浦添市沢岻にある鬱蒼と生い茂る林の中の御嶽と1960年に発見された遺跡☆|沖縄放浪日記

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2016年9月16日金曜日

浦添市沢岻にある鬱蒼と生い茂る林の中の御嶽と1960年に発見された遺跡☆

ハイサぁ~イ☆

一昨日(14日)、浦添市勢理客にある『寿味食堂』さんで食事を終えた後、少しばかり時間に余裕があったので、同市沢岻の閑静な住宅街の中にある遺跡や拝所を2、3ヵ所見学しに向かいました。

まず最初に向かったのは、1960年に発見されたという遺跡。。。

・・・と言っても、現在は、綺麗に整備されて住宅地となっており、遺跡らしい『遺構』などはなく、小さな公園の一角に立派な拝所と神歌が刻まれた立派な石碑があるだけなんですが。。。

沖縄県浦添市沢岻にある
『沢岻遺跡』
綺麗で立派な拝所なのに、地元の人も何のために建立されたのか分からないんだとか。。。
こちらは、浦添市の県道153号線にある『経塚』の交差点から、同市内間向けに約1㎞ほど進んだところにある信号を右折し、坂道を約140mほど上がって左折すると、正面に『めじろ公園』という小さな公園があるので、その奥にあります。
『めじろ公園』。 表道から入ってきて真正面にある入口
公園入口は合計2ヵ所あり、もう1つの入口に公園名が刻まれた標柱が立てられてました。
以前、ネットで浦添市内の『グスク』をいろいろ調べていた際に、『沢岻グスク』という呼称が、いくつかのサイトやブログなどで見られたので、ワタクシも、かつてはこの沢岻区内にも『グスク』があったんだ・・・という認識で、こちらを訪れたんですよ。

しかし、後日、あるブログを開いてみると、『グスク』ではなく『遺跡』とのこと。。。
公園内の一角に立派な祠を設けた拝所と『おもろの碑』があるだけです。
なんでも、1960年にこの『遺跡』が発見され、さらにその10年後、今度はグスク時代の頃の古銭が発見されたことにより、注目を集めることになったんだとか。。。

それで、いつしか『グスク時代の頃の遺跡』から『グスクがあった』になってしまったようです。

また、地元でも『グスクがあった』という認識は全く無いんだそうですよ。
※詳細は、沢岻字誌編集委員会が発刊した『字誌たくし』に書かれているみたいです。

・・・なので、『沢岻グスク』ではなく、正しくは『沢岻遺跡』で、正式には『沢岻祝部遺跡(たくしはりふべいせき)』という名称なんだそうです。
中の殿
しかし、この『沢岻遺跡』があったとされる現在は、ご覧のように綺麗に整備されて『めじろ公園』という小さいな公園になっています。

そして、その一角には、立派な祠を設けた拝所があります。

・・・が、この拝所、遺跡に纏わる拝所なのかと思いきや、なんと!元々は無かったものが祀られているんだとか!?
中の殿
一体、誰が何のために建立したのか、ネットでいろいろ検索をかけてみたんですけど、由来などの詳細は全く出てきませんでしたね。。。

ちなみに、地元の人たちが拝みを行う際は、部落内の拝所を合祀した『沢岻拝所』へ行くんだそうですよ。
『沢岻拝所』は、また別の回にご紹介しますね。

・・・と、今回は少し微妙な感じになってしまいましたが、とりあえずご紹介させて頂きますね。

立派な祠の前には、石獅子が設けられており、祠に向かって一番右側には『中の殿』と刻まれた柱が立てられていました。
『中の殿の御嶽』と刻まれた石板
また、祠のすぐ手前には、『中の殿の御嶽』と刻まれた石板が立てられており、≪御天聖地邪馬台国根火の神 竜宮母大女神国十二支軸 天照神鏡みるく神 昭和五十八年八月吉日建立≫とも刻まれていました。

