南城市玉城の當山集落内に点在する拝所群と4つの石獅子☆|沖縄放浪日記

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2018年8月10日金曜日

南城市玉城の當山集落内に点在する拝所群と4つの石獅子☆

ハイサぁ~イ⭐

今回は、前々回の続きです。

前々回にご紹介した『安次富グスク』『大川グスク』を見学した後、今度は當山集落内に点在する史跡を見学しに向かいました。
今回も少し長くなってしまいますが、ご了承下さいませ。。。

沖縄県南城市玉城當山に点在する

『赤嶺之殿をはじめとする拝所群と4つの石獅子』

伊森之殿の写真
『上江洲神屋』の西方にあったノロ殿内から香炉を移動したと云われる『伊森之殿』
『安次富グスク』の道向かいに集落内へ伸びる道があったので、そちらから集落内へ入っていきました。

集落内には4つの石獅子の石獅子が配置されているんですが、その道の入口に、その4つの石獅子の内の1つが設置されています。
當山の石獅子の写真
當山集落へと伸びる道の入口(左側)。石壁の上に『安次富グスク』の方に向けて石獅子が設置されています。
當山公民館に設置されていた『當山ガイドマップ』によると、4つの石獅子は、集落外からの災厄を防ぐ守り神として集落入口や丘陵上に設置されているのだそうです。
當山の石獅子の写真
集落の入口に設置されている石獅子(1体め)。
また、旧暦の8月15日には、4体すべての石獅子を拝んでいるのだそうですよ。

この石獅子の横から集落内へ入っていくと、すぐ右側に丘陵上へと続く小道があります。
上江洲神屋と上江洲之殿に向かう小道の写真
石獅子横の道路から丘陵上へと続く小道。
この小道を上がると、すぐ右側に新しく造られた階段があるんですが、そこを上がると集落の重要な拝所として大切にされている『上江洲之殿(いーしのとぅん)』と呼ばれる拝所があります。
上江洲之殿の写真
『上江洲之殿』の入口。
階段横には『上江洲之殿』の説明が記された案内板が設置されています。

その説明を読んでみると・・・
上江洲之殿の写真
説明が記された『上江洲之殿』の案内板。
≪上江洲之殿≫
≪上江洲之殿は、志魯・布里の乱(1453年)の後に當山に移住した尚布里を祖先として祀る拝所と考えられています。

赤嶺之殿とともに字の重要な拝所の一つであり、主な祭祀には、正月の初御願、5月15日のウマチー、6月25日のアミシの御願、12月24日のニンシーの御願・トドミの御願があります(いずれも旧暦)。
『上江洲之殿(いーしのとぅん)』の祠。
ウマチーの日には、安次富加那巴志、三津葉多武喜、八幡加那志、百十踏揚の子孫が拝みます。
南城市教育委員会≫
・・・とありました。

説明を読み終え、クルッと右に振り向くと、真新しい祠が設けられており、その中に『上江洲之殿』の拝所が納められていました。
上江洲之殿の写真
祠の内部。右側に『上江洲之殿』、左側に『火神』が祀られていました。
また、祠内部には『火神』も一緒に祀られていましたね。

この『上江洲之殿』の祠がある場所は、ちょっとした広場になっており、祠の前から広場北側へ少し移動すると、広場の隅っこに拝井泉が設けられていました。
上江洲之殿の写真
『上江洲之殿』の祠がある広場。
上江洲之殿の広場にあった拝井泉の写真
広場の北側に設けられていた拝井泉。
そして、この拝井泉の向かい側に茂みがあるんですが、その茂みの中に獣道がありました。

この獣道は、先程の小道の先にある『上江洲神屋』に続いているものと思われます。
上江洲之殿の広場にある獣道の写真
拝井泉の向かい側にある獣道。
ここまで見学した後は、この獣道を進まず、一旦小道へと戻ってから『上江洲神屋』へと向かいました。
上江洲神屋の写真
『上江洲神屋』へと続く石畳道。
『上江洲之殿』の祠の前から小道に下りて、さらに奥へ進んでいくと、その先には古い石畳道がありました。

