ハイサぁ~イ☆
今日(9日)の沖縄本島は、昨日夜から降り始めた雨がずーっと降り続けております。。。(/ω\;
※4月9日午前1時半現在。
昨夜から、雷を伴う豪雨となっており、沖縄本島全域に雷や大雨注意報、そして本島中南部には大雨・洪水警報が発令されています。。。
この豪雨は、今日の朝方まで続く見込みのようです。。。
はぁ。。。せっかくの土日なのに、大雨だなんて。。。(´Д`;
この二日間は、大人しく自宅でゆっくりしてた方がいいですね。。。(泣)
さてさて☆
前々回の記事で、『ナングシク(名護城)』と『名護神社』をご紹介したんですが、今回は、同公園内にある拝所や祠、石碑などをご紹介したいと思います☆
沖縄県名護市字城にある
『名護城公園』へのアクセスは、前々回の当ブログ記事をご参照くださいませ!(^^)!
⇒『ナングシク(名護城)』・『名護神社』
『ナングシク(名護城)』と『名護神社』を見学した後は、同公園内に点在するその他の拝所や祠、石碑等を見学して回ったんですが、それらのほとんどが、園内の車道沿いにあるので、とても見学しやすかったですねヽ(^。^)☆
まずは、南口駐車場内に建立されている『さくら名所100選の地』碑からご紹介しますね☆
この『名護城公園』は、日本一早いさくら祭りが開催される場所として有名な公園で、麓から山頂までの道沿いや神社へと続く階段沿いに、桜の木が植えられています☆
『名護さくら祭り』は、毎年1月の最終土・日に開催され、毎年多くの花見客で賑わっております(≧▽≦)b
ただ、今年は開花がかなり遅かったですね・・・(泣)
そして、南口駐車場には『さくら名所100選の地』の石碑が建立されています。
その碑文を読んてみると・・・
昭和三十八年に第一回さくら祭りが催され、いまでは二万三千本余となり、日本一早い桜として全国に知れわたるようになった。
平成二年四月日本さくらの会の「さくら名所100選」にえらばれ、その選定を祈念して桜の呼び名を緋寒桜から「名護緋ざくら」に改め、市民のさくらに対する保存、育成、愛護の精神を紅葉し子々孫々まで、花と緑豊かな郷土を愛する心を育んで行くことを希い、この碑を建立する。
今年(2016年)は、満開になったのが、祭りが開催された二日間よりもだいぶ後だったみたいなんですが、満開になった名護城公園は、見応えがあり、本当に綺麗なんですよ(^^♪
まだ見に行ったことがないって方は、ぜひ一度『名護緋ざくら』を見にいってみてくださいね(^_-)-☆
んで、この南口駐車場から山頂に向けてクルマを走らせていくと・・・
南口駐車場から神社まで伸びる参道の長~い階段の中間地点を通過して、少し進むと左側の方に小さな駐車場があります。
その駐車場から遊歩道を歩いて行くと、『イジグチ屋』と呼ばれる拝所が、歩道沿いから少し林の中に入った場所に、ひっそりと佇んでいます。
表の道沿いにある案内板によると、この『イジグチ屋』という拝所は、『ナングスク』と集落に関わりのある拝所なんだそうです。
そして、この拝所がある一帯から、表の車道を挟んで向かい側の丘の上には、『白い煙と黒い煙』と刻まれた石碑が建立されています。
少し車道を下ったところに、その石碑まで行くことができる小さな階段があります。
『白い煙と黒い煙の碑』と書かれた案内板がありますので、すぐ分かりますよ(^_-)-☆
この小さな階段を上がってUターンするような感じに左に曲がると『白い煙と黒い煙の碑』に行くことができ、真正面の奥まったところには『根神屋』、階段を真っ直ぐ進んで少し開けた場所の奥にはガー(井泉)があります。
まずは『白い煙と黒い煙の碑』からご紹介しますね☆
石碑の横にある説明板によると・・・
≪合図の煙―――親子の別れ―――
