琉球王国時代にペリー艦隊が野営した場所と云われる公園や並里・中川両区にある井戸跡☆|沖縄放浪日記

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2018年5月28日月曜日

琉球王国時代にペリー艦隊が野営した場所と云われる公園や並里・中川両区にある井戸跡☆

ハイサぁ~イ⭐

前々回ご紹介した金武町金武にある『當山久三之像』『アナガー』『メーカジメーヌガマ』を見学した後、次に向かったのは並里区の北側に位置する公園です。

こちらは、かつての琉球王国時代に沖縄を訪れていたペリー艦隊が、島内を調査していた際に野営した場所と云われているんだそうです。

当時は、西洋人のことを「ウランダー(オランダー)と呼んでいたことから、この場所は「オランダ森」と称されるようになり、公園名にもその名称が付けられています。

沖縄県国頭郡金武町金武(並里区・中川区)にある

『オランダ森緑地公園と美里共同井戸跡・名古川の泉』

オランダ森緑地公園の写真
『オランダ森緑地公園』内の高台に建立されている『松岡政保先生之像』。
こちらは、金武町の国道329号線県道104号線がぶつかる『金武』の交差点から国道329号線を同町伊芸向けに進み、約460mほどの距離左側にある脇道に左折し、約55mほど進むと左側にあります。
※国道から公園へ向かう脇道入口付近には、目印となるようなお店などが無い為、公園を訪れる際は、Googlemapやearthなどで確認しながら向かって下さいね。

ワタクシも、公園へ向かう際にGoogle earthで確認しながら向かったんですけど、公園入口へ向かう脇道をうっかり通り過ぎてしまったんで、もう一本別の脇道に入ってそこから公園へ向かうことにしました。
芳魂の塔の写真
『オランダ森緑地公園』の北側に位置する『芳魂の塔』。
脇道を入っていくと、ちょうど公園の裏手側になっていたんですが、公園の道路を挟んで反対側に立派な石碑が建立されている場所を発見したので、まずはそちらから見学することにしました。

敷地前の路肩にクルマを停めさせてもらい、その石碑が建立されている場所へ入っていくと、石碑には『芳魂の塔(ほうこんのとう)』と刻まれていました。
芳魂の塔の写真
『芳魂の塔』。慰霊塔を挟んで両側には戦没者御芳名が記された石板が設けられていました。
『芳魂の塔』に向かって両側には戦没者御芳名が記された石板が設けられており、慰霊塔の後方には献花台が設けられていました。

また、慰霊塔に向かって左側の石板の横には碑文が記された石板が設置されていました。
芳魂の塔の写真
『芳魂の塔』。後方には献花台が設けられていました。
その碑文を読んでみると・・・

≪芳魂の塔≫
≪芳魂の塔は、「日露戦争から太平洋戦争の各大戦で尊い命を失った人々の魂の宿る場所であってほしい」という願いから命名した。

この塔は、町出身で日露戦争から太平洋戦争までの軍人・軍属・学徒隊及び一般住民で戦死された一、五〇〇余柱の御霊を祀る。
芳魂の塔の写真
慰霊塔の右側に建立されている戦死者御芳名の石板。
先の大戦では、本県は国内でも唯一地上戦が行われるなど悲惨な戦場となった。

志半ばにして戦争の犠牲となり、最愛の肉親を失った遺族は、戦中戦後の混乱した社会を生き抜いてきた。
芳魂の塔の写真
左側に建立されている戦死者御芳名の石板と碑文。
悲惨な戦争を風化させることなく、平和の尊さを享受できる社会をつくり後世に伝え私たち金武町民は、世界の恒久平和への誓いを込めて記念碑を建立する。≫
・・・とありました。
芳魂の塔の写真
『芳魂の塔』の碑文。
また、この『芳魂の塔』が建立されている敷地の入口横には、白色の細い標柱が立てられており、その標柱には『呉屋原遺物散布地』と記されていました。
芳魂の塔の写真
『芳魂の塔』の敷地入口横に立てられていた『呉屋原遺物散布地』を示す標柱。
どうやらこの一帯からも遺物などが出土した"遺物散布地"となっているようですね。
(※参考⇒コトバンク『遺物散布地』)

