◎海に浮かぶ霊石を持ち帰り、ビジュルとして祀ったのが始まりと言われる沖縄市泡瀬の神社☆|沖縄放浪日記

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2016年7月14日木曜日

◎海に浮かぶ霊石を持ち帰り、ビジュルとして祀ったのが始まりと言われる沖縄市泡瀬の神社☆

ハイサぁ~イ☆

今日(14日)も沖縄本島は、予報通り一日中いい天気でしたね☆

んで、明日(15日)も同じように、降水確率が20%となっていて、丸一日『晴れ』の予想(^^♪

風は、まだ若干強いものの、海上の波はかなり落ち着いてきたので、明日の夜は、『夜釣り』にでも行ってみようかな♪( ̄▽ ̄)ノ☆

さてさて☆

この間、前回ご紹介した『味処 まるなが』さんで食事を終えた後、同市泡瀬にある子宝祈願・安全祈願で有名な神社を見学しに向かいました☆

沖縄県沖縄市泡瀬にある
『泡瀬ビジュル(泡瀬神社)
『泡瀬ビジュル』の参道入口にある『一の鳥居』
こちらは、沖縄市の県道85号線20号線がぶつかる交差点を、同市泡瀬からうるま市向けに進入すると、その交差点を右折し、約70mほど進むと道路沿い右側にあります。

冒頭でもちょこっとお話したように、こちらは子宝祈願の神社として有名で、毎年多くの方が参拝されているんだそうです。

なかなか子宝に恵まれず、友人・知人の勧めで、こちらを参拝し、その数か月後に妊娠できたとか、初めて出産することができたなどなど、ご利益を授かった方がたくさんいらっしゃるみたいです。
表道に面した『泡瀬ビジュル』の入口。
そんな子宝祈願をはじめ、無病息災、子安、安全祈願などで有名な『泡瀬ビジュル』を、表道に面した立派な灯篭と石碑がある入口から順を追ってご紹介していきますね。

表道に面した入口の横には、『泡瀬土地区画整理事業記念碑』が建立されています。

その記念碑には・・・
≪中頭郡東部地域唯一の商工業地として、繁栄していた泡瀬は、第二次世界大戦の戦災により壊滅し、引き続き米軍の軍用地として接収された。

昭和四十二年二月から昭和四十五年七月までに、この軍用地の大半が返還されると、地主組合による土地区画整理事業が計画され、認可申請はしたが施工するには至らなかった。

そこで当時県会議員であった現衆議院議員、復興期成会会長 小渡三郎氏からの強い要請を受けた県当局によって、県の事業として推進されることになった。

工事は県土木部都市計画課によって施工され、昭和五十三年に着工し、八年後の昭和六十一年三月に竣工した。
泡瀬土地区画整理事業記念碑
総工費三十六億五千万円、施工面積は、戦前の泡瀬住宅地と塩田跡地、公有水面埋立地などを含む凡そ七十七ヘクタール(約二十三万坪)である。

この泡瀬の区画整理地域は、快適な居住環境として蘇り、泡瀬繁栄の基盤は確率された。

ここに画期的な事業の竣工を記念してこの碑を建立した。
昭和六十一年十月 泡瀬復興期成会副会長
桑江 義信
当真 嗣賢
高江洲 義仁≫
・・・と刻まれていました。

この記念碑がある入口から境内へと入ると、右側に『泡瀬ビジュル』のお守りなどが販売されている『千秋堂』があります。
千秋堂
そして、この『千秋堂』の向かい側に、冒頭の写真にある『一の鳥居』があり、その奥へと参道が伸びています。
一の鳥居
この『一の鳥居』のすぐ横にも、『泡瀬ビジュル』の説明版と由来が刻まれた石碑が建立されています。

まずは、石碑に刻まれてた説明文を引用させていただきます。
≪泡瀬ビジュルの由来≫
≪泡瀬はその昔、「あせ島」「あわす小離」と称され高原村より東へおよそ九町、隔海に突出した無人の小島で、自然に形成された砂州と南西には広い干潟を有していた。

一七六八年頃、読谷山間切の在番役を退役した樊氏高江洲(筑登之親雲上)義正は、初期の居住者としてこの地に入植し、広い砂州と干潟を開墾して、農耕のかたわら塩を焚き安住の地をここに定めた。

ある日、漁猟に出た義正は海面に浮かぶ霊石をみつけてもちかえり霊験あらたかなるビジュル神として、島の西側磯のほとりに石祠を建てて安置し、信心したのがビジュル神侵攻の始まりといい伝えられている。
『泡瀬ビジュルの由来』が刻まれた石碑
旧暦の九月九日にはビジュル参りの例祭があり、無病息災、子安、子授けなどの祈願に参詣者がたえない。

