八重瀬町安里にある沖縄戦の最中に火砲一門のみで戦った部隊の慰霊碑☆|沖縄放浪日記

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2016年11月20日日曜日

八重瀬町安里にある沖縄戦の最中に火砲一門のみで戦った部隊の慰霊碑☆

ハイサぁ~イ‼

以前、テレビを見てたら、夕方のローカルニュースで八重瀬町にある旧日本軍の部隊の慰霊碑にて慰霊祭が行われたとの放送があったんですよ。

その放送によると、この慰霊祭を行うのは、今回で最後とのこと。。。

なんでも、慰霊祭を執り行う遺族や関係者の方々が、ご高齢となっており、慰霊祭を続けていくのは厳しい状況になっているんだとか。

んで、その放送を見たあとで、ぜひともこの慰霊碑を見学させて頂きたいと思い、今回、お邪魔させて頂きました。

沖縄県島尻郡八重瀬町安里にある

『独立高射砲第二十七大隊英霊の碑』

独立高射砲第二十七大隊英霊の碑の写真
敷地内には『独立高射砲第二十七大隊』の高射砲も保存されていました。
こちらは、八重瀬町糸満市のちょうど境にある、県道52号線15号線がぶつかる『高良』の交差点から、県道15号線を八重瀬町仲座向けに約2.6㎞ほど進んで行くと、県道沿い右側にあります。
独立高射砲第二十七大隊英霊の碑の写真
独立高射砲第二十七大隊英霊の碑
この日、こちらに到着したのは、午後の3時半過ぎくらい。

こちらには、駐車場が無いため、近くにちょうど1台分くらいのスペースがあったので、そちらにちょこっとだけ駐車させてもらい、すぐさま見学を開始しました。
県道15号線の写真
県道15号線(八重瀬町平良方面を見たところ)
県道15号線の写真
県道15号線(八重瀬町仲座方面をみたところ)
慰霊碑のある敷地入口には灯籠が立てられており、敷地を囲う塀には、『独立高射砲第二十七大隊英霊の碑』に纏わる説明版が設置されていました。

その説明によると・・・

≪独立高射砲第二十七大隊英霊の碑≫
≪旧沖縄派遣独立高射砲第二十七大隊(球第一二五一七部隊)は、昭和十九年五月二十日、山口県下関高等女学校にて編成完結、同月二十三日汽車にて下関から鹿児島へ向かい、二十四日仮兵舎第七高等学校(現鹿児島大学)に宿泊、二十八日輸送船「富山丸」にて鹿児島港を出港、途中、徳之島近海にて敵潜水艦の魚雷攻撃を受けるも、六月一日那覇へ上陸、八月一日現地沖縄召集兵入隊、十一月三十日鹿児島県大島郡出身者現役兵入隊、翌二十年二月一日重砲第四連隊先原崎照空分隊を編入し、二十七大隊は、将兵五七四名(大隊本部約一〇〇名、第一、第二、第三の各中隊にいづれも約一五〇名)で編成される。
陸上自衛隊 南与座分屯地の写真
近隣には『陸上自衛隊 南与座分屯地 第4高射中隊』の基地があります。
二十七大隊本部(大滝大隊長)は、那覇市小禄垣花台地、第一中隊(中村中隊長)は、那覇市小禄四八・二高地、第二中隊(内田中隊長)は、なあh氏天久台地(四九・五高地)、第三中隊(光本中隊長)は、中頭郡読谷村座喜味城址、照空隊を天久・先原崎、聴測隊を那覇市波之上にそれぞれ配備する。

昭和二十年五月、軍の総攻撃に参戦するため大隊本部及び第二中隊の主力は宮城陣地へ、第三中隊は神里へ転進、同月上旬、大隊本部は新川陣地(南風原北側高地)、さらに、大隊本部及び小禄地区に配備されていた第一中隊は具志頭、第二中隊はの主力は与座中座付近に転進、同月下旬、第一中隊は小渡陣地に転進、第二中隊、第三中隊も大隊本部と合流するが、この間の戦闘において、第一中隊長負傷、第二、第三中隊長戦死するなど多くの将兵が死傷し、第三中隊将兵で小渡の大隊本部陣地にたどり着いた者は数名であった。
独立高射砲第二十七大隊英霊の碑の説明版
六月十日前後、第三中隊の主力を除き、各隊は小渡の大隊本部陣地に集結し、最後の決戦場として陣地の強化を図るも、この時点で部隊の火砲は一門のみであった。

六月二十日、生存者の約半数を数班に分けて夜間敵陣突破切り込みを実施すべく配備中、敵軍との交戦を行うも、大隊将兵に死傷者が続出し、遂に、昭和二十年六月二十三日夜、独立高射砲第二十七大隊は玉砕するに至った。

二七会の調べでは、沖縄戦における独立高射砲第二十七大隊将兵五七四名中四六四名が戦死であった。
合 掌≫
・・・とありました。(独立高射砲第二十七大隊英霊の碑 説明文より引用)

この説明によると、第二十七大隊は、最後は第三中隊以外の隊が本部陣地に集結したにもかかわらず、敵を攻撃するための高射砲は、たった一門のみだったんですねぇ。。。
独立高射砲第二十七大隊英霊の碑の写真
右側から『戦没者名碑』、『高射砲』、『聖観音像』、『故陸軍軍曹勲七等 岩上東八郎碑』
人員はいるのに、攻撃するための武器がこの一門のみって・・・(泣)

