屋号「モーシ(仲田姓)」の前に位置することからその名がついた森☆|沖縄放浪日記

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2018年5月14日月曜日

屋号「モーシ(仲田姓)」の前に位置することからその名がついた森☆

ハイサぁ~イ⭐

前々回、金武町字金武にある『慶武田川(キンタガー)』をご紹介しましたが、その『慶武田川』を見学した後、今度はその北西側に位置する『モーシヌ森公園』へと移動しました。

こちらは、かつては湧水が出る井泉もあった並里地区の住民にとって、とても重要な場所となっているんだそうです。

沖縄県国頭郡金武町字金武(並里地区)にある

『モーシヌムイ

モーシヌ森公園の写真
『モーシヌ森公園』内にある赤瓦屋根の祠と昭和10年頃に植樹されたと伝わる琉球松。
『モーシヌ森公園』へ移動する際、『慶武田川』西側を通る道路沿いにコンクリート製の建物を発見。
モーシヌ森公園の写真
『慶武田川』西側を通る道路沿いに建てられていたコンクリート製の建物。
その建物に近づいてみると、戸が閉じられてて内部の様子を伺うことは出来ませんでしたが、どうやらこちらも地元に住んでいる門中の"拝所"となっているようでした。
モーシヌ森公園の写真
内部を見ることは出来ませんでしたが、たぶん地元に住む門中の"拝所"と思われます。
この"拝所"らしき建物を通り過ぎると左斜め前方に『モーシヌ森公園』が見えてきます。
モーシヌ森公園の写真
『慶武田川』後方の御嶽森を背にしてみた『モーシヌ森公園』。
上の写真の場所は公園のちょうど南東側になるんですが、公園の入口は北と南、そして西側にあります。
モーシヌ森公園の写真
公園内にある拝所。
この日は、公園南側の入口から入ってったんですが、そこを入ると冒頭に掲載してある写真に写っている赤瓦屋根の祠が目に留まります。
モーシヌ森公園の写真
正面から見た拝所。
モーシヌ森公園の写真
拝所の内部。左側には"火之神"らしき拝所が設けられていました。
その祠へ近づいてみると、内部には祭壇が設けられており、そこには1基の香炉が置かれていて、その香炉の後方に「御嶽」と記された札が立てられていました。
モーシヌ森公園の写真
祭壇の上に置かれていた香炉と「御嶽」と記された木製の札。
また、この拝所の右側には"モーシヌ森(モーシヌムイ)"についての説明板が設置されていたので、そちらを読んでみると・・・
≪モーシヌ森(モーシヌムイ)≫
≪小字仲村渠(ナーカンダカリ)に所在。屋号「モーシ」(仲田姓)の前に位置することが名称の由来である。

かつてゲートボール場跡に湧き水が出る井泉「ヌンドゥルチガー」があり、戦前、金武ノロが正月にアナガー(穴川)、ティーダンガーと共に拝む場所であったといわれる。

現在は公園整備されており、一角には公園整備に際し、移されてきた拝所がある。
モーシヌ森公園の写真
拝所の右側に設置されていた"モーシヌ森(モーシヌムイ)"の説明板。
王府時代(近世期か)にはウドゥンヤーシキ(御嶽屋敷)があったとされ、現在の金武公会堂の方へ移ったとされる。

現在ある松は昭和10年頃に、当時の青年会によって植樹されたものらしい。

明治30年頃以前は村の女性達が祭祀舞踊のウスデーク(臼太鼓)を練習する場所であり、ウスデークは神サギ(神アサギ)にて行われたという。
平成□年3月 並里区事務所≫
・・・とありました。
※説明文最後の□内には何も記載がなかったため、そのまま引用させて頂きました。
モーシヌ森公園の写真
拝所前の芝生が敷き詰められた広場。
んで、この日は、このまま公園を出て次の目的地へと向かってしまったんですが、後日改めて足を運び、公園内をくまなく散策しました(笑)。
モーシヌ森公園の写真
『モーシヌ森公園』北側の入口。こちらには公園の名称が記されたモニュメントが設置されていました。
前回は公園南側から進入したので、今度は北側の入口から進入しました。

この北側の入口から伸びる遊歩道は、南側の公園入口に直結しています。

なので、そのまま進んで行くと、先述した赤瓦屋根の拝所に辿り着くんですが、その拝所がある場所の手前、ちょうど拝所の後方に位置する場所にも小さな祠の拝所がありました。
モーシヌ森公園の写真
赤瓦屋根の後方にあった『川神』が祀られている拝所。
内部には1基の香炉が置かれており、その後方にある小さな祭壇の上には「川神」と記された木製の札が立てられていました。