祠の中に小さな霊石がたくさん並べられており、手前の香炉を囲むように少し大きめの霊石が3体配置され、その後方には鏡と大きな霊石が1体、そして『ヒミコ女神』と刻まれた石碑とオブジェのようなものが両側に祀られていたので、もしかすると、祀られている霊石などを説明しているのかもしれませんね。
※あくまで個人的な憶測なので、もし間違ってましたら、申し訳ございませんm(_ _)m

そして、祠の右斜め後方にも石碑が立てられていました。
『天続々女神 国じく』と刻まれた石碑
その石碑には、『天続々女神 国じく』と刻まれていたんですが、この石碑についても、詳細は何も分かりませんでした。。。

この『中の殿』がある場所から公園の反対側、表の道から入ってきて真正面にある公園入口の近くには『おもろさうし』の中に登場する神歌が刻まれた『おもろの碑』があります。
おもろの碑
石碑のすぐ隣に[対訳]と〈解説〉が書かれた説明版が設置されていたので、そちらを引用させて頂きます。

≪おもろの碑≫

[対訳]
≪沢岻太郎名付け  国 群 浦のすべて  鳴響まして 招待  よかる太郎名付け≫

〈解説〉
≪このおもろは、古い沖縄の神歌を集めた歌謡集『おもろさうし』の中に登場するもので、尚清王の名付け親だった沢岻親方盛里(?~1526年)を讃えたものと言われています。

歌意は、沢岻盛里つまり沢岻の太郎名付けの名声が、国・群・村々にまで鳴り轟き、多くの人々に慕われているようすを歌っています。

盛里は、中城按司護佐丸の孫で、尚真・尚清父子二王の信任がきわめて厚く、正徳年間(1506~
 21年)に三司官に任ぜられ、嘉靖元年(1522年)には王舅(おうきゅう)となって中国へ遣いして、王を乗せる鳳凰轎(ほうおうきょう)と首里城崖下龍樋(りゅうひ)の吐水龍頭(とすいりゅうとう)をもたらしたことで知られています≫
・・・と書かれていました。

たしか、以前訪れたことがある浦添市伊祖の『伊祖城跡』がある『伊祖公園』内にも、『おもろの碑』が建立されていましたね。

沖縄県浦添市観光振興課と浦添市観光協会が運営する浦添市観光情報ポータルサイト『うらそえナビ』によると、『王府は1531年から1623年にかけておもろを記録し『おもろさうし』にまとめました。昭和・平成にかけて浦添に関わりのあるおもろの碑をゆかりある土地に建てました。』とのことです。

とゆーことは、こちらの他にも、いくつかの『おもろの碑』が設置されているんですね。

・・・と、ここまで見学した後、次は同じ沢岻区内にある御嶽へと向かいました。

『金満御嶽』
こちらには、按司墓や拝所が密集していましたね。。。
こちらは、先程の『めじろ公園』から、表の道に戻り、その向かい側にある脇道へと進みます。

表道から入って、約55mほど進むと、左側に鬱蒼と茂った森があり、その奥へと続く細い階段が1つだけあるので、『金満御嶽』はその階段の先にあります。
『金満御嶽』の入口
『金満御嶽』へ続く階段を上がる前に、階段に向かって左側に何やら開けた空間があったので、そちらへ行ってみると、『祝女神墓』と刻まれた墓標が立てられていました。
階段の横に開けた空間がありました。
『祝女神墓』と刻まれた石柱
そして、その奥の岩の壁まで、綺麗に草刈りされていたんですが、ネットで調べてみると、どうやら『祝女ガー』と呼ばれる場所みたいですね。
祝女ガー
壁際まで草刈りされていたんですが、ハブとか出そうだったので、少し離れた場所から撮影しました。。。