集落内に設置されていた『第一尚氏ゆかりの文化財群』という説明板の分布図によると、この石畳道の突き当りに『上江洲之殿(いーしかみや)』があるとのことです。
上江洲神屋の写真
石畳道の先にあった『上江洲神屋(いーしかみや)』
石畳道を進むと、その突き当り右側に3棟の家屋があったんですが、どの家屋が『上江洲神屋』の拝所となっているのかは分かりませんでした。。。
上江洲神屋の写真
上江洲神屋
先程の『第一尚氏ゆかりの文化財群』の説明によると、『上江洲神屋』は尚布里とその子孫が祀られているんだそうで、子孫の大城家(屋号:上江洲)が管理しているとのことです。

また、集落の祭祀の際には必ずこちらで拝みを行うんだそうですよ。
當山集落の写真
左の道へ進むと當山公民館。右の小道へ入ると石畳道と『仲西井』に辿り着きます。
當山集落内にある案内板の写真
十字路の角に設置されていた案内板。
『上江洲之殿』と『上江洲神屋』を見学させて頂いた後は、表の道へ戻り、さらに集落内へと向かいます。

『上江洲之殿』・『上江洲神屋』の小道入口前から南向けに進むと、前々回の記事『安次富グスク・大川グスク』をご紹介した際にお話した十字路に差し掛かります。

その十字路をそのまま直進していくと、左側に案内板が立てられている十字路に差し掛かります。
石畳と仲西井の写真
十字路から小道を入ってきたところ。左側の塀に『仲西井』と記された案内板がありました。
その十字路を直進すると『當山公民館』、右折すると『石畳』と『仲西井』、左折すると石獅子がある場所に向かいます。

まずは右折して『石畳』と『仲西井』から見学することに。。。

十字路からしばらく歩いていくと、左側の塀に『仲西井(なかんしがー)』と記された案内板がありました。
石畳と仲西井の写真
直進すると『石畳』、左斜め前に進むと『仲西井』です。
その案内板がある場所から左斜め前へ進み、まずは『仲西井』から見学することに。。。
仲西井の写真
仲西井(なかんしがー)
案内板のある場所から小道を進んでいくと、その先の岩壁に囲まれた場所に『仲西井』がありました。

現在も水が湧いてるようで、"カー"の左手前には水道管が設けられていました。
仲西井の写真
『仲西井』の上部。古い石積みがありました。
『仲西井』を見学し終え、今度は『石畳』の方へ向かいました。

『石畳』は、『仲西井』の案内板からすぐのところにあったんですが、雑草が繁茂しており、長い間草刈り・清掃が行われていないように見受けられましたね。。。
當山の石畳の写真
『仲西井』の後方にある石畳道。
『當山ガイドマップ』によると、かつては集落内の道は大半が石畳道だったそうなんですが、現在はここを含め2ヵ所しか残っていないんだそうです。。。

この石畳道を進んでいくと、集落内の道に出るんですが、そこを右折してちょこっと進むと、右側の木の根元に小さな祠が設けられていました。
赤嶺之殿の写真
道路沿いの木の根元にある『赤嶺之殿』
祠から少し離れた場所に説明が記された案内板が設置されていたので、それを読んでみると・・・
≪赤嶺之殿≫
≪赤嶺之殿は『琉球国由来記』にもその名が見えます。

赤嶺とつく拝所はこのほか産井(うぶがー)の赤嶺井があり、字、門中、個人に拝まれています。
赤嶺之殿の写真
説明が記された『赤嶺之殿(あかんみぬとぅん)』。
主な祭祀には、正月の初御願、5月15日のウマチー、6月25日のアミシの御願、12月24日のニンシーの御願・トドミの御願があります(いずれも旧暦)。

