ハイサぁ~イ☆
今日(23日)と明日(24日)の二日間、沖縄米軍基地『ホワイトビーチ』にて開催が予定されていた『ホワイトビーチフェスティバル2016』は、延期されることが決定したんだとか。。。
※参照元⇒Navy MWR,Okinawa
在沖米海軍艦隊活動司令部のツイッターでも、『九州地方における震災の諸般の事情を考慮して延期することとなりました』とツイートされてました。
『ホワイトビーチ』は、米軍と海上自衛隊が共同で運用している基地で、フェスティバルは海上自衛隊が開催運営しているとのこと。
なので、今後、こちらの海上自衛隊が、熊本県を中心に九州地方での活動が予想されることから、今回の延期が決定したそうなんです。
熊本県を中心に被災した九州地方が、一日も早く復興・復旧されることを心より願っております。
さてさて☆
前々回、『嘉数護獅子』と嘉数公園西側にある拝所などをご紹介しましたが、同公園内を見学した後、この近くにある戦跡を見学しに向かいました。
まず最初に向かったのは・・・
沖縄県宜野湾市嘉数にある
こちらは、まず『嘉数高台公園』駐車場の道向かいにある自動販売機後ろの道に入り、道なりに進んで行きます。
次に、二つめの十字路を過ぎて、約80mほど進んだ所にある角を右折し、少し進んだところ左側にカーブミラーがありますので、そのカーブミラーの隣りにある遊歩道奥にあります。
遊歩道と言っても、舗装されている部分は最初の方だけで、あとは未舗装となり、獣道みたいな感じになっています。
奥に行くにつれ、傾斜がキツくなるので、あまり奥に行かない方がいいと思います。
『嘉数ミーガー』に続く道は、定期的に草刈り・清掃が行われているらしく、比較的綺麗な状態だったんですけど、傾斜がキツくなる場所近辺は、落ち葉などが積もっており、また苔などが生えてたりするので、滑りやすくなっていました。
『嘉数ミーガー』は、その名のとおり『ガー(井泉)』となっているんですが、縦穴を下りていくと、横穴があるそうで、そこは、かつて沖縄戦の際に、旧日本軍が防空壕として使用していたんだそうです。
また、こちらには、区の住民たちも避難していたそうなんですが、戦火が激しくなってきたので、現在の浦添市牧港にある『チヂフチャー洞穴遺跡(市指定史跡)』へと避難したんだとか。。。
『チヂフチャー洞穴遺跡』に避難した後、さらに本島南部方面へと避難したとのことです。
ネットでいろいろ調べてみたんですが、『嘉数ミーガー』については、これぐらいの情報しか出てきませんでしたね。。。
『嘉数ミーガー』を、下の方が見える位置まで進み、そこから覗きこんでみると・・・
不法投棄されたゴミが、いくつか散乱しているのが見えました。。。
ガー(井泉)は、沖縄では神聖な拝所なっているはずなのに、ゴミを投棄するなんて。。。ちょっと悪質ですね。。。
『嘉数ミーガー』を見学した後、次に向かったのは、グスク跡の
グスク跡と言っても、城壁などの遺構はおろか、御嶽や拝所などもなく、現在は私有地となっており、丘の上には個人宅が建っています。
また、道路沿いの斜面は、墓地となっています。
しかし、以前、発掘調査が行われた際には、土器や類須恵器、中国製の陶磁器などが発掘されているんだそうです。
※類須恵器・・・11世紀~14世紀頃の琉球列島で広く流通した素焼きの陶器のことです。(沖縄県立博物館・美術館の公式HP『学芸員コラム』のページより、一部引用)
遺構などもなく、また立ち入ることもできないのに、なぜ、こちらに来たのかとゆーと、この遺跡の北東側にも、旧日本軍の慰霊碑が建立されているとのことでしたので、そちらを見学したかったからなんです。
先程の『嘉数ウチグスク遺跡』の全景が写っている写真の下の方に道路が写っていますが、この道路から、遺跡の後方へ向かうように道なりに進んで行くと、その慰霊碑の入口に辿り着くことができます。
道路沿いに案内板が立てられているんですけど、小さくてあまり目立たないので、見落としてしまいそうになります。
『嘉数ウチグスク遺跡』から来ると、慰霊碑入口のすぐ隣には、介護老人保健施設『ぎのわんおもと園』がありますので、そちらを目印にすると見つけやすいと思います。
入口を入ると、小さな階段が下の方に伸びており、慰霊碑はこの奥の突き当りにあります。
階段を下り切ると、今度は右方向に小道が伸びており、慰霊碑へと続いてました。
まず、目に入ってくるのは、『六十二師団 独歩二十三大隊慰霊碑』の裏側。
そして、その右側には『球 一四二一二下田部隊』の慰霊碑が建てられているが見えます。
