八重瀬町にある『西部プラザ公園』や当銘・小城・志多伯集落内に点在する史跡をご紹介させて頂いてますが、今回は場所を変えて、先日足を運んできた読谷村喜名の史跡・戦跡をご紹介させて頂きたいと思います。
今月(6月)の5日、読谷村喜名にある『沖縄そば専門店 まるは』さんで食事を終えた後、帰りがけに同じ喜名集落内にある史跡を数ヵ所回ってきました。
まず最初に向かったのは、『沖縄そば専門店 まるは』さんから国道58号線を南向けに少し下った右側にある丘です。
この丘には日露戦争や支那事変、そして第二次世界大戦(沖縄戦)の戦没者が祀られている3基の慰霊塔(碑)が建立されています。
沖縄県中頭郡読谷村喜名にある
『さくら之塔・梯梧之塔・山吹の碑』☆
読谷村喜名の国道沿いにある丘の上に建立されている2基の慰霊塔。 |
国道沿いに建立されている『山吹の碑』。 |
国道58号線沿いに建立されている『山吹の碑』。 |
その由来を読んでみると・・・
≪山吹の碑 碑の由来≫
≪曰く第二次世界大戦の最中、吾等が中隊長 黒澤巖氏は第五六飛行場大隊長に転任、昭和拾九年七月同大隊は沖縄北飛行場に配備され、球第九一七三舞台と呼称す。弐拾年四月壱日未明強大な米軍至近に上陸直ちに應戦するも昼間に兵力の大半を失い已むなく夜襲斬込みを敢行し警備に当る。
『山吹の碑』。左側に「元陸軍大佐長岐準吉 題字」と記されていました。 |
やがて戦火熄むも激甚な被害に人々の苦悩困憊は深刻なれど、当地区の方々に在りては身を挺され、山野に散乱せる遺骨の蒐集を計り洞窟に収納慰霊碑を建て、梯梧と命名鄭重に祭られる。
『山吹の碑』の裏面に記された「碑の由来」。 |
斯る間も供養香華の絶ゆる事なき誠心の参拾有余年、只々感無量、茲に謹みて〇を献じ、善根を顕彰、後世に伝へ、併せて当時を偲ひ部隊長はじめ戦没者のご冥福を念じ恒久和平を誓願す。
会長 市川 安雄
昭和五拾五年五月吉日
建立 満洲第一国境守備隊第一地区隊砲兵第二中隊 奉賛会有志一同≫
・・・とありました。読谷村役場の公式HP内にある『読谷村の戦跡めぐり』内にある『山吹の碑・梯梧之塔』のページによると、この「山吹」という石碑の名は、元日本陸軍砲兵隊員の軍服襟章の色なんだそうで、砲兵隊の歌詞にも「襟には映ゆる山吹色の・・・」とあり、"黄色"を意味しているのだそうです。
『山吹の碑』はもともと喜名区民の善意による遺骨収集作業と『梯梧之塔』への合祀から始まったものなんだそうですよ。
(※参考⇒読谷村の戦跡めぐり『山吹の碑・梯梧之塔』)
『山吹の碑』を見学した後、今度は左の方に建立されていた石柱の前へ向かいます。
丘の上へと続く階段の後方に建立されている『北飛行場周辺無名戦没者七百余柱之霊地』と記された石柱。 |
『北飛行場周辺無名戦没者七百余柱之霊地』と記された石柱。 |
丘の上に建立されていた『さくら之塔』と『梯梧之塔』。 |
まずは右側に建立されている『梯梧之塔』から見学することに。。。
梯梧之塔。 |
(※参考⇒沖縄放浪日記『沖縄戦で動員された女子学徒隊の慰霊碑』)
慰霊塔の台座部分には「さきほこる はなびらちりし でいごじゅに くれないそめて なつはきにけり」という詩が刻まれており、後方のバックパネルには沿革と判明している戦没者の芳名が記されていました。
その沿革を読んでみると・・・
≪梯梧之塔沿革≫
≪一九四八年五月(昭和二三年)喜名部落移動なるや区長松田栄四郎氏は部落東方山地に散乱せる沖縄戦戦没勇士の遺骨を見るに忍びず区長代理漢那朝英氏青年会長平良良孝氏と図り、監視松田徳太郎氏照屋源久氏高良政信氏外数名の援助と青年会全員の協力により遺骨を蒐集し近くにある洞窟に安置し慰霊の碑を立てたので有ります。
『梯梧之塔』の後方にあるバックパネルに記された沿革。 |
ところが、その場所は立入禁止区域の為、参拝に不自由をきたしたので、一九五六年七月(昭和三一年)区長玉城平助氏は駐在巡査、内間廣氏、外各位の協力のもと広く浄財を集め数万円の建設資金により七月十五日この梯梧之塔は竣工したのであります。
バックパネル左側には「沖縄戦 無名戦没勇士七百余柱の霊」の判明階級氏名が記されていました。 |
建立年月日 一九五六年七月十五日≫
・・・とありました。(※勝手ながら、"建設委員"の部分は省略させて頂きました。)
また、現在建立されている『梯梧之塔』は再建されたもののようで、沿革の後半部分にその経緯が記されていました。
≪再 建≫
≪これまでの梯梧之塔は、戦後資材の乏しい時代に造られた関係で、その損傷が甚だしく陥没の恐れありと感じた行政区長は、審議員会に図り其の同意を得て再建に乗り出した。区民外多数のご協力を得て此の旅半永久的に立派な梯梧之塔を完成させることが出来ました。
完成年月日 一九九二年五月三十日≫
・・・とありました。(※勝手ながら、こちらも"建設委員"の部分は省略させて頂きました。)
『梯梧之塔』の右側に建立されていた5基の参拝記念碑。 |
5基のうち、石碑に向かって右側から数えて2番目の『参拝記念碑』の後方にある記念碑は、半分から割れていて文字もほとんど判読できない状態でしたが、針金や石板などで補強してなんとか立たせてる状態でしたね。。。
これらの『参拝記念碑』は、宜野湾村(現・宜野湾市)の青年会や、陸軍飛行隊関係者、群馬縣桐生市 町田忠一氏が建立した記念碑となっていました。
さくら之塔。 |
こちらの慰霊塔も、台座部分には「やまざくら あらしにちるも はるくれば いろかはたかく さとにみなぎる」という詩が記されていました。
『さくら之塔』の台座部分に記されている「日露・支那事変・第二次世界大戦(沖縄戦) 戦没者氏名」。 |
「日露・支那事変・第二次世界大戦(沖縄戦) 戦没者氏名」。 |
『さくら之塔』の建立年月日と改築年月日が記された石板。 |
今回はこの辺で終わりにして、この続きはまた別の回にご紹介したいと思います。
それでは、この辺で・・・でわでわ☆★☆
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☆『さくら之塔・梯梧之塔・山吹の碑』☆
☆場所:〒904ー0302
沖縄県中頭郡読谷村喜名
☆見 学:無料
☆駐車場:無し
※訪れる際は、くれぐれもマナーを守って、他の来訪者や地元の方々に迷惑をかけないよう、十分気を付けてくださいね。