尚布里の移り住む前に赤嶺という有力者が村を支配し、その名が付けられたと推測されますが、その時代はいつかはわかっていません。
南城市教育委員会≫
・・・とありました。
赤嶺之殿の写真
赤嶺之殿(あかんみぬとぅん)
祠の内部には「昭和45年5月1日 竣工」と記された1基の香炉と霊石が納められてました。
赤嶺之殿の写真
訪れた時、祠の上でネコさんがお昼寝してました(笑)
『赤嶺之殿』を見学した後は、来た道を戻って先程の十字路に戻りました。
當山の石獅子の写真
十字路から東向けの小道に入ってきたところ。
十字路に戻ると、今度は東向けに伸びる反対側の道の先へ行ってみることに。。。
當山の石獅子の写真
當山の石獅子(2体め)。
十字路から小道を入っていくと、その先の岩の上に石獅子が設置されているのが見えました。

こちらの石獅子の顔も、冒頭でご紹介した石獅子と同じ顔になっていましたね。
こちらの石獅子は、奥武島の方に向けて設置されていました。
また、この石獅子は『奥武島』の方に向けて設置されていました。

こちらの石獅子を見学した後、また先程の十字路に戻り、今度は『當山公民館』に向かって進んでいきました。
伊森之殿の写真
『當山公民館』に向かう途中の道路沿いにあった『伊森之殿』
十字路から『當山公民館』向けに約40mほど進んでいくと、道路沿い右側に数基の香炉が納められた大きな祠がありました。

この祠の前には、説明が記された案内板が設置されていたので、そちらを読んでみると、こちらは『伊森之殿(いーむいぬとぅん)と呼ばれる拝所なんだそうです。

≪伊森之殿≫
≪かつては上江洲の神屋の西方にあったノロ殿内から、香炉を移動したといわれています。

ノロがキリスト教に改宗したための移動とも伝わります。
伊森之殿の写真
案内板に記されていた説明。
字では、正月の初御願、5月15日のウマチー、6月25日のアミシの御願、12月24日のニンシーの御願などの折に、区民の健康、繁栄、豊年を祈っています(いずれも旧暦)。
南城市教育委員会≫
・・・とありました。
伊森之殿(伊森祝女殿内)の写真
伊森之殿(伊森祝女殿内)
説明を読み終え、祠の内部を見てみると、祭壇は左右に分けられており、右側には7基の香炉が納められており、左側には1基の香炉とそれを囲むように3基の霊石が配置されていました。

たぶん、左側の香炉と霊石は"火之神"が祀られているものと思われます。

また、祠の右側の間口には『伊森祝女殿内』と記されており、左側には『平成五年十月三日 竣工』と記されていました。
當山公民館の写真
當山公民館。
『伊森之殿』を後にし、『當山公民館』に向かいます。

公民館の敷地内には、『當山ガイドマップ』と3体めの石獅子が設置されています。
當山公民館の写真
公民館の敷地内。『當山ガイドマップ』が設置されていました。
まずは『當山ガイドマップ』に記されていた「當山の歴史と文化」「當山のみどころ」を読んでみることに。。。
≪當山の歴史と文化≫
≪當山に最初に住んだ人々は赤嶺の一族だといわれています。その後、三山を統一した尚巴志の子どもである尚布里が移り住みました。

尚布里は正史である「中山世譜」等では王位をめぐって甥の尚志魯(しょうしろ)と争い、首里城が炎上するほどの激しい内乱の中でともに亡くなったと記されています(志魯・布里の乱)。
當山ガイドマップの写真
公民館の敷地内に設置されていた『當山ガイドマップ』
しかし当地では、尚布里はひそかに落ち延び、各地を転々とした後にここ當山に落ち着き、いまの上江洲腹・大屋腹の始祖となったと伝わっています。

