◎読谷村古堅集落の東南にある拝所と二つのガー☆|沖縄放浪日記

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2016年5月20日金曜日

◎読谷村古堅集落の東南にある拝所と二つのガー☆

ハイサぁ~イ☆

週末金曜日(20日)の沖縄本島は、降水確率が30%となっており、曇の天気となるようです。

連日、天気が悪い日が続いておりますが、週間天気予報によると、来週の火曜日(24日)だけは、『曇時々晴れ』マークとなっており、ちょっとだけ回復するみたいです( ̄▽ ̄)ノ

毎日、雨が降り続ける中、一日だけでも天気が回復してくれると嬉しいものですよね(笑)

さてさて☆

以前、読谷村古堅にある『古堅國民學校跡・古堅尋常高等小學校跡』や『古堅ウグヮンのフクギ』・『慰霊之碑』をご紹介しましたが、この二ヵ所を見学した後、古堅集落の東南側へと向かいました。

そこから、古堅集落に隣接する同村大湾に、かつては存在していたグスク跡へ行くことができるんです。

しかし、このグスク跡は、現在は宅地となっており、城壁などの遺構は残っていませんが、按司墓や拝所などが大湾集落内に点在しているので、それらを見学するために向かったんですよ。

んで、その場所に到着すると、古堅集落と大湾集落の間を流れる小川に架けられた小さな橋の手前に古堅集落の拝所と二つのガーを発見したので、まずはそこから見学することにしました。

沖縄県中頭郡読谷村古堅にある
『フルギンウガン(古堅御願所)『フルギンガー(古堅ガー)
古堅ガー(フルギンガー)
こちらは、まず読谷村古堅の『古堅ウグヮンのフクギ』がある場所から、集落内をそのまま南向けに約60mほど進んだところにある脇道を左折し、約130mほど道なりに進みます。

すると、突き当りで道が二手に分かれており、そちらを左折して、そのまま道なりに直進していくと、行き止まりになっているので、ガーはその左側の奥にあります。
※『古堅ウグヮンのフクギ』までの道順は、読谷村古堅にあるフクギに囲まれた拝所と慰霊之碑☆を参照してください。

『古堅ガー』の手前は、ちょっとした広場のようになっているんですが、こちらはクルマの転回場所となっているため、駐車禁止になってました。

なので、ガー手前の少し傾斜になっている道路脇に、クルマ一台分が停められるスペースがあったので、そちらに駐車しました。
『比謝川井戸 神』と刻まれたガーの手前にある拝所
クルマを停め、さっそく見学開始。

まずは、手前側のガーの隣に設置されていた説明書きを読んでみることに。

その説明によると・・・
≪産井(ウブガー)と新井(ミーガー)のふたつの泉を総称して古堅ガーと呼んでいる。水道が普及するまで古堅の人々の貴重な生活用水がここから汲まれた。

北側奥のものが産井で、ここから産湯用の水を汲み、その水で赤子の額をなでる水撫でぃ(ミジナディー)の健康祈願の儀礼があった。

また小さなエビやカニをここから捕らえ赤子の体に這わして赤子の誕生を祝福することもあり、かつてのカーの掃除の際には妊婦の夫たちが海浜から砂利を運び泉の底に沈め、清めたという。

南側手前のものは新井で1923(大正12)年の造営と伝わり、旱魃時(かんばつじ)にもほとんど枯れたことがないという。

1945(昭和20)年の沖縄戦争前には古堅ガー一帯は日本軍の炊事場となり、戦争中には字民の避難豪が背後の傾斜地にあった。≫
・・・と書かれていました。
新井(ミーガー)
この『古堅ガー』をネットで調べていた際に、以前にこちらを訪れた方のブログを見てみると、その時は、水が濁っていたみたいなんですが、ワタクシが訪れた際は、新井・産井共に水が澄んでとても綺麗でした。

この新井には小さな橋が架けられており、そこを渡って奥へ行くと産井があります。

【読谷村役場 教育委員会 読谷村史編集室】の公式サイト『読谷村の戦跡めぐり』内にある『㉚古堅の家族壕』のページによると、この『古堅ガー』の産井の上部には、沖縄戦の際に使用された避難豪があるとのこと。
産井(ウブガー)
なので、その壕も見学したいと思い、産井の上に行こうとしたんですが、草木が生い茂っており、今回は断念しました。。。