『芳魂の塔』を見学し終え、すぐさま公園へと向かいました。
オランダ森緑地公園の写真
『オランダ森緑地公園』北側の入口。
こちらは『オランダ森緑地公園』と称される公園で、冒頭でもお話しましたが、かつて琉球王国時代に沖縄に訪れたペリー艦隊の一行が、島内を調査した際にこの場所で野営した場所と云われているんだそうです。
(※参考⇒金武町公式観光情報visitkintown『オランダ森緑地公園』)

公園の正面入口は南側にあるんですが、『芳魂の塔』を見学した直後だったので、そのまま公園の北側にある入口から進入しました。
オランダ森緑地公園の写真
公園北側の入口を入って来たところ。高台に展望台が設けられていました。
入口を入っていくと、公園内で一番高い場所にすぐにたどり着きます。

その場所は、ちょっとした広場になっており、広場南西側には小さな展望台が設けられていました。
オランダ森緑地公園の写真
展望台から見た景色。水平線上に平安座島や宮城島、伊計島などが見えました。
この展望台からは、水平線上にうるま市に属する平安座島・宮城島・伊計島が見えました。

んで、展望台から広場に目をやると、広場東側に偉人の銅像が建立されていたので、そちらに近づいてみると・・・
オランダ森緑地公園の写真
展望台から見た『松岡政保先生之像』。
コンクリート製の台座に大きな方形の巨岩が設置されていて、その上に銅像が建立されていました。
松岡政保先生之像の写真
松岡政保先生之像。
真ん中の巨岩には『松岡政保先生之像』とだけ記されており、一番下のコンクリート製の台座には「松岡政保先生之略歴」と記された碑文が刻まれていました。

その略歴を読んでみると・・・
≪松岡政保先生之略歴≫
≪松岡政保氏は一九六四年十月、琉球政府第五代行政主席に就任した。当時の沖縄は二十余年におよぶ米国の直接統治下にあって「沖縄における自治は神話である」と高等弁務官が発言したことにより物議をかもし、自治を要求する縣民との間に軋轢が絶えず、騒然とした世想を背景に、青磁、社会が混乱を極めた時代である。

彼は主席就任にあたり「私が最後の任命主席になる」と言明し、以来沖縄自由民主党の総裁を兼ねて、その政治力を結集し自治权の拡大に東奔西走、縣民優先の政治理念に徹して、幾多の布令布告を民立法に改めた。

さらにときの内閣総理大臣佐藤栄作氏の沖縄訪問を要請、現地の実情を視察した総理大臣が「沖縄の復帰なくして日本の戦後は終らない」と縣民にあいさつしたのもこのときである。
松岡政保先生之像の写真
松岡政保先生之像。
その後彼は、総理大臣と相前後してワシントンに飛び、ジョンソン大統領やその他米国政府首脳と沖縄を中心とする諸問題について直接会談し、膠着状態にあった沖縄問題はここに初めて曙光をみるにいたった。

これらの偉大な業績を成しとげた松岡政保氏は、少年の頃から海外雄飛を志し、十五才にしてハワイに渡り苛酷な労働に耐えながら苦学力行し、南カリフォルニヤ大学を經て、トライステイツ工科大学で電気工学士の学位を得、さらにコロンビヤ大学大学院に学び初志を貫いた。

その不屈の精神と欧米的に洗練された自由主義、合理主義の思想を抱いて、昭和初期に帰郷するや嘉手納製糖工場長として沖縄の基幹産業である糖業界の刷新に辣腕をふるい、戰後の処理にあたっては沖縄諮訽委員会の幹事長に選任され、ついで沖縄民政府の工務部長に就任し、第二次世界大戦で灰燼と化した郷土の復興に貢献した功績は特筆に値いする。

行政主席の座にあっては、立法院議員による間接選挙制を実現し再び第六代主席に選任され民選による主席公選制度を確立して、自治权の拡大を採集の目標に近づけ「私が最後の任命主席になる」との公約を実現した。
松岡政保先生之像の写真
一番下の台座に刻まれた略歴。
このように彼は常に沖縄の人々が乗り越えなければならない艱難辛苦の試練に立向ってその先導的役割を果たしてきた。その功績は関係諸外国からも高く評価され、米国陸軍省民間人最高位特別功労勲章、米国大統領民間人特功感謝状、ブラジル国サンパウロ州文化功労十字章等を授与され、さらに一九七〇年の春、栄誉ある勲二等叙勲されたのである。