志魯・布里の乱(1453年)の後、王位についたのは布里の弟の尚泰久でした。

尚泰久の三男尚徳が王位についたため、異母兄弟である長男の安次富加那巴志、次男三津葉多武喜、四男八幡加那志は、叔父の布里を頼り當山に移り住んだと伝えられています。

このように當山は、第一尚氏と関係が深い地域です。≫
・・・とありました。
當山の石獅子の写真
『當山公民館』の敷地内に設置されていた3体めの石獅子。
≪當山のみどころ≫
≪當山には、尚布里をはじめとする歴史の登場人物にかかわる史跡が多くあり、字の重要な拝所にもなっています。第二尚氏による正史の影に隠された歴史が垣間見えるかもしれません。

また、石灰岩台地に立地する當山には豊富な湧水があるのも特徴で、字の人々の生活を支えてきました。今も多くの井泉が残っています。
當山の石獅子の写真
當山の石獅子(3体め)。
石獅子が多いのも特徴です。集落外からの災厄を防ぐ守り神として字の入口や丘陵上の見晴らしのよい場所に設置されたもので、當山には4体あります。旧暦8月15日にはすべての石獅子を拝んでいます。≫
・・・とありました。

「當山の歴史と文化」・「當山のみどころ」を読み終え、3体めの石獅子を見学。

こちらの石獅子も、先の2体と同じ顔になっており、南西の方角に向けて設置されていました。
當山の石獅子の写真
集落西側の高台にある石灰岩上に4体めの石獅子が設置されていました。
公民館に設置されていた石獅子を見学した後、今度は集落の西側へと移動しました。

公民館前から北西に向けて伸びる道路を道なりに約180mほど進んでいくと、少し複雑になった小さな交差点に差し掛かります。

その交差点の右側に、Uターンするような形で高台に上がる道に進むと、正面に小さな公園があるんですが、その手前左側にある石灰岩の上に4体めの石獅子がありました。
當山の石獅子の写真
當山の石獅子(4体め)。
こちらの石獅子は石灰岩上にあるため、注意深く見学することは出来ませんでしたが、この石獅子は西の方角に向けて設置されているように見受けられました。
當山の石獅子の写真
横から見た『當山の石獅子』(4体め)。
こちらも、先の3体と同じ顔つきとなっているようでしたね。

この石獅子を見学した後、今度は道向かいにある丘陵下へと伸びる道へ進みました。
知眞樋井の写真
丘陵中腹にある『知眞樋井(ちまひざがー)』
坂道を下って、左側にある最初の脇道に入ると、道路沿い右側に『知眞樋井(ちまひざがー)』と記された標柱が立てられた井泉がありました。
知眞樋井の写真
『知眞樋井』と記された標柱。
クルマを近くの路肩にちょこっと停めさせもらい、すぐさま見学へ。。。

標柱の横から井泉のある敷地内に入っていくと・・・
知眞樋井の写真
知眞樋井(ちまひざがー)
奥まった所に、コの字型に造られた『知眞樋井』がありました。

こちらの井泉も、水量は少なめながらも、まだ水が湧いているようで、側溝を通ってチョロチョロと流れ出ていました。

また、表の道から井泉までは石畳になっていました。
加良増井の写真
閑静な集落内の一画にある『加良増井(からましがー)』
『知眞樋井』を見学した後、来た道を戻って先程の交差点に戻り、そこから北西向けに道なりに進んでいきました。

交差点から約90mほどの距離右側にある2つめの脇道に入り、道なりに進んでいくと、道から少し低くなった場所にも井泉がありました。
加良増井の写真
加良増井(からましがー)
井泉の入口には『加良増井(からましがー)』と記された標柱が立てられており、井泉には転落防止のための金網が設置されていました。
加良増井の写真
井泉には転落防止の金網が設置されていました。
こちらもまた、先程の『知眞樋井』と同様に水が湧き出ているようで、水道管が設置されていました。