汽船のデッキの上からは、彼の乙女が 涙で曇った眼でふるさとの山を慕い、父母を恋いて、この白い煙を見つめていることだろう。
―――白い煙と黒い煙―――
こうして若い乙女と老いたる親とが山と海とで たがいに切ない思慕思愛の情を交わしているのである。
春の日は、静かに夕もやの中にうすれていく やがて汽船は、本部半島にその影に隠した つきせぬ名残りを一抹の黒い煙にとどめて
【この文は、大正七年三月三十一日作、昭和六年ごろの小学校国語教科書に採用されたもの稲垣國三郎が名護城を遊歩中、老夫婦が松の青菜をもやして白い煙をあげているのを見、感動したもようが記されている。
娘をヤマト族(本土)に出すのに、那覇まで見送りにいけない老夫婦の切ない気持ちがこの碑の前に立つとき、ひしひしと胸を打つ。
どうやら稲垣國三郎氏の作品を記念して建立した石碑のようです。
この『白い煙と黒い煙の碑』と、先ほどの『イジグチ屋』がある広場から、また車道を少し上がっていくと、左側斜め前方に、祠がある広場があります。
こちらは『名幸祠(なこうじ)』と呼ばれる拝所です。
敷地の中に入って行くと、奥側に立派な祠があり、祠に向かって左右、そして後方に一基ずつ香炉が置かれてました。
また、『名幸祠』に向かって右側の拝所の隣りには、この『名幸祠』についての由来が刻まれているであろう石碑が建立されていたんですが、劣化や汚れがひどく、判読できませんでした。。。
ですが、なんとか文字を調べながら自分なりに解読してみましたヽ(^。^;
≪名幸記傳(きでん)
西紀二 三百年北山は血族同士が権力を争って乱をおこし、欺きて仲昔北山六代の世主今帰仁城主の統は亡んで、傍系の怕尼芝が北山に君臨した。
口碑の傳える名幸は滅亡した城主の嫡琉千代松やい、彼はこの騒乱から難を遁れ祭祀眷属を共に一族なる名護按司に寄託亡命し竊に宗廟の恢復を謀つたが成らず雄志空しく病に斃れた。
宗家を奪つた怕尼芝は時に中山の衰頽に乗じて自ら北山王を僭稱し北方の覇者をもつて國頭諸間切を威圧するに至つては後難を怖れる名護按司が先君の世子を庇護隠秘するために●勉苦肉の計を用いたことは推考に難しくない。
世子の名をいわれのない名幸大屋子の假名で糊塗し亥は彼の遺骸を此●城川の懸崖幽谷に密葬するなど北山王統の虎の子を預る。
一説では名幸を名護按司の次子となし十五世紀末按司家が國王尚真の勧告に従つて后を首里府に移した當初の管領●按司●とまいす。
古文書に名護は那古につくり名幸は那古の転訛と乃ち名護城の首長那古大屋子とする説もあるが根拠はない。
※文中の●は判読できなかった文字を表しています。
※その他にも誤った文字があると思いますので、この文が完全ではありません。ご了承ください。
また、石碑は、改修・復元されたものらしく、その下部には、改建した際の説明と改修に携わったと思われる方々の名簿が刻まれていました。
んで、この『名幸記傳』の石碑の右側から、一段低くなった場所があったので、そちらへ行ってみると、『兼久多門中の始祖 北山 名幸之墓』と記された御墓がありました。
この碑文にある『名幸』さんは、どうやらこちらで静かに眠っているようです。
とゆーことは、こちらにある祠は、この『名幸』さんが祀られているみたいですね。。。
・・・と、ここまで見学した後、再び頂上へと向かったんですが、ここから先は、史跡らしき場所は無く、途中の道沿いにあるトイレの後方に、『太陽の丘』と名付けられた広場があり、そこに大きな日時計がありましたよヽ(^。^)ノ♪
んで、名護城公園の頂上には大きな展望台があり、名護市街が一望出来ちゃいます♪♪♪
快晴の日に3階の展望デッキからは、眼下に名護市街が見え、その先に本部半島も見えて、とっても気持ちがいいですよぉ~(´▽`)ノ☆
この日は、ここまで撮影して、公園を後にしました☆
いかがでしたでしょうか?
