読谷村喜名の国道58号線沿いに建立されている3基の慰霊塔☆|沖縄放浪日記

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2018年6月21日木曜日

読谷村喜名の国道58号線沿いに建立されている3基の慰霊塔☆

ハイサぁ~イ⭐

八重瀬町にある『西部プラザ公園』や当銘・小城・志多伯集落内に点在する史跡をご紹介させて頂いてますが、今回は場所を変えて、先日足を運んできた読谷村喜名の史跡・戦跡をご紹介させて頂きたいと思います。

今月(6月)の5日、読谷村喜名にある『沖縄そば専門店 まるは』さんで食事を終えた後、帰りがけに同じ喜名集落内にある史跡を数ヵ所回ってきました。

まず最初に向かったのは、『沖縄そば専門店 まるは』さんから国道58号線を南向けに少し下った右側にある丘です。

この丘には日露戦争や支那事変、そして第二次世界大戦(沖縄戦)の戦没者が祀られている3基の慰霊塔(碑)が建立されています。

沖縄県中頭郡読谷村喜名にある

『さくら之塔・梯梧之塔・山吹の碑

さくら之塔・梯梧之塔の写真
読谷村喜名の国道沿いにある丘の上に建立されている2基の慰霊塔。
こちらは、読谷村の国道58号線県道12号線がぶつかる『喜名』の交差点から国道58号線恩納村向けに約250mほど進んで行くと、国道沿い左側にあります。
さくら之塔・梯梧之塔・山吹の碑の写真
国道沿いに建立されている『山吹の碑』。
慰霊塔が建立されている丘のすぐ近くにクルマを停め、まずは国道側に建立されている慰霊碑から見学することに。。。
山吹の碑の写真
国道58号線沿いに建立されている『山吹の碑』。
石碑には『山吹の碑』と記されており、裏面に「碑の由来」が記されていました。

その由来を読んでみると・・・
≪山吹の碑 碑の由来≫
≪曰く第二次世界大戦の最中、吾等が中隊長 黒澤巖氏は第五六飛行場大隊長に転任、昭和拾九年七月同大隊は沖縄北飛行場に配備され、球第九一七三舞台と呼称す。

弐拾年四月壱日未明強大な米軍至近に上陸直ちに應戦するも昼間に兵力の大半を失い已むなく夜襲斬込みを敢行し警備に当る。
山吹の碑の写真
山吹の碑』。左側に「元陸軍大佐長岐準吉 題字」と記されていました。
翌弐日重火器の包囲猛攻受く、彼我の差は歴然、部隊長は負傷者補給隊等に脱出を命じ躬からは手兵を率い出撃に転じ突破口を作られしも、午後参時頃遂に部下将兵と共に散華す。

やがて戦火熄むも激甚な被害に人々の苦悩困憊は深刻なれど、当地区の方々に在りては身を挺され、山野に散乱せる遺骨の蒐集を計り洞窟に収納慰霊碑を建て、梯梧と命名鄭重に祭られる。
山吹の碑の写真
『山吹の碑』の裏面に記された「碑の由来」。
然るに其の地は立入禁止区域となり参詣もままならず、参拾壱年七月合議の上更に浄財を醵出同月拾五日現在地に堂塔を落成し安置す。

斯る間も供養香華の絶ゆる事なき誠心の参拾有余年、只々感無量、茲に謹みて〇を献じ、善根を顕彰、後世に伝へ、併せて当時を偲ひ部隊長はじめ戦没者のご冥福を念じ恒久和平を誓願す。
会長 市川 安雄
昭和五拾五年五月吉日
建立 満洲第一国境守備隊第一地区隊砲兵第二中隊 奉賛会有志一同≫
・・・とありました。

読谷村役場の公式HP内にある『読谷村の戦跡めぐり』内にある『山吹の碑・梯梧之塔』のページによると、この「山吹」という石碑の名は、元日本陸軍砲兵隊員の軍服襟章の色なんだそうで、砲兵隊の歌詞にも「襟には映ゆる山吹色の・・・」とあり、"黄色"を意味しているのだそうです。

『山吹の碑』はもともと喜名区民の善意による遺骨収集作業と『梯梧之塔』への合祀から始まったものなんだそうですよ。
(※参考⇒読谷村の戦跡めぐり『山吹の碑・梯梧之塔』)

『山吹の碑』を見学した後、今度は左の方に建立されていた石柱の前へ向かいます。
北飛行場周辺無名戦没者七百余柱之霊地と記された石柱の写真
丘の上へと続く階段の後方に建立されている『北飛行場周辺無名戦没者七百余柱之霊地』と記された石柱。
石柱には『北飛行場周辺無名戦没者七百余柱之霊地』と記されており、どうやらこの丘の名称となっているようです。
北飛行場周辺無名戦没者七百余柱之霊地と記された石柱の写真
北飛行場周辺無名戦没者七百余柱之霊地』と記された石柱。
この石柱の前をそのまま通過して階段を上がっていくと、丘の上には2基の立派な慰霊塔が建立されていました。
丘の上に建立されていた『さくら之塔』と『梯梧之塔』。
2基の石碑に向って左側は『さくら之塔』と記されており、右側の石碑には『梯梧之塔』と記されていました。