『六十二師団』とは、『第62師団独立混成旅団(師団長:藤岡武雄中将)』のことを指しているらしく、『独歩二十三大隊』とは、その『混成旅団』の中の『独立歩兵第23大隊(山本重一少佐)』のことみたいですね。
この『第62師団独立混成旅団』は、熾烈を極めた『嘉数の戦い』において、嘉数高地に配備された部隊なんだとか。。。
んで、『球 一四二一二下田部隊』とは、『独立混成第44師団区分のその他部隊』に分類されている『独立歩兵第272大隊(独混第45旅団)』のことみたいです。
最初に付けられている『球』は、防諜(機密情報が敵にバレないようにする)のための各部隊に付けられた通称号なんだそうで、沖縄戦の際は、『球』の他に『石』、『山』などの通称号が使用されていたんだそうです。
そして、この『独立歩兵第272大隊(独混第45旅団)』の大隊長が『下田直美大尉』であったことから、『下田部隊』と呼称されたみたいですね。
ちょっと難しいですね。。。( ̄▽ ̄;
『第62師団独立混成旅団』は、30からなる部隊から構成されていたみたいで、こちらの慰霊碑は、その中の『六十二師団 独歩二十三大隊』と、3つの部隊から成る『独立混成第44師団区分その他部隊』に分類されている『球 一四二一二下田部隊(独歩第272大隊)』の二つの部隊の慰霊碑が、こちらに建立されているんですね。
『独歩二十三大隊』の慰霊碑の表側には、
七生報國ノ斗魂今ヤ祖國ノ興隆ニ見ル
萬世ニ其ノ偉勲ヲ称エ謹ンデ茲ニ殉國ノ英霊ヲ弔フ
嘉数高台をめぐって16日間行われた戦闘は、沖縄戦の中でも最大級の戦闘の一つで、日本軍が頑強に抵対したため、対する米軍からは、「死の罠」とか「忌々しい丘」などと呼ばれたんだそうです。(Wikipedia『嘉数の戦い』のページより一部引用)
こちらで弔われている方々が、この嘉数高地で、その激戦を繰り広げていたんですね。。。合掌
ここまで見学させてもらった後は、再び『嘉数高台公園』まで戻り、この日は、そのまま帰宅致しました。
沖縄には、数えきれない程の戦跡が点在しています。
これからも、少しずつご紹介できればと思います。
それでは、この辺で。。。でわでわ☆★☆
最後まで読んでくださって、ありがとうございますm(_ _)m
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☆『嘉数ミーガー・嘉数ウチグスク・
六十二師団 独歩二十三大隊慰霊碑・
球 一四二一二下田部隊慰霊碑 』☆
☆場所:〒901-2226
沖縄県宜野湾市嘉数
☆入場料:無料
☆トイレ:無し
☆駐車場:無し
今日(23日)と明日(24日)の二日間、沖縄米軍基地『ホワイトビーチ』にて開催が予定されていた『ホワイトビーチフェスティバル2016』は、延期されることが決定したんだとか。。。
※参照元⇒Navy MWR,Okinawa
在沖米海軍艦隊活動司令部のツイッターでも、『九州地方における震災の諸般の事情を考慮して延期することとなりました』とツイートされてました。
『ホワイトビーチ』は、米軍と海上自衛隊が共同で運用している基地で、フェスティバルは海上自衛隊が開催運営しているとのこと。
なので、今後、こちらの海上自衛隊が、熊本県を中心に九州地方での活動が予想されることから、今回の延期が決定したそうなんです。
熊本県を中心に被災した九州地方が、一日も早く復興・復旧されることを心より願っております。
さてさて☆
前々回、『嘉数護獅子』と嘉数公園西側にある拝所などをご紹介しましたが、同公園内を見学した後、この近くにある戦跡を見学しに向かいました。
まず最初に向かったのは・・・
沖縄県宜野湾市嘉数にある
『嘉数ミーガー』
『嘉数ミーガー』の入口。 |
次に、二つめの十字路を過ぎて、約80mほど進んだ所にある角を右折し、少し進んだところ左側にカーブミラーがありますので、そのカーブミラーの隣りにある遊歩道奥にあります。
『嘉数ミーガー』入口。 |
奥に行くにつれ、傾斜がキツくなるので、あまり奥に行かない方がいいと思います。
『嘉数ミーガー』に続く道は、定期的に草刈り・清掃が行われているらしく、比較的綺麗な状態だったんですけど、傾斜がキツくなる場所近辺は、落ち葉などが積もっており、また苔などが生えてたりするので、滑りやすくなっていました。
ガーの手前左側には石垣が残されていました。 |
石垣 |
また、こちらには、区の住民たちも避難していたそうなんですが、戦火が激しくなってきたので、現在の浦添市牧港にある『チヂフチャー洞穴遺跡(市指定史跡)』へと避難したんだとか。。。