しかし、『金満御嶽』へ向かう際、階段途中から『祝女ガー』を撮影することができましたよ。
階段の途中から撮影した『祝女ガー』。小さな洞穴が開いているのが見えます。
しかしこの階段・・・人一人がやっと歩けるくらいの幅しかないんですよ。。。
写真で見るよりも、かなり狭かったですね。。。
んで、この階段を上りきると・・・
『金満御嶽』はこの奥にありました。。。
未舗装の道が奥へと続いており、その先に『金満御嶽』がありました。
写真中央が『金満御嶽』
道を進んでいくと、まず最初に到着した拝所は、『南山拝所』と刻まれた標柱が立てられ、4基の香炉が並べられた拝所です。
南山拝所
香炉には、それぞ文字が刻まれており、左から順に『下之殿』、『下之御嶽』、『ソージ川』、『ツボ御川』と書かれていました。

これが何を意味するのか、ネットでちょこっと調べてみたんですが、何も出てきませんでしたね。。。

そして、この『南山拝所』の後方には、『金満按司添』と刻まれた標柱と『金満玉滑』と刻まれた香炉が1基設置された古墓がありました。
金満按司添
そして、『金満按司添』の左後方にも、また2基の香炉が並べられた拝所らしき場所がありました。
2基の香炉が並べられた拝所。。。
こちらには、標柱などは何もなく、2基の香炉に左から『中之殿』、『上沢岻之殿』とだけ刻まれていました。

この2基の香炉が置かれた拝所から、『金満御嶽』がある右奥へと進みます。
左側が『金満御嶽』。右側にはかなり古い石碑があり、写真中央奥には香炉がたくさん並べられた拝所がありました。
以前、こちらを訪れた方のブログに掲載されている写真を見ると、その時は、周辺の草木が刈られて、御嶽全体を見ることができたみたいなんですが、ワタクシが訪れた際は、ご覧の通り、御嶽のほぼ全体が草木に覆われてしまって、ちゃんと見ることができませんでしたね。。。
『金満御嶽』の標柱。。。この下にも香炉があるみたいなんですが、草木が邪魔して見えませんでした。。。
『金満御嶽』に向かって左側の拝所。香炉が3基置かれていました。
『金満御嶽』と刻まれた標柱は、周囲の草木に埋もれそうになっており、以前訪れたことのある方の写真を見ると、その下にも香炉が置かれているみたいです。

そして、御嶽に向かってその両側には、香炉が3基ずつ置かれていました。

向かって左側の拝所に置かれた香炉は、2基に刻まれた文字は判読できたものの、残りの1基は蔦が邪魔して判読できませんでした。。。

んで、2基には、左から『祝女番之御香炉』、『天 続』と刻まれていました。
御嶽に向かって右側の拝所。
また、右側の拝所に置かれていた香炉は、3基とも文字が判読できませんでした。。。
真正面から見た『金満御嶽』
『金満御嶽』に向かって右側には大きな石碑が建立されており、何やら細かい文字が刻まれていたんですが、かなり劣化しているため、判読できませんでした。。。
『金満御嶽』のすぐ前にあった大きな石碑
立派な石碑だったんですけど、劣化が激しく文字を読むことが出来ませんでした。。。
この石碑と『金満御嶽』の間から、さらに奥へ進むと、御嶽の隣には、香炉が7基置かれており、上の段左から『城』、『天孫氏世伊平屋』、『玉城世 明東』、そして、下の段左から『城グサイ』、『根香炉』、『御先今帰仁』、『玉城城番』と刻まれていました。
『金満御嶽』の奥にあった拝所。
7基の香炉が置かれた拝所。
また、大きな石碑の後方にも、拝所があります。。。

そちらには、石柱が立てられており、『七増田之拝所』と刻まれていました。

七増田之拝所
・・・と、ここまで見学した後、御嶽に手を合わせ、見学させてもらったことに感謝し、この場を後にしました。

今回は、『沢岻遺跡』と『金満御嶽』をご紹介させて頂いたんですが、かなり長くなってしまったので、今回はここまでにして、続きは、また別の機会にしましょうね。

それでは、今回はこの辺で。。。でわでわ☆★☆

最後まで読んでくださって、ありがとうございますm(_ _)m
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☆『沢岻遺跡(沢岻祝部遺跡)』☆


☆場所:〒901-2112
      沖縄県浦添市沢岻

☆見 学:無料

☆駐車場:無し