この前、那覇市首里石嶺町の『そば かねもり家 石嶺』さんで腹ごしらえした後、豊見城市にあるグスク跡を見学しに向かいました。
こちらのグスクは、かの三山時代、中山に対峙するための第一線の拠点『瀬長』・『豊見城』・『長嶺』の各グスクに対し、南山グスクからの中継地としての役割を担う出城だったのでは・・・と考えられているんだそうで、沖縄の伝統的な歌舞劇『組踊』の『未生の縁』の舞台にもなっているんだそうです。
沖縄県豊見城市保栄茂にある
『保栄茂(びん)グスク』☆
グスクの頂上入口向かいには、組踊『未生の縁』ゆかりの地碑が立てられてました。 |
こちらはまず、豊見城市の『那覇空港自動車道(無料区間)』の『豊見城』インターから県道7号線に出て、その県道7号線を糸満市向けに左折し、約1.3㎞ほど進んだところにある4つめの信号を右折します。
そして、その道の突き当りを右折し、またすぐに右折して集落に入り、道なりに直進していきます。
ちょうど直角に道がカーブしているところに差し掛かるので、そこを通過すると右側に小道があるので、そこに入ります。
その小道を、また道なりに進んで行くと、右にUターンするような形で、小道があるので、その道を直進していくと、その奥にあります。
こちらに到着したのは、午後の3時前くらい。。。
かなり分かりづらい場所にあったので、Googleマップで確認しながら向かっていたため、到着するのが少し遅くなってしまいました😅💧
その小道を、また道なりに進んで行くと、右にUターンするような形で、小道があるので、その道を直進していくと、その奥にあります。
東側の農道から見た『保栄茂グスク』 |
かなり分かりづらい場所にあったので、Googleマップで確認しながら向かっていたため、到着するのが少し遅くなってしまいました😅💧
こちらを訪れたことのある方々の各ブログを拝見させて頂くと、なんでもグスクの頂上入口の前まで小道が整備されており、クルマで向かうことが出来るとあったんですよ。
しかし、グスク入口に続く小道をクルマで進んでいくと、その途中にロープが張られており、クルマではそれ以上進むことが出来ませんでした。。。😭
グスク入口に続く小道の途中、ロープが張られていました(泣)💧 |
・・・なので、こちらにそのままクルマを停めさせて頂き、クルマを降りて、徒歩で向かうことに💨
クルマを降りて、小道をしばらく歩いてきたところ。 |
木が小道を跨ぐように倒れており、クルマで進むことが出来なくなってました。。。 |
通行止めの原因は、たぶん、この倒木でしょうね😅
んで、そのまま徒歩で、さらに奥へ突き進んでいくと、小道沿い左側にあった琉球石灰岩の根元に石積みを発見しました。
琉球石灰岩の根元にあった石積み |
石積み。手前に平らなところがあったので、もしかすると拝所となっているのかもしれませんね。 |
この石積みがある場所から、小道をさらに奥へと進みます。
すると、開けた場所にたどり着きました。
小道から見て、斜め左前方に『保栄茂グスク』の標柱と説明板、そしてグスク頂上へと続く階段を発見しました。
また、『保栄茂グスク』の入口の向かい側には、『組踊 未生の縁ゆかりの地』碑が立てられてました。
小道から見て、斜め左前方に『保栄茂グスク』の標柱と説明板、そしてグスク頂上へと続く階段を発見しました。
『保栄茂グスク』入口と、その向かい側にあった『組踊未生の縁ゆかりの地』碑。 |
組踊未生の縁ゆかりの地碑 |
≪よか人の義理や たとひ盲目なて をたむてやり のがす見捨てる 道のまたあるひ
保栄茂按司の娘 玉の乙鶴の台詞より≫
組踊『未生の縁』では、平良グスクの平良按司の若按司『鶴千代』と、ここ保栄茂グスクの保栄茂按司の娘『玉の乙鶴』との出来事や純愛が描かれているんだそうです。
どうやら、平良按司と保栄茂按司は幼馴染だったみたいですね。
・・・と、今回は『保栄茂グスク』のご紹介なので、『組踊・未生の縁』については割愛させて頂きますね😅
『組踊未生の縁ゆかりの地』碑を見学した後、『保栄茂グスク』の頂上へと向かいます。