この公式サイト『読谷村の戦跡めぐり』内の『㉚古堅の家族壕』のページによると・・・
≪古堅の集落から東に進むと、やがてフルギンガー(古堅井戸)という2つの井戸に達します。その井戸はフルギンウガン(古堅御願所)の斜面を下りた所にあり、井戸の背後の斜面に家族壕はありました。

あたりはフルギンウガン(古堅御願所)と真栄田城址で囲まれた小さな窪地のようになっており、下は広場になっていました。

広場はかつては闘牛場だったのですが、そこは防衛隊の屯所となっており、宿舎の炊事場などの急造施設がありました。

この辺の壕は山あいにあり、しかも雑木に覆われているので、池原良盛たち数家族は安全だと信じて疑いませんでした。それで空襲警報が発令されるたびに、そこに避難していたのです。
『古堅ガー』に向かう小道から見える崖壁にあった壕
ところが3月25日、遠くで聞こえてくる爆音の炸裂音が近付いてくるのに脅えながらじっとしていると、突然、ガガーンという凄まじい爆発音を聞いたと思ったら、何がなにやら分からなくなってしまいました。

気が付くと、硝煙と土ぼこりが立ち込めて何も見えません。やっと人心地がつき、硝煙の晴れ間を恐る恐るはい出して、壕口から下を伺いますと、防衛隊自活班が飼っていた数羽の鶏は、その囲いとともに跡形もなくなっていましたし、小川のほとりには馬が死んで屍をさらしていました。

爆弾は防衛隊施設を狙って2発以上も投下されていたのです。

良盛たちの壕はクランク型になっており、入り口には畳を立てかけてありましたので、爆風の被害は余りありませんでした。隣接のナーカ小(池原芳英)の壕とは中が筒抜けになって繋がっていました。ナーカ小の隣にはイーチ(伊波寛裕)の壕がありました。

芳英らの壕口は潰されてしまっていましたので、空襲後はしばらく、中が筒抜けになっていた良盛の壕から出入りしました。

寛裕は爆風で耳をやられ、一時は感覚を失っていました。防衛隊員は数名が戦死したと言われましたが、その中には嘉手納の城間時計店の長男も含まれていました。(池原良盛の証言より)≫
《【読谷村役場 教育委員会 読谷村史編集室】の公式サイト『読谷村の戦跡めぐり』内にある『㉚古堅の家族壕』のページより引用》
・・・と書かれていました。
クルマを駐車した場所の隣りの繁みの奥にも壕らしきものがありました。
この日、『古堅の家族壕』は見学することができませんでしたが、奥の産井の手前左側から斜面上へと伸びる階段を発見したので、そちらの方へ行ってみると・・・

『大湾若按司之墓』と刻まれた崖葬墓がありました。
大湾若按司之墓
もしかすると、沖縄戦の最中、この按司墓も避難壕として使用されていたのかもしれませんね。。。

この按司墓に伸びる階段途中から、産井の上の方を伺ってみたんですが、こちらからも草木が生い茂っていて、家族壕へは行けませんでした。

この按司墓まで見学した後、クルマを駐車している場所まで戻り、今度はそこから集落側へと少し上がっていくと、道路沿いに『フルギンウガン(古堅御願所)』がありました。
道路沿いにひっそりと佇むフルギンウガン
フルギンウガン(古堅御願所)
・・・と、ここまで見学した後、古堅集落に小川を挟んで隣接する大湾集落へと向かいました。

『古堅の家族壕』の説明にもあったように、この『古堅ガー』近隣には、上の2枚の写真に写っている壕だけでなく、見かけただけでも数ヵ所に壕らしき場所が点在していました。

しかし、その壕がある場所までは藪が深く、近づくことが困難だったため撮影を断念致しました。。。

またいつか再訪する時には、『家族壕』周辺も清掃されて、見学しやすくなっていてほしいですね。。。

それでは、この辺で。。。でわでわ☆★☆

最後まで読んでくださって、ありがとうございますm(_ _)m
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☆『フルギンウガン(古堅御願所)』・『フルギンガー(古堅ガー)』☆


☆場所:〒904-0314
      沖縄県中頭郡読谷村字古堅

☆営業時間:自由見学

☆入場料:無料

☆トイレ:無し

☆駐車場:無し