碑』の碑文にあった『カシタ山』と称される場所だったそうで、こちらはその『カシタ山』に纏わる拝所なんだそうです。
祠の内部には、霊石と香炉が1基ずつ置かれていました。
『カシタ山』と称される拝所 |
こちらの拝所を見学した後、再び『嘉手納青少年センター』まで戻ります。
戻る途中、『嘉手納青少年センター』と上の拝所の間の坂から、読谷村方面が一望出来ました。
『嘉手納青少年センター』と拝所の間にある坂から読谷村方面を見たところ。 |
※上の写真左側の小高い丘が、かつて『メーダグスク(真栄田グスク)』があった場所です。
『嘉手納青少年センター』の前まで戻り、今度はグスク域北側の国道沿いへと向かいました。
国道沿いに設置された『比謝矼』の模型碑 |
『比謝矼』の模型は、近づかないと分かりづらいんですが、石碑の上部の長方形に開けられたところに設置されています。
『比謝矼』の模型 |
グスク域北側にある『天川』と『ンブガー』 |
まずは、国道側にある『天川』ついて・・・
≪天川の井戸≫
≪本来は、字嘉手納のンブガーの西隣に位置し、直径二尺程度の円筒形に積み上げられた井戸であった。天川節に登場する「天川の池」とは、この天川の井戸から比謝川へ流れ出る水路の途中にできた池とされている。≫
・・・とありました。
とゆーことは、先程の『天川の池の碑』の碑文にあった「直径二尺程度の円筒形に積み上げられた井戸」は現存しておらず、こちらに移築されてしまったんですね。。。
天川 |
≪字嘉手納のンブガー≫
≪別名:アガリガーとも呼称される井戸で、この井戸は、旱魃が続いても枯れることはなかったと伝えられている。字嘉手納集落では、子どもが生まれると『サン(魔除け)』を結わえた桶で、東に向かって水を汲み、その水を産湯に使用し健康祈願をおこなった。
本来は旧嘉手納中央公民館の駐車場に位置していたが、戦後、現在の場所に新たに井戸の模型を作り、拝所として利用している。≫
・・・とありました。
どちらの井戸も、もともとは別の場所にあったようですが、後に現在の場所に移築されて、拝所として利用されているんですねぇ。。。
ンブガー |
現在の比謝橋の上から読谷村側を見たところ。『吉屋チルー歌碑』と『比謝橋碑文』の案内板が見えます。 |
橋を渡り切ってすぐ右側には、『吉屋チルー歌碑』や『比謝橋碑文(ひじゃばしひもん)』などが建立されています。
読谷村比謝矼にある『吉屋チルー歌碑』や『比謝橋碑文』、そして『戦前の比謝橋』の模型 |
『戦前の比謝橋』の模型 |
ケースの中には大小2つの模型が入れられてました。 |
『比謝橋碑文』 |
≪比謝橋碑文(ひじゃばしひもん)≫
≪比謝橋は1716年(康煕55年)~1717年(康煕56年)に木橋から石橋へと改良されてました。比謝橋碑文(ひじゃばしひもん)にはこの改良工事を記念し、比謝橋にまつわる話が記されています。碑文は漢文で刻まれ、工事が終わった1717年に建てられています。
碑文には、主に次のことが記されています。
案内板に掲示されていた『戦前の比謝橋』の写真 |
②比謝橋は昔、小さな木橋で、1667年(康煕6年)と1689年(康煕28年)に木橋修理をおこなったこと。
③石橋工事は6ヵ月余り要し、工事後、人々に喜ばれたこと。
この碑文は沖縄戦で倒れていましたが、昭和39年に現在地に建て直してあります。
ちなみに、石橋は終戦後の昭和28年まで残っていましたが、米軍の道路工事でその姿は失われてしまいました。
読谷村教育委員会≫
・・・とありました。また、『比謝橋碑文』の隣に設置されていたコンクリート製の説明板には、≪読谷村指定文化財(有形文化財)として2012(平成24年)5月23日に指定した。≫とも記されていました。
『吉屋チルー歌碑』と『歌会 比謝矼友竹亭』の顕彰碑 |
向って左側は『古屋チルー歌碑』、右側は『歌会 比謝矼友竹亭』の顕彰碑となっていました。
『古屋チルー歌碑』 |
≪古屋チルー歌碑≫
≪この歌は、女流歌人 古屋チルー(一六五〇~一六六八)の作品で、八歳に那覇仲島の遊廓に身売りされる際、詠んだといわれる。チルーが詠んだと思われる歌は二〇首余あるが、その作品のほとんどは抒情的(じょじょうてき)である。
生地などまだ謎の部分が多いが、『苔の下』を著した平敷屋朝敏をはじめ後世の人々は、チルーの生涯や作品に心を寄せ、歌劇、映画、民謡、歌曲に登場させている。
恨めしい比謝橋は 情のない人が 私を渡そうと思って かけたのでしょうか
平成十七年七月二日 読谷村文化協会≫
・・・とありました。『歌会 比謝橋友竹亭顕彰碑』 |
『戦前の比謝橋』の模型の後方に設置されていた『比謝矼友竹亭』の説明板 |
その活動は、琉歌や三線音楽の発展に大きく寄与したことから、その功績を称えて顕彰碑を建立したんだそうです。
・・・と、ここまで見学した後はクルマへ戻り、そのまま帰路に就きました。
いかがでしたでしょうか?
『嘉手納グスク』の遺構などは、残念ながら残されてはいませんが、ご紹介してきたように、敷地内やその周辺には拝所やカー(井戸)、そして歌碑や顕彰碑などが点在しています。
嘉手納町を訪れた際には、ぜひこちらの方にも立ち寄って、歴史や文化に思いを馳せながら見学してみてください。
少し長くなってしまいましたが、そろそろこの辺で。。。でわでわ☆★☆
☆『嘉手納グスク』(嘉手納町青少年センター)☆
☆場所:〒904-0203
沖縄県中頭郡嘉手納町嘉手納250-1(嘉手納青少年センター)
☆見 学:無料
☆駐車場:あり(嘉手納青少年センター駐車場)