んで、『加良増井』を見学し終えてクルマに戻ろうとすると、この近くの道端に小さな祠を発見しました。
加良増井近くの拝所の写真
『加良増井』の近くにあった拝所。
近づいて祠の内部を見てみると、内部には1基の香炉が納められており、どうやらこちらも集落の"拝所"となっているようでした。

しかし、こちらの"拝所"は、先程のガイドマップや南城市の資料にも掲載されていなかったため、名称や何を祀ってあるのかなど、詳細は不明です。。。

この小さな"拝所"を見学した後は、クルマに乗り込んで『南城市 農業委員会事務局』前に向かいました。
番所の井の写真
『南城市 農業委員会事務局』の道向かいにある小道の先にあった『番所の井(ばんじゅぬかー)』
『南城市 農業委員会事務局』の道向かいにある小道を進んでいくと、広々とした広場に出るんですが、こちらは昔"南城市役所"(現在の南城市 農業委員会事務局)があった時の市役所駐車場だったようです。

この元・駐車場だった広場の一画にも、井泉がありました。
番所の井の写真
道路と岩壁の間にある『番所の井』。
こちらは、『番所の井(ばんじゅぬかー)』と称される井泉なんだそうで、入口には標柱が立てられていました。

以前ご紹介した南城市玉城富里の『番所公園』内にある『番所ヌカー』とは別の井泉で、こちらは古くから利用されていた井泉です。
番所の井の写真
番所の井(ばんじゅぬかー)
『當山ガイドマップ』によると、こちらは番所(琉球王国時代の村役場)の前にあったことから、こう呼ばれているんだそうで、戦前までは飲料水として使用されていたんだそうです。

現在も水が湧き出ているようで、井泉や側溝には水が流れ出ていました。
番所の井の写真
現在も水が湧き出ていました。
この『番所の井』を見学した後、最後に富里集落と當山集落の間を通る県道48号線沿いにある井泉を見学しに向かいました。

県道48号線(富里集落側)から『安次富グスク・大川グスク』の間(當山集落側)を通って国道331号線に抜ける道路の入口の交差点(点滅信号が設置されている交差点)のすぐ近くに『赤嶺井(あかんみがー)』と称される井泉があります。
赤嶺井の写真
県道48号線から『赤嶺井』に向かう小道の入口。
県道から小道を入っていくと、すぐ右側の奥まった場所にありました。
赤嶺井の写真
『赤嶺井』の入口に立てられていた標柱。
『當山ガイドマップ』によると、『赤嶺井』の水は水質がよく、飲料水として使用されていた村井(むらがー)だったそうです。

また、産井(うぶがー)として拝所にもなっているんだそうですよ。
赤嶺井の写真
『赤嶺井』全景。
以前は旧正月の朝に区民が水を汲んで仏前にお供えし、ミジナデー(水撫で)をしていたとのことですが、現在は新暦正月に行うようになっているんだそうです。
赤嶺井の写真
赤嶺井
こちらの井泉も、現在も水が湧き出ているようで、水が溜まっており、側溝から水が流れ出ていました。

また、井泉の手前左側には1基の香炉が置かれていました。

・・・と、この『赤嶺井』まで見学した後はクルマへと戻り、當山集落を後に致しました。

前々回、今回と當山集落内に点在するグスク跡や拝所、石獅子等をご紹介してきましたが、富里集落と同様に當山集落も、第一尚氏の歴史を身近に感じることのできる地域となっていました。

興味がある方は、実際に足を運んで、歴史に登場する人物にかかわる史跡を見学されてみてはいかがでしょうか?

今回は少し長くなってしまいましたが、そろそろこの辺で・・・でわでわ☆★☆

最後まで読んで下さいまして、誠にありがとうございますm(_ _)m
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『南城市玉城當山の史跡

☆場所:〒901ー0612
      沖縄県南城市玉城當山

☆見 学:無料

☆駐車場:無し

※訪れる際は、くれぐれもマナーを守って、他の来訪者や地元の方々に迷惑をかけないよう、十分気を付けてくださいね。