この偉大な業績を讃え、同志相寄り銅像を彼の生地此処に建立し、永くその栄誉を顕彰する。
西暦 一,九七一年 書 新垣隆優
寄贈 金武村、民政府工務部会 自一九四五年 至一九五〇年 有志一同≫
・・・とありました。
オランダ森緑地公園の写真
銅像が建立されている場所から広場を挟んで向かい側には立派なガジマルの木が立っていました。
『松岡政保先生之像』を見学した後は、銅像の向かい側に立っている立派なガジマルの木の横から公園の正面入口へと向かいました。
オランダ森緑地公園の写真
『オランダ森緑地公園』の正面入口。
公園の正面入口の北側に横長の石碑が建立されており、その石碑には『元琉球政府行政主席 松岡政保氏屋敷跡』と記されていました。
元琉球政府行政主席 松岡政保氏屋敷跡碑の写真
『元琉球政府行政主席 松岡政保氏屋敷跡』碑。
どうやら『オランダ森緑地公園』の一画は、先程ご紹介した『松岡政保先生』の屋敷があった場所となっているようですね。
オランダ森緑地公園の写真
公園北側にある広場。
オランダ森緑地公園の写真
公園の正面入口を入ってすぐのところにある東屋。
この『松岡政保氏屋敷跡』碑を見学した後は、しばし『オランダ森緑地公園』内を散策。
オランダ森緑地公園の写真
公園南側。遊歩道沿いに休憩所が設けられていました。
オランダ森緑地公園の写真
正面入口から少し入ってきた場所から『松岡政保先生之像』を見たところ。
広場や東屋などが設けられていて、綺麗に整備されていて、比較的散策しやすかったんですけど、銅像と石碑以外には拝所などの"史跡"は見当たりませんでしたね。

『オランダ森緑地公園』内を見学した後は、そのままクルマへ戻り、次の目的地へと移動しました。
美里共同井戸跡の写真
美里共同井戸跡。
次に向かったのは並里区内にある共同井戸跡で、『オランダ森緑地公園』後方から南へ約110mほどの距離に位置しています。

こちらにも説明板が設置されていたので、そちらを読んでみると・・・
≪美里共同井戸跡≫
≪[概要]
明治末期から大正初期頃に掘られたスンジャ(井戸)で、ンザトゥ(美里)のスンジャと呼ばれた。付近の10所帯あまりが資金を出し合い、金武村(当時)外から専門の職人を雇って掘ったという。この一帯は深く掘らないと水が出ないため、深さは約21mもあった。
美里共同井戸跡の写真
『美里共同井戸跡』の説明板。
[井戸の様子]
当初の井戸は、滑車は木製、綱はシュロ製、井戸枠は4個の石を加工して円形に組んだものであった。水は飲用のほか生活用水として使われた。

水汲みは子供の役割で、夕方には順番を待つ子供たちが井戸の周囲で遊んでいた。井戸のそばには野菜や農具の洗い場があり、さらにその排水をためるイーチ(池)があった。滑車は昭和初期に金属製へと変わり、井戸枠は1953(昭和28)年頃にコンクリート製となった。
美里共同井戸跡の写真
『美里共同井戸跡(スンジャ)』と刻まれた石碑。
[その後]
1962(昭和37)年の上水道設備の完成により使用されなくなり、1970(昭和45)年頃の道路拡幅工事により埋められた。2006(平成18)年、井戸跡地であることを後世に伝えるため、かつての井戸の使用者たちにより石碑が建立された。≫
・・・とありました。

