今月18日(火曜日)は、ヨメさんと一緒に本島中部方面へちょこっとお出かけしてきたんですが、その際、読谷村楚辺にある岩陰墓に立ち寄りました。
こちらは、以前いろいろ調べものをしていた時に、たまたま見つけた岩陰墓で、なんでもかつて勝連城に居城していた按司『阿麻和利』が眠る"お墓"なんだとか。。。
沖縄県中頭郡読谷村楚辺にある
『阿麻和利の墓』☆
大きなガジュマルの木の下にある琉球石灰岩を掘り込んで造られた『阿麻和利の墓』 |
脇道に入るとすぐに道がY字型になっているんですが、そこを左側の道へと進みます。
そして、Y字地点から道なりに約100mほど進んでいくと、右側の畑の後方にある大きなガジュマルの木の下にあります。
路地から見た『阿麻和利の墓』がある大きなガジュマルの木 |
"見学"と言っても、ほんの数分程度で終わっちゃったんですけどねwww
道路とお墓ある場所は個人所有の畑があるので、うかつに入り込まないよう注意が必要です。 |
お墓のある石灰岩を覆い隠すような感じでガジュマルの木の根が張っていました。 |
『阿麻和利之墓』と記された墓標の前には"塩"が置かれていましたね。 |
『勝連城』は、13世紀~14世紀頃に、『阿麻和利』の前の按司『茂知附按司』によって築城されたそうなんですが、『茂知附按司』は圧政を働き、酒に溺れたことから、民からの人望が厚い『阿麻和利』はクーデターを起こし、『茂知附按司』を倒して"按司"となりました。
正面から見た『阿麻和利の墓』。1基の香炉と小さな霊石が数個置かれているのが見えます。 |
諸説ありますが、一説によると『阿麻和利』は、幼名は『加那』と言われ、身体が弱く、山に捨てられてしまったんだそうです。。。
しかし、山でひとりで生きていくうちに、知恵と力を付けていき、勝連に辿り着いた時には、人々に漁網の作り方を教えたり、自ら漁で獲った魚を分け与えたりし、多くの民から慕われるようになったんだそうです。
『阿麻和利之墓』と記された墓標 |
首里王府によって編纂された沖縄最古の歌謡集『おもろさうし』には、『肝高(きむたか)』という言葉を使用して"勝連"を讃えており、『阿麻和利』も英雄として讃えられているんだそうですよ。
※『肝高(きむたか)』とは、沖縄の古語で『気高い』・『志が高い』等の意味
お墓の左後方にはガマ跡らしき穴がありました。 |
以前、『阿麻和利』の仇敵である『護佐丸』が眠る中城村久場の『護佐丸公之御墓』を見学しに行ったことがあるんですが、そちらは、とても立派な亀甲墓で石積みも凄く綺麗だったんですよ。。。
その『護佐丸公之御墓』と比べると、こちらはかなり規模が小さくて、なんだか切なくなっちゃいましたね。。。
この『阿麻和利の墓』は、地元では『屋良墓』と称されているんだそうですよ。 |
・・・と、ササッと写真を数枚撮り終えた後は、そのままクルマへと戻り、次の目的地へと向かいました。
今回ご紹介した『阿麻和利の墓』がある場所は、私有地となっているので、こちらを訪れる方は、くれぐれも付近住民の迷惑にならないよう、十分に気を付けて下さいね。
それでは、そろそろこの辺で。。。でわでわ☆★☆
☆『阿麻和利の墓』☆
☆場所:〒904-0304
沖縄県中頭郡読谷村楚辺1035
☆見 学:無料
☆駐車場:なし
※お墓は私有地内にあるため、お墓周辺は駐車不可となっています。