そしてこの「川神」の拝所の左側には丘の上へと続く階段があったので、今度はそちらの方へ行ってみることにしました。
モーシヌ森公園の写真
「川神」の拝所の左側にある階段。
その階段を上がっていくと、丘の上は木々に囲まれた広場になっていました。
モーシヌ森公園の写真
丘の上にあった広場。
この広場内にも"拝所"があるのかと辺りを歩き回ってみたんですが、こちらには"拝所"は無く、ただ休憩用のベンチが設置されているだけでした。

ただ、この広場は公園の東側からも上がってくることが出来るようになっており、そこには未舗装のスロープが設けられていました。
広場の東側にある丘の上へと続く未舗装のスロープ。
丘の上の広場から上がってきた階段を下りて遊歩道を南へ進み、一旦公園を出ました。

公園を出て今度は公園西側へと移動すると、公園内のゲートボール場では地元の方々がゲートボールの練習をされていましたね。
モーシヌ森公園の写真
公園南側を通る道路上からゲートボール場を見たところ。
先程の説明によると、このゲートボール場には、かつては『ヌンドゥルチガー』と称される拝井泉があったとのことです。
モーシヌ森公園の写真
公園の最西端には赤瓦屋根の東屋がありました。
ゲートボール場を後にし、さらに西側へと移動していくと、公園の最西端の一段高くなった場所には赤瓦屋根の東屋がありました。

この東屋のある場所から公園を回り込むように北側へと移動しながら、他にも"拝所"等がないか調べてはみたんですが、公園内には先程ご紹介した「御嶽」の札がある拝所と「川神」の札がある拝所の2ヵ所しかありませんでした。

そして公園東側を通る道路を挟んで道向かいに立派な石碑が建立されているのを発見。
仲田徳三生誕の地碑の写真
『仲田徳三生誕の地』と記された石碑。
近づいてみると、石碑には『仲田徳三生誕の地』と記されており、台座部分には履歴が記されていました。

この『仲田徳三』という人物についてちょこっと調べてみると、1868年(明治元年)8月5日に金武間切で仲田林之助の長男として生まれ、1890年(明治23年)に沖縄県尋常師範学校を卒業し、二年間、国頭郡内の各小学校で教鞭をとったんだそうです。
(※参考⇒『仲田 徳三(なかだ とくぞう)』)

そしてその後は、1892年(明治25年)に県費留学生として東京の第二本水産会附属水産伝習所で学び、1894年(明治27年)に卒業。その後帰郷して水産事業を起こしますが、成功せず、一時期鹿児島県に住んだ後にまた帰郷し、今度は国頭高等小学校・恩納小学校にて教員を務めたんだそうです。
仲田徳三生誕の地碑の写真
仲田徳三生誕の地碑。
さらにその後は1900(明治33年)12月、台湾の台湾国語学校で研修を受け、1901年(明治34年)5月から台中苗栗学校で教鞭をとったとのことです。

1903年(明治36年)8月には、再度帰郷し金武間切長(金武村長)に就任して1905年(明治38年)8月まで在任。そしてその後に再び上京し、日本大学で法政経済を学んだんだそうです。

さらにさらにその後は、1909年(明治42年)には第1回県会議員選挙で当選し、県議に連続三期選出されて、県会議長も務めたんだとか。
(※参考⇒『仲田 徳三(なかだ とくぞう)』)
仲田徳三生誕の地碑の写真
台座に記されていた『仲田徳三翁の履歴』。
そしてさらにさらにさらに!1920年(大正9年)5月には第14回衆議院議員総選挙で沖縄県第四区から民友倶楽部(立憲政友会系)所属で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めたんだそうです。

そして、任期満了後は農業に従事し、1962年(昭和37年)、満94歳でこの世を去ったのだそうです。。。
(※参考⇒『仲田 徳三(なかだ とくぞう)』、Wikipedia『仲田徳三』)

金武に生まれ、沖縄県内だけでなく、県外・海外でも活動を続けた凄い人の石碑だったんだですねぇ。。。

・・・と、こちらの石碑を見学した後は、帰りがけに並里地区の東側の少し離れた場所にある拝井泉を見学しに向かいました。
茶川(サーガ)の写真
『金武養鰻場』の近くにある『茶川(サーガ)』への入口。
こちらの拝井泉は、並里地区から少し離れた東側にある『金武養鰻場』の近くにあります。
(※参考⇒『金武養鰻場』、場所は『金武養鰻場』をGooglemap等で確認してください。)