『名護城公園』の園内には、遊具エリアもあるので、自然を満喫したり、子供たちと遊具で遊んだり、史跡を散策して歴史を勉強したりと、いろいろ楽しめちゃうので、まだ訪れたことが無い方は、ぜひ一度足を運んでみてくださいねo(⌒▽⌒)o☆
今回も、ちょこっと長くなってしまいましたが、そろそろこの辺で。。。でわでわ☆★☆
最後まで読んでくださって、ありがとうございますm(_ _)m
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☆『名護城公園(なんぐすくこうえん)』☆
☆場所:〒905-0012
沖縄県名護市名護
☆入場料:無料
☆トイレ:数ヵ所あり
☆遊具あり
☆駐車場:あり(50台)
今日(9日)の沖縄本島は、昨日夜から降り始めた雨がずーっと降り続けております。。。(/ω\;
※4月9日午前1時半現在。
昨夜から、雷を伴う豪雨となっており、沖縄本島全域に雷や大雨注意報、そして本島中南部には大雨・洪水警報が発令されています。。。
この豪雨は、今日の朝方まで続く見込みのようです。。。
はぁ。。。せっかくの土日なのに、大雨だなんて。。。(´Д`;
この二日間は、大人しく自宅でゆっくりしてた方がいいですね。。。(泣)
さてさて☆
前々回の記事で、『ナングシク(名護城)』と『名護神社』をご紹介したんですが、今回は、同公園内にある拝所や祠、石碑などをご紹介したいと思います☆
沖縄県名護市字城にある
『名護城公園』
今回も『名護城公園』南口の写真からスタートです(笑)(^^♪ |
⇒『ナングシク(名護城)』・『名護神社』
『ナングシク(名護城)』と『名護神社』を見学した後は、同公園内に点在するその他の拝所や祠、石碑等を見学して回ったんですが、それらのほとんどが、園内の車道沿いにあるので、とても見学しやすかったですねヽ(^。^)☆
まずは、南口駐車場内に建立されている『さくら名所100選の地』碑からご紹介しますね☆
南口駐車場内に建立された『さくら名所100選の地』碑♪ |
『名護さくら祭り』は、毎年1月の最終土・日に開催され、毎年多くの花見客で賑わっております(≧▽≦)b
ただ、今年は開花がかなり遅かったですね・・・(泣)
今年(2016年)の1月下旬、『名護さくら祭り』開催2日前くらいの『名護緋さくら』。。。 |
その碑文を読んてみると・・・
≪名護緋ざくらの碑≫
≪名護城(なんぐすく)の桜は昭和三年城区青年団の発意で区民の協力のもとに五〇本余が植えられ、その後毎春ごとに開花した。昭和三十八年に第一回さくら祭りが催され、いまでは二万三千本余となり、日本一早い桜として全国に知れわたるようになった。
この時は、園内全体で2~3分咲きって感じでした。。。(/ω\; |
平成四年一月三十一日 名護市 名護・さくらの会≫
・・・と書かれていました。今年(2016年)は、満開になったのが、祭りが開催された二日間よりもだいぶ後だったみたいなんですが、満開になった名護城公園は、見応えがあり、本当に綺麗なんですよ(^^♪
まだ見に行ったことがないって方は、ぜひ一度『名護緋ざくら』を見にいってみてくださいね(^_-)-☆
んで、この南口駐車場から山頂に向けてクルマを走らせていくと・・・
車道から逸れたところにある駐車場奥の遊歩道☆この案内板のすぐ後方に小さな歩道があり、奥に拝所があります。 |
その駐車場から遊歩道を歩いて行くと、『イジグチ屋』と呼ばれる拝所が、歩道沿いから少し林の中に入った場所に、ひっそりと佇んでいます。
『イジグチ屋』 |
そして、この拝所がある一帯から、表の車道を挟んで向かい側の丘の上には、『白い煙と黒い煙』と刻まれた石碑が建立されています。
少し車道を下ったところに、その石碑まで行くことができる小さな階段があります。
『白い煙と黒い煙の碑』と書かれた案内板がありますので、すぐ分かりますよ(^_-)-☆
『白い煙と黒い煙の碑』に行くことができる階段☆ |
車道から見た『白い煙と黒い煙の碑』☆ |
石碑の横にある説明板によると・・・
≪合図の煙―――親子の別れ―――
汽船のデッキの上からは、彼の乙女が 涙で曇った眼でふるさとの山を慕い、父母を恋いて、この白い煙を見つめていることだろう。
―――白い煙と黒い煙―――
こうして若い乙女と老いたる親とが山と海とで たがいに切ない思慕思愛の情を交わしているのである。