まずは右側に建立されている『梯梧之塔』から見学することに。。。
梯梧之塔の写真
梯梧之塔
『梯梧之塔』という名称の慰霊塔は、糸満市米須にも建立されているんですが、あちらは、沖縄戦で戦没した昭和高等女学校の生徒からなる『梯梧学徒隊』と職員が合祀された慰霊塔で、こちらの『梯梧之塔』は、同じく沖縄戦で戦没した無名戦没勇士七百余柱が祀られた慰霊塔となります。
(※参考⇒沖縄放浪日記『沖縄戦で動員された女子学徒隊の慰霊碑』)

慰霊塔の台座部分には「さきほこる はなびらちりし でいごじゅに くれないそめて なつはきにけり」という詩が刻まれており、後方のバックパネルには沿革と判明している戦没者の芳名が記されていました。

その沿革を読んでみると・・・
≪梯梧之塔沿革≫
≪一九四八年五月(昭和二三年)
喜名部落移動なるや区長松田栄四郎氏は部落東方山地に散乱せる沖縄戦戦没勇士の遺骨を見るに忍びず区長代理漢那朝英氏青年会長平良良孝氏と図り、監視松田徳太郎氏照屋源久氏高良政信氏外数名の援助と青年会全員の協力により遺骨を蒐集し近くにある洞窟に安置し慰霊の碑を立てたので有ります。
梯梧之塔の写真
『梯梧之塔』の後方にあるバックパネルに記された沿革。
南国情緒豊かな梯梧の木を植えたことにより、郵便局長金城清純氏は、梯梧之塔と命名しました。

ところが、その場所は立入禁止区域の為、参拝に不自由をきたしたので、一九五六年七月(昭和三一年)区長玉城平助氏は駐在巡査、内間廣氏、外各位の協力のもと広く浄財を集め数万円の建設資金により七月十五日この梯梧之塔は竣工したのであります。
梯梧之塔の写真
バックパネル左側には「沖縄戦 無名戦没勇士七百余柱の霊」の判明階級氏名が記されていました。
尚、又吉真栄氏は、この地に梯梧之塔、さくらの塔を建立する趣旨に快く参道され、同氏の土地を提供するなど絶大なご協力を賜りました。
建立年月日 一九五六年七月十五日≫
・・・とありました。
(※勝手ながら、"建設委員"の部分は省略させて頂きました。)

また、現在建立されている『梯梧之塔』は再建されたもののようで、沿革の後半部分にその経緯が記されていました。
≪再 建≫
≪これまでの梯梧之塔は、戦後資材の乏しい時代に造られた関係で、その損傷が甚だしく陥没の恐れありと感じた行政区長は、審議員会に図り其の同意を得て再建に乗り出した。

区民外多数のご協力を得て此の旅半永久的に立派な梯梧之塔を完成させることが出来ました。
完成年月日 一九九二年五月三十日≫
・・・とありました。
(※勝手ながら、こちらも"建設委員"の部分は省略させて頂きました。)
梯梧之塔の写真
『梯梧之塔』の右側に建立されていた5基の参拝記念碑。
また、『梯梧之塔』の右側には5基の『参拝記念碑』が建立されていました。

5基のうち、石碑に向かって右側から数えて2番目の『参拝記念碑』の後方にある記念碑は、半分から割れていて文字もほとんど判読できない状態でしたが、針金や石板などで補強してなんとか立たせてる状態でしたね。。。

これらの『参拝記念碑』は、宜野湾村(現・宜野湾市)の青年会や、陸軍飛行隊関係者、群馬縣桐生市 町田忠一氏が建立した記念碑となっていました。
さくら之塔の写真
さくら之塔
『梯梧之塔』を見学した後、最後に『さくら之塔』を見学。

こちらの慰霊塔も、台座部分には「やまざくら あらしにちるも はるくれば いろかはたかく さとにみなぎる」という詩が記されていました。
さくら之塔の写真
『さくら之塔』の台座部分に記されている「日露・支那事変・第二次世界大戦(沖縄戦) 戦没者氏名」
また、台座の左右の側面には「日露・支那事変・第二次世界大戦(沖縄戦) 戦没者氏名」が記されていました。
さくら之塔の写真
「日露・支那事変・第二次世界大戦(沖縄戦) 戦没者氏名」
この『さくら之塔』も、以前は読谷山村役場敷地内に建立されていたそうですが、1959年(昭和34年)に字民の拠金で現在の場所に移築されたんだそうで、塔の右隣には建立年月日と改築年月日が記されていました。
さくら之塔の写真
『さくら之塔』の建立年月日と改築年月日が記された石板。
・・・とここまで見学させて頂いた後は、クルマに戻って次の目的地へと向かいました。

今回はこの辺で終わりにして、この続きはまた別の回にご紹介したいと思います。

それでは、この辺で・・・でわでわ☆★☆

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『さくら之塔・梯梧之塔・山吹の碑

☆場所:〒904ー0302
      沖縄県中頭郡読谷村喜名

☆見 学:無料

☆駐車場:無し

※訪れる際は、くれぐれもマナーを守って、他の来訪者や地元の方々に迷惑をかけないよう、十分気を付けてくださいね。

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