今回は、過去に一度ご紹介したことがある糸満市字真栄里に建立されている慰霊塔を改めてご紹介したいと思います。
以前の記事では、他の慰霊塔とまとめてご紹介したので、あまり詳しく書くことが出来なかったんですよ。。。
んで、つい先日、ちょうど糸満市方面の史跡や戦跡を巡っていたので、こちらにも再訪し、写真などを撮影してきました。
※以前、ご紹介した時の過去記事は、こちらからどうぞ⇒http://oki-night.blogspot.jp/2014/10/blog-post_18.html
沖縄県糸満市字真栄里にある
『白梅之塔』☆
静かな雑木林の丘の上に建立された『白梅之塔』 |
そして、そこから約350mほど進んだところにある脇道を右折し、道なりに約140mほど進んで行くと、右側の雑木林の中にあります。
※左側に未舗装の駐車場があります。
駐車場から見た『白梅之塔』が建立された雑木林 |
『白梅之塔』の道向かいにある駐車場にクルマを停め、さっそく見学を開始しました。
参道入口には、小さな説明板が設置されています。
『白梅之塔』の道向かいにある駐車場と公衆トイレ |
≪白梅学徒隊(沖縄県立第二高等女学校)≫
≪沖縄県立第二高等女学校の前身は、1905年(明治38年)那覇市に設立された女子講習会(同年私立那覇女子技芸学校となった)で、その後変遷を経て、1928年(昭和3年)に沖縄県立第二高等女学校になりました。1945年(昭和20年)3月24日、生徒たちは東風平村(現八重瀬町)富盛の八重瀬岳に置かれていた第二十四師団第一野戦病院に配置されることになりました。
生徒たちの仕事は、負傷兵の看病や手術の手伝い、水汲み、飯上げ、排泄物の処理、死体埋葬などでした。
その後、5名の生徒が具志頭村(現八重瀬町)新城の自然洞窟(ヌヌマチガマ)の新城分院に配置されましたが、米軍が迫ってきたため、6月3日、分院は閉鎖されました。
『白梅之塔』入口に設置されていた小さな説明板 |
6月9日、一部の生徒は国吉(現糸満市)に到着。
18日に国吉一帯で米軍による猛攻撃が始まり、辺りは一大殺りく場と化し、21日と22日に壕が馬乗り攻撃を受け、多数の死傷者を出しました。
国吉に行かなかった生徒たちは、砲弾が炸裂する中で死の彷徨を続け、ほとんどの生徒が6月下旬に米軍に収容されました。
平成28年3月 沖縄県子ども生活福祉部平和援護・男女参画課≫
・・・とありました。説明を読んだ後で、参道に入り、まずは『白梅之塔』に向かいました。
白梅之塔 |
そして、参道の先にある丘の上に大きな『白梅之塔』が建立されています。
『白梅之塔』の手前には、献花台や戦没者の芳名が刻まれた石板、そして、『白梅之塔』の説明が刻まれた石板が設置されています。
その石板に記されている説明も読んでみると・・・
≪白梅之塔≫
≪沖縄県立第二高等女学校の四年生五十六人で編成された白梅学徒看護隊は、昭和二十年三月六日第二十四師団(山部隊)の衛生看護教育隊に入隊し、補助看護婦としての特別集中教育を受けていた。米軍の艦砲射撃が激しくなった同月二十四日から、東風平町富盛の八重瀬岳にあった同師団の第一野戦病院に軍属として配置され、昼夜別なく傷病兵の看護に専念した。
『白梅之塔』の説明が記された石板 |
その場所は殆ど不明である。
また、解散後この地に後退した山第一野戦病院に、再び合流した一部の白梅隊員は、同年六月二十一、二十二の両日に亘り、米軍の猛攻撃を受け無念の最後を遂げた。
この辺一帯は、白梅隊員の最も多くの犠牲者が出た所である。
大きな『白梅之塔』のすぐ隣には、納骨堂とかなり劣化した小さな『白梅之塔』があります。 |
