志多伯集落の祖先によって最初に掘られた井泉をはじめとする拝所群☆|沖縄放浪日記

この記事をシェアする

2018年7月16日月曜日

志多伯集落の祖先によって最初に掘られた井泉をはじめとする拝所群☆

ハイサぁ~イ⭐

前々回、八重瀬町志多伯の5体の石獅子『中ヌ井(ナカヌカー)』などの史跡をご紹介しましたが、今回は志多伯集落内に点在する拝所をご紹介させて頂きたいと思います。
※今回は、ちょっと長くなりますが、ご了承くださいませ。

沖縄県島尻郡八重瀬町志多伯に点在する

『下ムヌ井や御願小之お岳などの拝所群』

下ムヌ井(シムヌカー)の写真
志多伯集落の祖先によって最初に掘られた井戸『シムヌカー』。
まず最初にご紹介するのは、『西部プラザ公園』の東側に位置する『赤石の杜』の東側斜面にある拝所です。

この2ヵ所の拝所がある場所も『西部プラザ公園』内となっており、東向けに伸びるクネクネと曲がりくねった遊歩道沿いに、この2ヵ所の拝所はあります。
『赤石の杜』の東側斜面にある
『赤石の杜』の東門からクネクネと曲がりくねった遊歩道を下っていくと、右側に1本の細い脇道が伸びており、そこを入っていくと、草木が生い茂る藪と小道の間に1基の拝所と2基の拝井泉がありました。
神グサイ井戸・国元の井・クニンダ世ーの写真
手前から『神グサイ井戸』・『国元の井』・『クニンダ世ー』。
拝所は手前側から『神グサイ井戸』・『国元の井』・『クニンダ世ー』と記された3本の石柱が立てられていました。
神グサイ井戸の写真
『神グサイ井戸』。石柱の後方に1基の香炉と遺構らしき白い石が集められていました。
手前にある『神グサイ井戸』の石柱と、その次に立てられていた『国元の井』の間には、手前に1基の香炉が置かれており、その後ろには白い石が集められた遺構らしきものがありました。

この遺構が、『神グサイ井戸』あるいは『国元の井』の遺構なのかは不明です。。。
国元の井の写真
『国元の井』と記された石柱。
そして、次に立てられていたのが『国元の井』と記された石柱なんですが、石柱の後方は藪になっていて、その藪の中や石柱の周辺には、遺構らしきものが見当たらず、先程お話したように、どれが遺構なのかは分かりませんでした。。。
クニンダ世ーの写真
一番奥にあった『クニンダ世ー』と記された石柱。
ほいで、一番奥にあった石柱には『クニンダ世ー』と記されており、この周辺にも遺構らしきものは見当たらなかったんですが、石柱の後方の藪に苔(?)で覆われた石灰岩があったんですが、この岩が『クニンダ世ー』の拝所なのかは、これまた分かりませんでした。。。(泣)
この岩以外に、石積みなどの遺構は見当たらなかったんですよ。。。(泣)
クニンダ世ーの写真
『クニンダ世ー』と記された石柱の後方にあった石灰岩。
この『神グサイ井戸』・『国元の井』・『クニンダ世ー』の拝所を見学した後、遊歩道へ戻ると、その右斜め向かい側にも脇道があったので、今度はそちらへ行ってみることにしました。
御穂田(ミフーダ)の写真
遊歩道から伸びる脇道の先にあった『御穂田(ミフーダ)』。
小道を入って行くと、その突き当りには2基の拝所があり、奥に向かって右側には説明板が設置されていました。

その説明を読んでみると・・・
≪御穂田(ミフーダ)≫
≪志多伯の田んぼの始まりの場所ともいわれ、六月ウマチーにお供えする稲穂が植えられていた。 現在は、稲作発祥伝説の地とされる南城市字玉城百名の受水走水(うきんじゅはいんじゅ)の稲穂を使用。≫・・・とありました。
御穂田(ミフーダ)の説明板の写真
『御穂田(ミフーダ)』の説明板。
どうやらこの一帯は、志多伯集落の田んぼ発祥の地とされているようですね。

んで、説明を読み終え、2基の拝所を見てみると・・・
御穂田(ミフーダ)と金満ウタキの写真
説明板の向かい側にある2基の拝所。
手前側にある拝所は『みふ田』、奥の拝所は『金満ウタキ』となっていました。
みふ田の写真
雑草に覆われてて分かりにくいんですが、手前側にあった『みふ田』の拝所。
金満ウタキの写真
『金満ウタキ』の拝所。こちらには1基の祠が設けられていました。
・・・と、この2基の拝所を見学させて頂いた後は、遊歩道へ戻り、志多伯集落へ向かいました。