一九三八年(昭和十三年)有志の尽力で旧石祠を改修して、社殿と二基の鳥居内外玉垣が建立され境内が整備された。

一九八三年(昭和五十八年)泡瀬土地区画整理事業にともなう土地の全面嵩上げ工事の際に境内を拡張し、社殿と一の鳥居、二の鳥居はそれぞれ四尺嵩上げして移設、一の燈籠を新設、玉垣を改築した。
一九八三年八月 泡瀬復興期成会≫
・・・と刻まれたいました。
境内奥側から見た『一の鳥居』と参道
『一の鳥居』をくぐり、参道を進んでいくと、左側に『手水鉢』と『二の鳥居』があり、その奥に立派な社殿があります。
『泡瀬ビジュル』の『手水鉢』と『二の鳥居』。
先程の『泡瀬ビジュルの由来』が刻まれた石碑の隣にある説明版からも引用させて頂きます。


≪泡瀬ビジュル(社殿、鳥居、手水鉢)≫
≪沖縄市指定文化財 平成21(2009)年3月27日指定

泡瀬ビジュルの由来については、泡瀬の初期開拓者である高江洲義正が、海に浮かぶ霊石を見つけて持ち帰り、ビジュルとして祀ったのがはじまりといわれている。

現在のビジュルは、昭和13年に改修されたものである。

ビジュル参詣(ビジュルムヌメー)は旧暦9月9日に行われ、祈願の内容は子安、子育て、旅の安全などである。

現在でも各地からの参拝者がたえない。
手水鉢
桁行1間(1,820㎜)、梁間1間半(2,800㎜)、高さ約12尺(3,940㎜)の一間社流造り、鉄筋コンクリート造、人造石洗出し仕上げである。

従来木造とすべき建物を鉄筋コンクリート造りとし、鉄筋コンクリート造りでは難しい屋根の曲線や円柱、梁、桁、貫、斗、垂木などを丁寧に仕上げてある。
社殿がある敷地内に建立された『改築記念碑』
昭和13(1938)年に旧石の祠を改修し、社殿と2基の鳥居、灯籠、手水鉢、内外玉垣を鉄筋コンクリートで建立した。

昭和58(1983)年、泡瀬土地区画整理事業にともなう土地の全面嵩上げ工事の際に境内を拡張し、社殿と一の鳥居、二の鳥居はそれぞれ四尺嵩上げして移設、一の灯籠を新設、玉垣を改修した。

また、手水鉢は、昭和61(1986)年9月に竣工した。

指定対象は、昭和13年に改修、建立された社殿と2基の鳥居、手水鉢である。

それらは、当時の建築技術を知る上で貴重である。
沖縄市教育委員会≫
・・・とありました。

『泡瀬ビジュル』の社殿がある敷地内には、『改築記念碑』も建立されています。
『泡瀬ビジュル』の社殿
『二の鳥居』から『社殿』へと続く参道の横には、綺麗なスロープが設置されており、車椅子の方も参拝することができるよう、バリアフリーとなっていました。

この『社殿』がある敷地の隣は、小さな広場があり、休憩場所となっている東屋や、滑り台やブランコなどがある砂場があり、地元の人や子供たちの憩いの場となっています。

その小さな広場と『社殿』の間にある敷地の一角に、立派なアコウ(クワ科)の立っています。
沖縄市の名木『アコウ(クワ科)』の木
『アコウ』の木のすぐ横に標柱が立てられており、説明文が記されていました。

その説明によると・・・
≪社殿のわきで威容を誇っており、ビジュルやアコウに守られながら地域の人々は泡瀬の発展を祈願しています。

台風で潮を被ると落葉し薄い赤茶の皮を剥ぎ新芽を出します。

方言でアコーギ、ウシクガジュマルと呼ばれています。≫
・・・とありました。

この『アコウ』の木は、沖縄市の名木に指定されており、推定樹齢150年、樹高8.3m、幹周8.5mなんんだそうですよ。
広場側から見た『アコウ』の木
・・・と、『泡瀬ビジュル』の境内を、ここまで見学した後、また次の目的地へと向かいました。

沖縄県内には、こちらのように子宝祈願ができるパワースポットが、いくつか点在してますが、今回は、その中の一つ『泡瀬ビジュル』をご紹介させていただきました。

県内を、いろいろ見て回る際には、『泡瀬ビジュル』のようなパワースポットにも、ちょこっと立ち寄って、参拝されてみてはいかがでしょうか?

ちなみに、『泡瀬ビジュル』では、上の説明にもあった旧暦の9月9日『ビジュルムヌメー』は、祭事が執り行われ、パワーが増幅される日と言われているみたいですよ。

少し長くなりましたが、そろそろこの辺で。。。でわでわ☆★☆

最後まで読んでくださって、ありがとうございますm(_ _)m
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『泡瀬ビジュル(泡瀬神社)』☆

☆場所:〒904-2172
      沖縄県沖縄市泡瀬2丁目1

☆お問合せ:098-939-4501

☆見 学:無料

☆駐車場:無し