説明にもあったように、道路拡幅工事で井戸が埋められてしまったため、一見して"井戸跡"と分かるような遺構は無いんですが、当時使用されていた井戸のポンプがそのまま設置されていました。
美里共同井戸跡の写真
『美里共同井戸跡』に設置されていた水道ポンプ。
この『美里共同井戸跡』を見学した後は、そのまま並里区を後にし、この日最後に金武町の北側に位置する中川区へと向かいました。
ナコオガーのイズミ(名古川の泉)の写真
中川区にある『ナコオガーのイズミ(名古川の泉)』。
この中川区内にも、集落の共同井泉があるんですが、こちらは『ナコオガーのイズミ(名古川の泉)』と称されています。

かつてこの井泉は現在の国道にあたる『国頭方東宿道』沿いに位置していたことから、往時の役人や旅人がここで労を癒した場所でもあったと伝えられているんだそうです。

こちらの井泉は、国道329号線県道104号線がぶつかる『金武』の交差点から国道329号線宜野座村向けに進み、約1.2㎞ほどの距離にある2つめの信号を右折して、道なりに約160mほど進んでいくと、道路沿い右側にあります。
ナコオガーのイズミ(名古川の泉)の写真
ナコオガーのイズミ(名古川の泉)。
井泉がある広場の前方に説明板が設置されていたので、こちらもその説明から読んでみると・・・
金武町指定文化財 ナコオガーのイズミ(名古川の泉)
≪一、種別 記念物
 一、指定 平成六年四月二十八日
 一、所在地 金武町字金武一〇四〇八番地

井泉は部落の先人達が生活のなかで造り利用した掘り下げの構造で南西約三五〇メートル地内に集落が多く見受けられる。
ナコオガーのイズミ(名古川の泉)の写真
『ナコオガーのイズミ(名古川の泉)』の説明板。
国頭方東宿道に隣接した井泉は往時の役人や旅人が労を癒したところであったと伝えられている。

井泉は近年まで地域住民の生活用水として利用され、元旦に若水を汲み、産水につかわれたが昭和三十七年に城址同が普及し生活様式の変化により利用されなくなり今日に至っている。

地域の歴史や自然との関わりが消失して行くなかでナコオガーのイズミは部落共同井泉として先人達より引継がれてきた文化遺産である。
金武町教育委員会≫
・・・とありました。
ナコオガーのイズミ(名古川の泉)の写真
正面から見た『ナコオガーのイズミ(名古川の泉)』。
説明を読み終えて、『ナコオガーのイズミ』を見学しに向かうと、井泉は立派なガジマルの木の根元に位置しており、コンクリートブロックで横長に造られていました。

また、その上には転落防止のための金網が設置されていました。
ナコオガーのイズミ(名古川の泉)の写真
金網の隙間から内部を見てみたんですけど、暗くて何も見えませんでした(泣)。
んで、『ナコオガーのイズミ』に近づき、金網の隙間から中の様子を伺ってはみたんですけど、暗くて何も見えませんでした(泣)。

こちらも金武町の文化財(記念物)に指定されてはいるんですけど、その周辺や井戸に雑草が生えてて、あまり手入れが行き届いていない感じでちょっと残念でしたね。。。
出来れば、もう少し綺麗な状態で保存していてほしかったですね。。。

・・・と、ここまで見学した後はクルマに乗り込み、金武町を後にしました。

いかがでしたでしょうか?

何回かに分けて金武町内に点在する史跡をご紹介してきましたが、金武町内にある史跡についてまだあまり詳しくは調べていないので、これから少しずつ調べていき、まだご紹介出来ていない史跡があれば、その都度ご紹介していきたいと思います。

今回もちょっと長くなってしまいましたが、そろそろこの辺で。。。でわでわ☆★☆

最後まで読んで下さいまして、誠にありがとうございますm(_ _)m
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『金武町字金武に点在する史跡

☆場所:〒904ー1201
      沖縄県金武町字金武【中森(ナーカムイ)・ヘーシンバ・ティダガー森林公園・上ヌ毛公園・モウシヌムイ公園・トゥムスズ御嶽・金武大川・慶武田川・その他】
※中川区・並里区・金武区の3行政区は、字金武に属しているため、3行政区内にて見学した史跡を全部まとめてグーグルマップに掲載しました。

☆見 学:無料

☆駐車場:無し

※訪れる際は、くれぐれもマナーを守って、他の来訪者や地元の方々に迷惑をかけないよう、十分気を付けてくださいね。