『御穂田(ミフーダ)』の拝所へ伸びる小道の前から遊歩道をさらに東へ進むと、右側に集落と繋がる出入口があったので、そこから集落に入ると、すぐ右側に木々が生い茂るこんもりとした小さな丘がありました。
御願小之お岳やミルク川神などの拝所の写真
『御願小之お岳』と『ミルク川神』などの拝所がある小さな丘。
この小さな丘の根元にいくつかのコンクリートブロックが並べられた拝所らしき場所を見つけたので、近づいてみると・・・『御願小之お岳』と記された石柱が立てられた拝所となっていました。
御願小之お岳の写真
丘の石灰岩の根元にあった『御願小之お岳』。
また、この『御願小之お岳』の前から左側に小道が石灰岩の裏側へ回り込むように伸びていたので、そちらの方へ行ってみると・・・
名称不明の拝所とミルク川神の写真
『御願小之お嶽』の裏手にあった『ミルク川神』(写真左)と1基の香炉が置かれた拝所(写真右上)。
丘の斜面に2基の拝所があり、1基は『ミルク川神』と記された石柱が立てられており、もう1基は名称が記された石柱や石板などが設置されていない拝所となっていました。
ミルク川神の写真
斜面下側にあった『ミルク川神』の拝所。
御願小之お嶽の裏手にあった拝所の写真
斜面上部に立つ木の根元にあった拝所。
この『御願小之お岳』や『ミルク川神』などの拝所がある丘から東側に少し進んだ所にも、道路から少し高くなった場所があるんですが、そこにも拝所がありました。
北山・中山の遥拝所の写真
『御願小之お岳』の前から東向けに少し進んだ所にある拝所。
道路から簡易的に設けられている石段を上がっていくと、敷地奥に『北山中山へお通し』と記された石板が立てられており、拝所に向かって左側には説明板が設置されていました。
北山・中山の遥拝所の写真
『北山・中山の遥拝所』。
その説明板を読んでみると・・・
≪北山・中山の遥拝所(ホクザン・チュウザンのウトゥーシ)
≪かつては、三月御願に牛一頭をそのままお供えしていた。 牛の地は葉につけ魔除けとして各家庭をまわったという。≫・・・とありました。
北山・中山の遥拝所の説明板の写真
『北山・中山の遥拝所』の説明板。
説明を読み終え、拝所を見てみると、こちらは石灰岩の上に石板が立てられており、その石板の根元にある石灰岩を香炉代わりにして使用されていました。
北山・中山へお通しの写真
『北山・中山へお通し』の拝所。
この『北山・中山の遥拝所』を後にし、拝所前の道路をさらに東向けに進みます。

すると、最初に差し掛かる十字路の向こう側に小さな説明板が立てられているのを発見したので、今度はそちらへ行ってみることに。。。
大井(ウフカー)の写真
『北山・中山の遥拝所』から東へ約60mほど進んできたところにある『大井(ウフカー)』。
近くの路肩にクルマを停め、その説明板の前へ行ってみると、こちらは『大井(ウフカー)』と称される拝井泉となっているとのことです。
大井(ウフカー)の写真
『大井(ウフカー)』の入口。
その説明によると・・・
≪大井(ウフカー)≫
≪正月の若水(年初めに最初に汲んでお供えする水)として利用されている。 水量が豊富で干ばつでも水が涸れることがなかったという。 昔はこの大井から公民館隣のソーコまで水道を引いていた。≫・・・とありました。
大井(ウフカー)の説明板の写真
『大井(ウフカー)』の入口に立てられていた説明板。
説明を読み終えて入口を入っていくと、左奥に『大井』と記された石柱と1基の香炉が置かれた拝所があり、その右側の一段低くなった場所にはコンクリートで方形に造られた『大井(ウフカー)』がありました。
大井(ウフカー)の写真
入口から見た『大井(ウフカー)』。
大井(ウフカー)の拝所の写真
大井(ウフカー)。
また、入口を入って真正面には立派なガジュマルの木が立っており、このガジュマルに向かって右側には溜池がありました。
大井(ウフカー)の写真
『大井(ウフカー)』の敷地内に立つ立派なガジュマルの木。
大井(ウフカー)の写真
入口を入って右側には溜池がありました。
『大井(ウフカー)』を見学し終え、クルマへ戻ろうとすると、『大井(ウフカー)』の道向かいにも拝井泉があったので、そちらへ移動しました。
下ムヌ井(シムヌカー)の写真
『大井(ウフカー)』の入口の前から見た『下ムヌ井(シムヌカー)』。
この拝井泉にも説明板が設置されていたので、それを読んでみると・・・
≪下ムヌ井(シムヌカー)≫
≪志多伯の祖先によって掘られた最初の井戸である。 志多伯では拝みに行くときは、必ずこの井戸を一番初めに拝んでから大井や他の井戸を拝みに行く。≫・・・とありました。
下ムヌ井(シムヌカー)の説明板の写真
『下ムヌ井(シムヌカー)』の説明板。
説明を読み終え、『下ムヌ井(シムヌカー)』を見学すると、説明板の後方には『下ムヌ井』と記された石板が立つ拝所が設けられており、『下ムヌ井(シムヌカー)』はその前方にコンクリートで方形に造られていました。
下ムヌ井(シムヌカー)の拝所の写真
『下ムヌ井(シムヌカー)』の拝所。
『下ムヌ井(シムヌカー)』は、かなり昔に造られたようで、結構老朽化が進んでいましたね。。。

