今回も、浦添市沢岻に点在する史跡をご紹介させて頂きます。
前々回、『沢岻樋川』と『今帰仁代・安謝墓』を見学した後、最後に向かったのは浦添市内最大級と推定される第二尚氏14代国王『尚穆(しょうぼく)』の第二子『尚図(しょうと)』又の名を『浦添朝央(うらそえちょうおう)』を祖とする亀公墓を見学しに向かいました。
沖縄県浦添市沢岻にある
『史跡 浦添御殿の墓(うらそえうどぅんのはか)』
浦添市内最大級の亀甲墓『浦添市指定文化財 史跡 浦添御殿の墓』 |
『浦添御殿の墓』の石垣 |
『浦添御殿の墓』の手前側は、現在『沢岻公園』として整備され、遊具や公衆トイレなどが設置されていました。 |
階段を上がると、右側に立派な石垣が見え、その前に説明版が設置されていました。
その説明版を読んでみると・・・
入口正面から見た『浦添御殿の墓』 |
≪浦添市指定文化財 史跡 浦添御殿の墓(うらそえうどぅんのはか)≫
≪浦添御殿の墓は、第二尚氏第十四代国王 尚穆(しょうぼく)王〈在位一七五二~一七九四〉の次男、浦添王子朝央(ちょうおう)を元祖とする浦添家の墓です。浦添家は代々浦添を領地とし、近世琉球を代表する政治家や文化人を輩出した由緒ある家計でした。
墓の造営は十八世紀末とされ、浦添市内でも最大級の亀甲墓です。
広い庭や大きなヒンプン、巧みに組み合わされた石積み、正面に使われた大きな石などは、浦添家の栄華を今に伝えるものです。
かつて墓の近くには、墓を管理する御墓番の屋敷があり、昭和二十年の航空写真でも確認できます。
平成二十年三月三日指定 浦添市教育委員会≫
・・・とありました。入口から入って真正面にあるヒンプン |
ヒンプン左側から見た『浦添御殿の墓』 |
ヒンプン右側から。 |
『浦添御殿の墓』のアップ。 |
大きさは幅20m、奥行き27mと市内最大級を誇っているんだとか。
墓室内部には、左右に厨子甕を安置する棚が設けられているらしく、厨子甕は、先程の説明にもあった一世・朝央をはじめ、歴代当主や、現在ではほとんど記録が残されていない浦添王子朝郁という人物のものも納められているんだそうですよ。(Wikipedia『浦添御殿の墓』のページより一部引用)
『浦添御殿の墓』の東側の丘陵斜面に、進入を防ぐネットが張られた小さなガマ(洞穴)がありました。 |
東側の遊歩道上から見た『浦添御殿の墓』。墓本体と前庭が広すぎて写真に収まりません。。。 |
沢岻按司墓。左奥には、金網で塞がれた小さな洞穴がありました。 |
どうやら『沢岻按司』が葬られている古墓のようです。
『沢岻按司墓』のすぐ隣にあった小さなガマ。 |
『東樋川』と、その後方にある『玉城世本地本祝女』の拝所。 |
『東樋川』 |
※あくまでワタクシの憶測なので、もし間違っていたらすいませんm(_ _)m
『東樋川』の後方にあった祠の内部。大小様々な香炉が合祀されていました。 |
左から『イベ神ノ殿』、『イベ神』、『根香炉』 |
左から『火の神後城』、『祝女神』 |
玉城世本地本祝女 |
『玉城世本地本祝女』と記された香炉のすぐ隣の香炉には『城内の守神』と記されていました。 |
一番大きな香炉には碑文が刻まれていましたが。。。 |
頑張って判読してみると・・・
≪碑文の意味≫
≪この拝所場所は 沢岻初代の王が務めた城であった 今帰仁より島作りのためにこられた沢岻世の主の火の神あり≫
・・・と、ワタクシにはこのように刻まれているように読めました。。。
※もし間違っていましたら、すいませんm(_ _)m
この大きな祠を見学した後、今度は『浦添御殿の墓』の東側へと向かいましたが、そちらには拝所らしき場所はなかったので、そのままクルマへと戻り、この場を後に致しました。
今回を含め、3回に分けて浦添市沢岻内にある拝所や井泉、御墓などをご紹介してきましたが、沢岻区内の史跡は、今回で終了致します。
・・・が、いろんな史跡などを調べていく内に、また沢岻区内で拝所などの史跡を発見しましたら、その時にまたご紹介できればと思います。
敷地の外から見た『浦添御殿の墓』 |
☆『浦添御殿の墓』・『沢岻按司墓』・
『東樋川』・『玉城世本地本祝女』☆
☆場所:〒901-2112
沖縄県浦添市沢岻(字)1丁目11-6(沢岻公園内)
☆見 学:無料
☆駐車場:無し