今月6日(火曜日)も、午後から本島南部方面へちょこっとお出かけしてきたんですが、まず最初に向かったのは南城市佐敷にある御嶽。
こちらの御嶽は、もともとは別の場所にあったそうなんですが、1959年の大雨による地滑りによって埋没してしまい、新里集落の拝所である現在の場所に合祀されたんだそうです。
沖縄県南城市佐敷新里にある
『場天御嶽』☆
『イビの森(イービヌムイ)』の中にひっそりと佇む『場天御嶽』の拝所 |
そして、約170mほど進んだところ右側にある脇道へ右折すると、すぐ右側にあります。
『新里農村公園』前の道路から見た『場天御嶽』 |
上の写真にある左斜めに伸びる小道を入ると、すぐ右側にある『場天御嶽』の入口 |
※『佐銘川御殿跡』は、後ほどご紹介致します。
『場天御嶽』の入口には、二つの案内板が設置されていたんですが、その内の1つ『場天御嶽』についての説明から読んでみると・・・
≪場天御嶽≫
≪琉球を統一した尚巴志の祖父佐銘川大主が、伊平屋島を逃れて移り住んだところです。元の場所(新里公民館近く)には屋敷跡や井戸・魚網干し場などもありましたが、1959年の大雨による地滑りで埋没し、現在地に移されました。
正月や5月・6月ウマチーに地域や門中によって拝されています。≫
・・・とありました。
『場天御嶽』の拝所がある平場へと続く階段。 |
≪"東御廻り"の由来≫
≪「東御廻り」とは、沖縄民俗の祖先≪アマミキヨ族≫が住み着いたと伝えられる知念・玉城の霊地巡拝行事です。首里城を中心に、大里・佐敷・知念・玉城を「東方(あがりかた)」と呼んだことから、知念・玉城の聖地巡拝を「東御廻り」と称しました。
久高島は麦の発祥地、玉城は稲の発祥地として国王自ら参詣しました。≫
階段の頂上から林の奥を見たところ。右手前の木の後方にコンクリートの人工物が見えます。 |
階段の頂上に差し掛かると、右側の森の手前に小さな石積みの祠と石柱があるんですが、その石柱には『場天御嶽』と刻まれていました。
階段の頂上右側にある『場天御嶽』の拝所 |
また、奥の林に向かって左側の斜面には『下場天御井戸』という拝所があります。
『下場天御井戸』 |
『場天御嶽』と『下場天御井戸』の2つの拝所の間を通過し、さらに奥へ進むと、3基の拝所があります。
平場にある3基の拝所 |
『伊平屋神(いへやがみ)』の拝所 |
『琉球国由来記』にある『下バテンノ嶽』とは、この『伊平屋神』の拝所だといわれているらしく、神名は『コハツカサノ御イベ』といい、佐銘川大主と大城按司の娘との間に出来た子ども『苗代大比屋(なーしるうふや)』が生まれたところだといわれているんだそうですよ。
『イビ御嶽』 |
こちらの前には説明板が設置されていたので、そちらを引用させて頂きます。
≪イビ御嶽≫
≪イビ御嶽はイビの森にあるムラの祖霊神を祀った拝所です。この御嶽は、集落の守護神として昔から崇拝され、年中行事の際に祀られてきました。一説によると、『琉球国由来記』に記載されている「サキマキャウノ嶽」のことだとされています。
とくに太平洋戦争中は出征兵士の武運を祈ったそうです。≫
・・・とありました。
御天竺神 |
この『御天竺神』の拝所は、『琉球国由来記』にある『上バテンノ嶽』だと考えられており、神名は『サメガア大ヌシタケツカサノ御イベ』といい、佐銘川大主が天の神へ御通しを行う所としていた拝所なんだそうです。
尚巴志の祖父である佐銘川大主は、伊平屋島から逃れてきて、この地(新里公民館近く)に小屋を建て、漁をしながら暮らしていたと伝えられているんだそうですよ。
『場天御嶽』の東側の道路 |
その道路沿いの石垣の上には『上場天御井戸』という拝所があります。
上場天御井戸 |
こちらまで見学した後、今度は『場天御嶽』の入口から西側へ伸びる石畳道へと向かいました。
『場天御嶽』の入口から西側へ伸びる石畳道 |