≪保栄茂グスクは、保栄茂集落の北東側に位置する標高106mの丘陵上に形成されたグスクである。
「豊見城村史(1964年刊)」によれば、三山時代、中山に対峙する第一線の拠点である瀬長、豊見城、長嶺の各グスクに対し南山グスクからの中継地としての役割をもつ出城ではなかったかと考えられている。
「豊見城村史(1964年刊)」によれば、三山時代、中山に対峙する第一線の拠点である瀬長、豊見城、長嶺の各グスクに対し南山グスクからの中継地としての役割をもつ出城ではなかったかと考えられている。
保栄茂グスクの標柱と説明板の横にあった頂上へと続く階段。 |
これまでに実施されたグスク内の試掘調査では、建物の「柱穴跡」と、煮炊きを行ったと思われる「炉跡」が発掘され、その炉跡からは炭化した米や麦が検出されている。
頂上へ続く遊歩道は、綺麗に整備されており、簡単にたどり着くことができます。 |
出土遺物の中でも13世紀頃の青磁片が確認されていることから、グスクの成立および活動時期は13世紀後半から15世紀までの幅が考察される。
市内にある長嶺グスクや平良グスクなどとも時期的にも重なることから、三山時代の南山の出城的性格をもつ城砦ではなかったかと推測される。
※『長嶺グスク』は、2016年4月に一度訪れたことがありましたね。『関連記事』⇒http://oki-night.blogspot.jp/2016/05/blog-post.html
この先が、『保栄茂グスク』の頂上です。 |
このほかグスク一帯には、沖縄戦当時、日本軍によって陣地が構築され、「監視哨」など戦争遺構の一部が現存している。
豊見城市教育員会 平成25年5月≫
・・・とありました。
瀬長グスク・豊見城グスク・長嶺グスクの3つのグスクと、南山グスクの中継地、そして南山の出城として機能していたとされているんですねぇ。。。
瀬長グスク・豊見城グスク・長嶺グスクの3つのグスクと、南山グスクの中継地、そして南山の出城として機能していたとされているんですねぇ。。。
グスク頂上には、大きな岩と拝所らしき場所が2ヵ所、そして真ん中には三角点があります。
頂上にあった大きな岩 |
グスク頂上の三角点 |
大きな岩のすぐ横にあった拝所。以前は一番上に霊石が置かれていたようです。 |
三角点ともう一つの拝所。 |
保栄茂グスク頂上から糸満方面を見たところ。 |
瀬長島方面を見たところ。 |
遠くの方に瀬長島。その奥に薄っすらと慶良間諸島が見えました。 |
説明板と記念碑がある場所から、さらに奥の方に開けた場所があったので、そちらの方へ行ってみると。。。
また、この広場一帯を見渡しても、何もなかったんで、そのまま引き返しました。
そして、もう一方の獣道に行ってみると・・・
そちらは、グスクの東側の農道に出るだけで、こちらも何もありませんでした。
雑草に埋もれたグスク入口付近にあった拝所(?) |
クルマに戻ると、停めてあった場所のすぐ隣に少し開けた場所があり、その奥の方に何かが雑草に埋もれてるのが見えました。
出来るだけ近づいてみると、どうやらこちらも拝所のようでしたね。
こちらの拝所まで見学した後は、そのまま帰路に就いたんですが、保栄茂集落内の来た道を戻っていくと、古い石敢當や石獅子、そして『紀元二千六百年記念国旗掲揚台』がありました。
集落内にあった古い『石敢當』 |
石獅子と石敢當 |
紀元二千六百年記念国旗掲揚台とガジュマルの木 |
紀元二千六百年記念国旗掲揚台 |
んで、こちらにあるコンクリート製の台座は、その当時に、国旗を掲揚するためのものだったようです。
この国旗掲揚台まで見学した後は、そのまま集落を出ました。
いかがでしたでしょうか?
後日、ちょこっと調べてみると、今回ご紹介した『保栄茂グスク』の周辺には、文化財がまだいくつか点在してるみたいなんですよ。
なので、また時間を設けて、こちらの保栄茂集落やその周辺にある他の文化財にも行ってみたいと思います。
少し長くなってしまいましたが、それでは、この辺で。。。でわでわ☆★☆
☆『保栄茂(びん)グスク』☆
☆場所:〒901-0214
沖縄県豊見城市保栄茂
☆見 学:無料
☆駐車場:無し