『チヂフチャー洞穴遺跡』に避難した後、さらに本島南部方面へと避難したとのことです。
奥の方を少し覗きこんでみると。。。不法投棄されたゴミがありました。。。 |
『嘉数ミーガー』を、下の方が見える位置まで進み、そこから覗きこんでみると・・・
不法投棄されたゴミが、いくつか散乱しているのが見えました。。。
ガー(井泉)は、沖縄では神聖な拝所なっているはずなのに、ゴミを投棄するなんて。。。ちょっと悪質ですね。。。
『嘉数ミーガー』を見学した後、次に向かったのは、グスク跡の
『嘉数ウチグスク遺跡』
『嘉数ウチグスク遺跡』全景。 |
また、道路沿いの斜面は、墓地となっています。
しかし、以前、発掘調査が行われた際には、土器や類須恵器、中国製の陶磁器などが発掘されているんだそうです。
※類須恵器・・・11世紀~14世紀頃の琉球列島で広く流通した素焼きの陶器のことです。(沖縄県立博物館・美術館の公式HP『学芸員コラム』のページより、一部引用)
『嘉数ウチグスク遺跡』の横側。 |
先程の『嘉数ウチグスク遺跡』の全景が写っている写真の下の方に道路が写っていますが、この道路から、遺跡の後方へ向かうように道なりに進んで行くと、その慰霊碑の入口に辿り着くことができます。
『六十二師団 独歩二十三大隊慰霊碑』
『球 一四二一二下田部隊慰霊碑』
『六十二師団 独歩二十三大隊慰霊碑』・『球 一四二一二下田部隊慰霊碑』の入口。 |
『嘉数ウチグスク遺跡』から来ると、慰霊碑入口のすぐ隣には、介護老人保健施設『ぎのわんおもと園』がありますので、そちらを目印にすると見つけやすいと思います。
入口を入ると、下の方に階段が伸びており、この突き当りに慰霊塔があります。 |
階段を下り切ると、右側に小さな道が続いてます。 |
階段を下り切ると、今度は右方向に小道が伸びており、慰霊碑へと続いてました。
『六十二師団 独歩二十三大隊慰霊碑』(左)と『球 一四二一二下田部隊慰霊碑』(右奥) |
まず、目に入ってくるのは、『六十二師団 独歩二十三大隊慰霊碑』の裏側。
そして、その右側には『球 一四二一二下田部隊』の慰霊碑が建てられているが見えます。
『六十二師団』とは、『第62師団独立混成旅団(師団長:藤岡武雄中将)』のことを指しているらしく、『独歩二十三大隊』とは、その『混成旅団』の中の『独立歩兵第23大隊(山本重一少佐)』のことみたいですね。
この『第62師団独立混成旅団』は、熾烈を極めた『嘉数の戦い』において、嘉数高地に配備された部隊なんだとか。。。
球 一四二一二下田部隊 慰霊碑 |
最初に付けられている『球』は、防諜(機密情報が敵にバレないようにする)のための各部隊に付けられた通称号なんだそうで、沖縄戦の際は、『球』の他に『石』、『山』などの通称号が使用されていたんだそうです。
そして、この『独立歩兵第272大隊(独混第45旅団)』の大隊長が『下田直美大尉』であったことから、『下田部隊』と呼称されたみたいですね。
ちょっと難しいですね。。。( ̄▽ ̄;
階段を下りて小道を進んで行くと、まず『六十二師団』の慰霊碑の裏側が目に入ります。 |
『六十二師団 独歩二十三大隊慰霊碑』の表側。 |
『独歩二十三大隊』の慰霊碑の表側には、
≪捧英魂碑≫
≪噫 盡忠幾萬ノ戰士ノ 尊キ血潮デ染ミシ此ノ山河ヲ望メバ 悲憤ノ雄叫ビ今尚響キ 阿修羅ノ如キ其ノ勇姿ココニ髣髴タリ 七生報國ノ斗魂今ヤ祖國ノ興隆ニ見ル
萬世ニ其ノ偉勲ヲ称エ謹ンデ茲ニ殉國ノ英霊ヲ弔フ
石部隊生存者≫
・・・と刻まれていました。嘉数高台をめぐって16日間行われた戦闘は、沖縄戦の中でも最大級の戦闘の一つで、日本軍が頑強に抵対したため、対する米軍からは、「死の罠」とか「忌々しい丘」などと呼ばれたんだそうです。(Wikipedia『嘉数の戦い』のページより一部引用)
こちらで弔われている方々が、この嘉数高地で、その激戦を繰り広げていたんですね。。。合掌
ここまで見学させてもらった後は、再び『嘉数高台公園』まで戻り、この日は、そのまま帰宅致しました。
沖縄には、数えきれない程の戦跡が点在しています。
これからも、少しずつご紹介できればと思います。
それでは、この辺で。。。でわでわ☆★☆
最後まで読んでくださって、ありがとうございますm(_ _)m
↓宜しければブログランキングへ 御協力お願い致します。
☆『嘉数ミーガー・嘉数ウチグスク・
六十二師団 独歩二十三大隊慰霊碑・
球 一四二一二下田部隊慰霊碑 』☆
☆場所:〒901-2226
沖縄県宜野湾市嘉数
☆入場料:無料
☆トイレ:無し
☆駐車場:無し