春の日は、静かに夕もやの中にうすれていく やがて汽船は、本部半島にその影に隠した つきせぬ名残りを一抹の黒い煙にとどめて
(稲垣國三郎作「白い煙・黒い煙」から)≫
【この文は、大正七年三月三十一日作、昭和六年ごろの小学校国語教科書に採用されたもの稲垣國三郎が名護城を遊歩中、老夫婦が松の青菜をもやして白い煙をあげているのを見、感動したもようが記されている。
娘をヤマト族(本土)に出すのに、那覇まで見送りにいけない老夫婦の切ない気持ちがこの碑の前に立つとき、ひしひしと胸を打つ。
名護市】
・・・と書かれていました。どうやら稲垣國三郎氏の作品を記念して建立した石碑のようです。
前々回もご紹介した『根神屋』☆向かって右側の方に、『ナングシク』へと続く小道があります。 |
『白い煙と黒い煙の碑』から『根神屋』を挟んで反対側の奥にあったガー(井泉)。 現在は、水は枯れているみたいです。 |
こちらは『名幸祠(なこうじ)』と呼ばれる拝所です。
車道側から見た『名幸祠』☆ |
『名幸祠』 |
『名幸祠』の向かい側にある拝所 |
『名幸祠』に向かって右側の拝所 |
『名幸祠』に向かって左側の拝所 |
『名幸祠』に向かって右側に説明が記された石碑があったんですが、完全には判読できませんでした。。。 |
≪名幸記傳(きでん)
西紀二 三百年北山は血族同士が権力を争って乱をおこし、欺きて仲昔北山六代の世主今帰仁城主の統は亡んで、傍系の怕尼芝が北山に君臨した。
口碑の傳える名幸は滅亡した城主の嫡琉千代松やい、彼はこの騒乱から難を遁れ祭祀眷属を共に一族なる名護按司に寄託亡命し竊に宗廟の恢復を謀つたが成らず雄志空しく病に斃れた。
宗家を奪つた怕尼芝は時に中山の衰頽に乗じて自ら北山王を僭稱し北方の覇者をもつて國頭諸間切を威圧するに至つては後難を怖れる名護按司が先君の世子を庇護隠秘するために●勉苦肉の計を用いたことは推考に難しくない。
世子の名をいわれのない名幸大屋子の假名で糊塗し亥は彼の遺骸を此●城川の懸崖幽谷に密葬するなど北山王統の虎の子を預る。
一説では名幸を名護按司の次子となし十五世紀末按司家が國王尚真の勧告に従つて后を首里府に移した當初の管領●按司●とまいす。
古文書に名護は那古につくり名幸は那古の転訛と乃ち名護城の首長那古大屋子とする説もあるが根拠はない。
二九百●十年●市孟夏 北嘉宇太郎 るす≫
・・・と記されていました。※文中の●は判読できなかった文字を表しています。
※その他にも誤った文字があると思いますので、この文が完全ではありません。ご了承ください。
また、石碑は、改修・復元されたものらしく、その下部には、改建した際の説明と改修に携わったと思われる方々の名簿が刻まれていました。
『兼久多門中の始祖 北山 名幸之墓』 |
この碑文にある『名幸』さんは、どうやらこちらで静かに眠っているようです。
とゆーことは、こちらにある祠は、この『名幸』さんが祀られているみたいですね。。。
・・・と、ここまで見学した後、再び頂上へと向かったんですが、ここから先は、史跡らしき場所は無く、途中の道沿いにあるトイレの後方に、『太陽の丘』と名付けられた広場があり、そこに大きな日時計がありましたよヽ(^。^)ノ♪
『太陽の丘』エリアの入口にある大きな日時計(^^♪ |
名護城公園頂上にある展望台☆ |
快晴の日に3階の展望デッキからは、眼下に名護市街が見え、その先に本部半島も見えて、とっても気持ちがいいですよぉ~(´▽`)ノ☆
この日は、ここまで撮影して、公園を後にしました☆
いかがでしたでしょうか?
『名護城公園』の園内には、遊具エリアもあるので、自然を満喫したり、子供たちと遊具で遊んだり、史跡を散策して歴史を勉強したりと、いろいろ楽しめちゃうので、まだ訪れたことが無い方は、ぜひ一度足を運んでみてくださいねo(⌒▽⌒)o☆
今回も、ちょこっと長くなってしまいましたが、そろそろこの辺で。。。でわでわ☆★☆
最後まで読んでくださって、ありがとうございますm(_ _)m
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☆『名護城公園(なんぐすくこうえん)』☆
☆場所:〒905-0012
沖縄県名護市名護
☆入場料:無料
☆トイレ:数ヵ所あり
☆遊具あり
☆駐車場:あり(50台)