さらに、この一門で攻撃を仕掛けようにも、一発撃つと、結局、敵に居場所を知らせてしまうようなものですからね。。。

この『独立高射砲第二十七大隊英霊の碑』の敷地内には、『第二十七大隊(球第一二五一七部隊)』の戦没者名碑、『高射砲』、『聖観音像』、『故陸軍軍曹勲七等 岩上東八郎碑』が建立されています。
第二十七大隊戦没者名碑の写真
独立高射砲第二十七大隊(球第一二五一七部隊)の戦没者名碑
先程の説明の最後にも記載されていたように、第二十七大隊(球一二五一七部隊)は、574名中464名が戦死されたんだそうです。

戦没者名碑の両側には、戦没者の名が刻まれた石板が建立されています。
高射砲の写真
大隊本部が使用していた高射砲
そして、この戦没者名碑のすぐ隣には、『高射砲』が保管されています。

少し近づいてみると、かなり劣化が進んでいることが分かります。
高射砲の先端部分の写真
高射砲の先端部分
高射砲の可動部分の写真
可動部分
高射砲の可動部分の写真
可動部分(反対側から)
特に、可動部分は、劣化・・・というよりも、高熱に晒されて溶けてしまっているように見えましたね。

もしかすると、敵の攻撃を受けた際に、炎に晒されて溶けてしまったのかもしれませんね。。。

そして、『高射砲』の左隣には、『聖観音像』が建立されています。
聖観音像の写真
聖観音像
『聖観音像』の台座部分の両側には、遺族世話人一同の氏名が刻まれていました。

そして、手前の香炉には『二七会』と刻まれていました。

この『二七会』の発足の経緯についても、先程の説明版に記されています。

≪二七会発足の経緯≫
≪戦後、沖縄で散華した戦没将兵の遺骨収集に執念を燃やし続けた藤島巌、古川幸人をはじめ、叶兼光、安田正、渡辺憲央、板尾利彦など同じ部隊の生存戦友で昭和四八年八月に二七会を結成、昭和五十年一月、戦没将兵遺家族、生存戦友、同遺家族、部隊関係者等の総意によって、第一回の遺骨収集と慰霊祭を開催、以後、不定期に慰霊祭を開催し、平成七年三月の五十回忌法要・慰霊祭後二七会の魁さんを予定するも、法要参加者継続要望が強く、同年秋に新たな二七会を発足させる。

以後、二七会会員、戦没将兵遺家族、生存戦友、同遺家族、部隊関係者、瀬戸口弘訓普照寺住職、沖縄駐屯自衛隊隊員、地元沖縄住民の方々など多くの人達の協力で今日に至る。≫
・・・と記されていました。(独立高射砲第二十七大隊英霊の碑 説明文より引用)
岩上東八郎碑の写真
故陸軍軍曹勲七等 岩上東八郎碑
そして、一番左側には『故陸軍軍曹勲七等 岩上東八郎碑』があります。

・・・が、こちらの石碑については、先程の説明版にも記されていませんでしたし、後日、ネットでいろいろ調べてみたものの、詳細は全く分かりませんでしたね。。。
独立高射砲第二十七大隊英霊の碑の写真
入口と反対側から見た『独立高射砲第二十七大隊英霊の碑』
また、説明によると、こちらの『独立高射砲第二十七大隊英霊の碑』は、以前は、糸満市小渡(現在の糸満市大度になるんでしょうか。。。)の本部壕跡の上にある『沖縄ファミリーランド』内にあったそうなんですが、平成14年2月に、この場所へ移転したんだそうです。

≪慰霊碑等建立の経緯≫
≪この慰霊碑等は、恒久平和を願う「二七会会長、戦没将兵遺家族、生存戦友、同遺家族、部隊関係者等」の協力によって、独立高射砲第二十七大隊終焉の地である糸満市小渡の本部壕跡の真上に所在する沖縄ファミリーランド内に、同ファミリーランドを所有する玉城英世氏の好意により無償で提供を受け、慰霊碑、聖観音像等を建立していたが、都合により、平成十四年二月、第一中隊、第二中隊陣地跡に近いこの具志頭村へ移転したもので、この土地は、東風平在住の神谷房徳氏が無償で使用権を、高射砲(大隊本部が使用していたもの)は、玉城英世氏が無償で所有権を二七会へ提供されたものである。≫
・・・とありました。(独立高射砲第二十七大隊英霊の碑 説明文より引用)

ワタクシが見たローカルニュースの放送によると、今後、慰霊祭は行われないとのことでしたが、これからも、大切に保存して、後世に受け継いでいかないといけませんね。。。

こちらは、県道沿いにあるので、八重瀬町安里の県道15号線を通る際は、こちらにもぜひ立ち寄ってみてくださいませ。

それでは、そろそろこの辺で。。。でわでわ☆★☆

最後まで読んでくださって、ありがとうございますm(_ _)m
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☆『独立高射砲第二十七大隊英霊の碑』☆

☆場所:〒901-0514
      沖縄県島尻郡八重瀬町安里

☆見 学:無料

☆駐車場:ナシ