毎年六月二十三日の「慰霊の日」に例祭が行われる。
平成十年六月二十三日 沖縄県立第二高等女学校 白梅同窓会≫
・・・とありました。ちなみに、沖縄戦の際に結成された女子学徒隊は、全部で9つあり、その中の1つがこちらの『白梅学徒隊』となります。
説明にもあった『白梅学徒隊』が配置された『東風平町富盛の八重瀬岳』は、現在の八重瀬町字富盛にある『八重瀬公園』を指しており、『八重瀬公園』入口付近に『白梅学徒隊』が配置された『第一野戦病院』の壕跡が、『白梅学徒看護隊之壕』として保存されています。
※八重瀬町富盛の『八重瀬公園』にある『白梅学徒看護隊之壕』を訪れた時の過去記事はこちらからどうそ⇒http://oki-night.blogspot.jp/2016/02/blog-post_25.html
かなり劣化した小さな『白梅の塔』 |
ワタクシはまだ足を運んだことはありませんが、その壕は『ヌヌマチガマ』と呼ばれ、『八重瀬公園』にある『第一野戦病院壕』が本部で、『ヌヌマチガマ』は分室となっていました。
また、『ヌヌマチガマ』は、出入り口が二ヵ所あり、東側の出入口を『ガラビガマ』と呼び、西側の出入口を『ヌヌマチガマ』と呼ぶんだそうです。
ワタクシも、いずれ機会を設けて足を運んでみたいと思います。
・・・と、話を戻しまして。。。
『白梅之塔』の前から敷地内東側を見たところ。 |
そちらへ行ってみると、林の中の石碑には『白梅学徒看護隊 自決之壕』と刻まれており、台座部分には『沖縄県立第二高等女学校 白梅同窓会 昭和56年6月28日建立』と記されていました。
『白梅学徒看護隊 自決之壕』の石碑 |
南禅廣寺 |
そして、『南禅廣寺』に隣接して『自決之壕』の洞口があります。
自決之壕 |
というのも、壕内は神聖な霊場となっているので、むやみに入郷するのは失礼にあたると思いましたので。。。
石碑と弥勒親子地蔵尊 |
参道途中の脇にも、小さな石碑と『弥勒親子地蔵尊』が建立されています。
『弥勒親子地蔵尊』の台座には、小さな粘土細工らしきものが置かれていましたね。
この小さな石碑と『弥勒親子地蔵尊』の参道を挟んで向かい側に、『萬魂之塔』と『陸軍大尉 中村巌之碑』が建立されています。
『萬魂之塔』と『陸軍大尉 中村巌之碑』 |
沖縄戦後に、国吉区の人々が区内に散らばった遺骨を収集し、こちらの納骨堂へ納めたんだそうですよ。
※もちろん、管理団体も『国吉自治会』となっています。
萬魂之塔 |
『萬魂之塔』のすぐ隣にあった小さな石碑。 |
そして、左側の小さな石碑には『南無阿弥院・・・』(下の部分は雑草に覆われていて判読できませんでした)と記されていました。
陸軍大尉 中村巌之碑 |
中村巌大尉は、『歩兵第32聯隊第1大隊』に編成された『独立機関銃第17大隊第2中隊』の隊長だったようです。(隊長を務めていた時は『中尉』で、戦死した後に『大尉』になったみたいですね)
そして、『国吉台地』に『独立機関銃第17大隊第2中隊』が配備された際の戦闘で、戦死されたようですね。
・・・と、こちらの『陸軍大尉 中村巌之碑』まで見学した後、次は、ここから西にわずか100mほどの距離に『山形の塔』と呼ばれる慰霊塔が建立された場所があり、そちらの方へ向かいました。
『白梅之塔』の参道入口から『山形の塔』がある方向をみたところ。 |
・・・が、この続きは、また別の回にご紹介しますね。。。
少し長くなってしまいましたが、そろそろこの辺で。。。でわでわ☆★☆
☆『白梅之塔』☆
☆場所:〒901-0362
沖縄県糸満市字真栄里
☆見 学:無料
☆駐車場:あり
※公衆トイレあり