≪イビの森≫
≪もともとイビの森には、むらの氏神(イビの御嶽)が祀られていました。1959年(昭和34年)のシャーロット台風に伴う豪雨におり、軽石山(通称)付近が崖崩れおよび地滑りをおこし、その際に、佐銘川大主の居住跡一帯が埋没しました。
一年後、佐銘川大主住居跡(場天御嶽)、佐銘川大主住居跡にあった井戸(上場天御井戸、下場天御井戸)、御天竺神(天の神への御通し)、伊平屋神(佐銘川大主の生地である伊平屋島への御通し所で、ヤマトバンタともいう)が、このイビの森に移転されています。
沖縄県南城市教育委員会≫
・・・とありました。先程、冒頭でご紹介した説明板とほぼ同じような内容ですね。
石畳道 |
石畳道は、凸凹してて歩きにくいですけど、比較的綺麗な状態だったため、意外と歩きやすかったですよ。
また、道沿いには古い石垣があったんですが、所々崩れてました。。。
石畳道の終点にあった石段を上がってきたところ。 |
ウンブガー(昔産井戸) |
≪昔産井戸(ウンブガー)≫
≪この井戸は、新里の殿との関連(一鎖)である。新里大主時代に産井戸として用いた所といわれている。字や並里系が拝んでいるほか各門中からも拝んでいる。
2016年1月 新里区長≫
・・・とありました。『新里の殿』とは、この先にある拝所のことです。
『ウンブガー』を見学した後、先程の写真にあった石段へと戻り、さらに上へと向かいます。
階段の頂上にあった開けた場所。右側の一段高くなった場所にある石積みが『新里の殿』です。 |
その場所の反対側へ回り込んでみると・・・
新里ノ殿 |
新里ノ殿 |
≪新里ノ殿(しんざとぬとぅん)≫
≪新里大主の屋敷跡だと伝わり、当家の子孫・門中だけでなく、字全体で拝んでいます。字の風水(フンシー)ともいわれています。≫・・・とありました。
この『新里ノ殿』まで見学した後、『場天御嶽』の入口まで戻り、今度はその向かい側にある『佐銘川御殿跡』を見学することに。。。
『場天御嶽』入口から見た『佐銘川御殿跡』の入口 |
『佐銘川御殿跡』の入口と標柱 |
すると、その敷地内には、トタンで造られた小屋があったんですが、ドアもボロボロで半開きになっていましたね。。。
佐銘川御殿跡 |
半開きのドアの隙間から中を伺わせていただくと、内部には数基の香炉が置かれてました。
以前は、瓦葺きの立派な『佐銘川御殿』があったみたいですよ。
この『佐銘川御殿』は、佐銘川大主にちなむ新里集落の拝所となっているんだそうです。
サミカワ御嶽 |
石碑の中央に記された文字は、どのように読むか分からないんですが、下部に小さな文字で≪尚巴志=当時十六才 百日ニ、書キ添タ事を示ス 故 大城恒信、ヨシ 平成八年旧九月九日≫と記されていました。
この『サミカワ御嶽』について、ネットでちょこっと調べてみたんですけど、何も出てきませんでした。。。
・・・が、もしかすると『尚巴志』に纏わる何かを祀った"御嶽"なのかもしれませんね。。。
※あくまでワタクシ個人の憶測なので、定かではありませんよ。。。
あと、こちらは地滑りが発生したらしく、地面に亀裂が入っており、手前側から立入禁止の規制線が貼られてました。
この『サミカワ御嶽』まで見学させて頂いた後は、そのままクルマへと戻り、『場天御嶽』を後にしました。
『場天御嶽』を出て、"新里ビラ"を南城市親慶原向けに進んで行くと、"ビラ"の途中に史跡がいくつか点在していましたね。
※『ビラ(あるいは"ヒラ")』とは、沖縄の方言で『坂道』のことです。
また日を改めて、そちらも見学しに行きたいと思います。
ちょっと長くなってしまいましたが、そろそろこの辺で。。。でわでわ☆★☆
☆『場天御嶽(イビの森)』☆
☆場所:〒901-1400
沖縄県南城市佐敷新里153
☆見 学:無料
☆駐車場:無し(『佐銘川御殿跡』横に1,2台ほど駐車可能)