また、間口には金網が設けられてはいたんですが、こちらもかなり劣化しており、しかも内部に草木が生い茂ってて、内部の様子が全く分からない状態になっていました。。。
下ムヌ井(シムヌカー)の写真
下ムヌ井(シムヌカー)。
志多伯集落で一番最初に掘られた井戸とのことですから、こちらが集落内で一番古い拝井泉となるのでしょうね。。。

この『下ムヌ井(シムヌカー)』まで見学した後はクルマに乗り込んで、先程ご紹介した『御願小之お岳』の方へ一旦戻り、今度はそこから西へ向かいました。

『御願小之お岳』の前から西へ約30mほど進むと、右側の一段高くなった場所へと伸びる階段があるんですが、そこを上がると敷地の奥に『根屋』と称される小屋があります。
志多伯集落の根屋の写真
根屋。
"根屋"とは、ムラの創始者が住んでいた家の事で、祭祀を中心に行う場所を指しています。
(※参考⇒沖縄方言辞典-あじまぁ沖縄『ニーヤー(根屋)』)
志多伯集落の根屋の写真
小屋の隣に立てられていた『根屋』と記された小さな石板。
訪れたこの日は、もちろん祭祀が行われていないため、小屋の戸窓は閉じられていて内部は見ることが出来ませんでした。

志多伯集落のブログを拝見させて頂くと、志多伯集落の『根屋』は、豊年祭では『道ズネー』の際に、野呂殿内の次に2番目に拝みを行うところなのだそうですよ。
(※参考⇒志多伯『村の発祥の地「根屋(ニーヤ)」』)
志多伯集落の根屋の写真
『根屋』の敷地内の左奥にあった拝所。
んで、『根屋』を見学し終えて次の場所へ移動しようとすると、敷地の奥に小さな祠があるのを発見。

その祠へ近づいて見ると、内部には1基の香炉が納められており、その香炉を囲うように3基の霊石が置かれていました。

霊石の形や配置から、こちらの拝所は"火ヌ神"が祀られているものと思われます。
※あくまでワタクシ個人の憶測ですので、定かではありませんよ。。。

こちらの拝所まで見学した後で、次の場所へ移動。。。

今度は『根屋』の前からさらに西へ約65mほどの距離左側に小道を発見したんですが、その小道の先に小さな祠がありました。
中間之殿の写真
道路から少し奥まった場所にある拝所。
その祠に近づいてみると、祠の右側に『中間之殿』と記された石板が立てられており、祠の内部には4基の霊石が納められていました。
中間之殿の写真
中間之殿。
この『中間之殿』を見学した後は、最後に志多伯集落のほぼ中央付近にある拝所へ移動しました。

『御願小之お岳』の前から、南へ伸びる道路を下っていき、約130mほどの距離左側にある脇道へ左折、そして最初に差し掛かる小さな十字路を右折すると、すぐ右側に『東ヌ御嶽』という拝所がある敷地があります。
東ヌ御嶽の写真
『東ヌ御嶽』という拝所がある敷地。
この敷地の前に到着すると、入口後方に説明板が立てられていたんですが、説明が記された紙の上部が外れて反対になってしまっており、道路上からは説明を読むことが出来ませんでした(泣)

んで、入って紙を上げればいいんですけど、こちらの敷地は入口に門が設置されており、しかも閉じられた状態になっていたため、今回は入るのを断念しました。。。

・・・と、ここまで見学した後は、志多伯集落を後にし、次の目的地へと向かいました。

今回は2回に分けて、志多伯集落内に点在する史跡をご紹介させて頂きましたが、5体の石獅子や、『上井(ウフカー)』・『中ヌ井(ナカヌカー)』・『下ムヌ井(シムヌカー)』などの拝井泉、そして『御願小のお岳』などの拝所等々、多くの史跡が点在していてとても驚きましたね(笑)。

『西部プラザ公園』内にある『テミグラグスク(テミグラの杜)』や『フサトモー・クワギブク嶽(金満の杜)』、『赤石の杜』を訪れることがあれば、『西部プラザ公園』を囲う小城集落・当銘集落・志多伯集落にある史跡などにも足を運んで、いろいろ見学されてみてはいかがでしょうか???

今回は、だいぶ長くなってしまいましたが、そろそろこの辺で・・・でわでわ☆★☆

最後まで読んで下さいまして、誠にありがとうございますm(_ _)m
宜しければブログランキングへ 御協力お願い致します。
ブログランキング・にほんブログ村へ  

『志多伯集落内に点在する史跡

☆場所:〒901ー0415
      沖縄県島尻郡八重瀬町字志多伯
☆見 学:無料

☆駐車場:無し

※訪れる際は、くれぐれもマナーを守って、他の来訪者や地元の方々に迷惑をかけないよう、十分気を付けてくださいね。