ワタクシもこの拝井泉の正確な場所を把握していなかったため、とりあえず『金武養鰻場』の南側に向かいました。

すると、『金武養鰻場』南側を通る道路に1ヵ所だけ養鰻場裏手に伸びる小さな小道があったんですよ。

んで、近くの空きスペースにクルマを停め、徒歩でその小道へ入っていくと、すぐ左側にヤギ(山羊)の飼育小屋があり、そこで作業をしていた方がいたので、拝井泉の場所を尋ねると、「この奥のガジマルの木の下ですよ」と親切丁寧に教えて下さいました。
茶川(サーガ)の写真
小道から拝井泉へと伸びる小道。右側は『金武養鰻場』です。
飼育小屋を後にし、さらに小道を進んでいくと、道が二手に分かれていたんですが、右側の小道の先に大きなガジマルの木を発見。

んで、そのガジマルの木の下に拝井泉らしき場所があったので、右側の小道を進んでいきました。
茶川(サーガ)の写真
『茶川(サーガ)』の後方に立つ大きなガジマルの木。
こちらは『茶川(サーガ)』と称される拝井泉で、金武町の文化財(記念物)に指定されています。
茶川(サーガ)の写真
『茶川(サーガ)』。
『茶川(サーガ)』の横には説明板が設置されていたので、そちらを読んでみると・・・

金武町指定文化財 茶川(サーガ)≫
≪一、種別 記念物
 一、指定 平成三年十二月二十四日
 一、所在地 金武町字金武一二〇四一番地の二

茶川の井泉は琉球石灰岩基盤の多孔質より湧き出る自然的な古い形態をとどめている井泉である。

金武の湧泉のなかで最も水質が良く、お茶水として使用されたので茶川と云う名称が伝承されている。
茶川(サーガ)の説明板の写真
『茶川(サーガ)』の説明板。
豊富な湧水は水田から水田に送る田越灌漑により農業用水に利用され、また地域住民の飲料水や洗濯場であった。

井泉の後方約一五〇メートルの美里原台地には沖縄貝塚中期の並里美里原遺跡が所在していることから、井泉は古くから地域住民の生活文化と麩かい関わりを持った井泉で、先人達より継承し利用されてきた井泉である。
金武町教育委員会≫
・・・とありました。
茶川(サーガ)の写真
反対側から見た『茶川(サーガ)』。
『茶川(サーガ)』は、3つの貯水槽に区分けされており、一番大きな貯水槽の後方、ガジマルの木の根元から水が湧き出ており、その場所の右側には1基の香炉が置かれていました。
茶川(サーガ)の写真
『茶川(サーガ)』の湧水が出ている場所の右側に置かれていた1基の香炉。
また、水は透明度が高く、先の説明にもあったように現在も綺麗な水質が保たれているようでしたね。

そして香炉が置かれている場所の右横には階段があったんですが、この階段は先程の小道の分岐点から左側に伸びる小道と繋がっており、ガジマルの後方から『茶川(サーガ)』にたどり着くようになっていました。

・・・と、この『茶川(サーガ)』まで見学した後はクルマへと戻り、また次の史跡へ移動しようとしたんですが、だいぶ陽も暮れかけてきてたこともあり、この日はこのまま帰宅の途に就きました。

金武町内には、ご紹介していない史跡がまだいくつか残っているんですが、この続きはまた別の回にご紹介したいと思います。

それでは、そろそろこの辺で。。。でわでわ☆★☆

最後まで読んで下さいまして、誠にありがとうございますm(_ _)m
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『金武町字金武に点在する史跡

☆場所:〒904ー1201
      沖縄県金武町字金武【中森(ナーカムイ)・ヘーシンバ・ティダガー森林公園・上ヌ毛公園・モウシヌムイ公園・トゥムスズ御嶽・金武大川・慶武田川・その他】
※中川区・並里区・金武区の3行政区は、字金武に属しているため、3行政区内にて見学した史跡を全部まとめてグーグルマップに掲載しました。

☆見 学:無料

☆駐車場:無し

※訪れる際は、くれぐれもマナーを守って、他の来訪者や地元の方々に迷惑をかけないよう、十分気を付けてくださいね。