ハイサイ☆
今日(19日)の沖縄本島は、夜明け前までは、少し小雨がパラついてましたが、明るくなっていくとともに、雨が止んで、快晴とまではいかなかったものの、日中はいい天気となりました☆
んで、明日(20日)も、降水確率が20%となっており、丸一日晴れる見込みとのこと(^^♪
ただ、明日の夜からは、次第に雲が広がり、明後日(21日)から来週火曜日(26日)までは、『曇り時々雨』となっており、愚図ついた天気が続くみたいです。。。
来週末からはGWが始まるので、出来れば、その前日くらいまでには、天候が安定してほしいものですねヽ(^。^;
さてさて☆
昨日ご紹介した本部町伊野波の『石くびり』を見学した後、この日最後に向かったのは、『石くびり』に向かう途中で、偶然発見した同町東の県道沿いにある敷地。。。
敷地奥に、小さな石碑が建てられており、その横から、後方の丘の上へと延びる階段が見えたので、『石くびり』から戻る途中に少し立ち寄らせて頂きました。
沖縄県国頭郡本部町東にある
こちらは、本部町東の県道84号線(通称:伊豆味線)と115号線がぶつかる『東』の交差点から、県道84号線を同町伊豆味向けに約320mほど進むと、左側にあります☆
この日、こちらに到着したのは、午後6時過ぎくらい。。。
敷地は、結構広々としており、ヨメさんの話によると、この広場は、以前は夏休みの際に、子供たちの朝のラジオ体操で使用されていたんだそうです。
※今現在も、こちらでラジオ体操が行われているかは、不明です。。。
敷地の片隅みにクルマを駐車させてもらい、さっそく見学することに。。。
敷地奥には、かなり古い感じの石碑が建てられていたので、まずはそちらを拝見させて頂くと、石碑前方部分に弾痕らしき跡が、いくつか残ってました。
そして、石碑の台座も、よく見ると、所々欠けている。。。
石碑の裏側を見てみると、『昭和九年十二月吉日建立』と刻まれていたので、どうやら太平洋戦争前に建立されたものみたいですね。
後日、いろいろ調べてみると、こちらは『戦俸軍人御名之碑』という石碑らしく、『本部町在郷軍人遺族会』が昭和9年12月に建立したんだそうです。
石碑自体が、かなり劣化しており、刻まれている文字も、旧漢字を使用していたり、削れて判読できないかったりしましたが、ネットで調べてみると、本部町立博物館には、この石碑に刻まれている文字を復元したものを展示しているみたいです。
ここに刻まれているのは、日露戦争(1904年2月8日)-1905年9月5日)の際に戦死した本部町出身者9名、そして、後の日濁戦争(1914年8月23日-1918年11月)戦没者2名、日支事變(1937年-太平洋戦争の一部)戦没者1名の名前も刻まれているみたいです。
『日濁戦』は、『日独戦争』のことみたいですね。
そして『日支事變(変)』は、『日中戦争』に対する、当時の日本側の呼称とのことなんだそうです。(コトバンク『デジタル大辞泉』の解説より引用)
この『戦俸軍人御名之碑』の隣りにある階段からは、丘の中腹にひっそりと佇む『慰霊塔』と『忠魂碑』に行くことができます。
本部町のいくつかの字(あざ)には、慰霊塔が点在しているんですが、こちらの『慰霊塔』は、町全体の慰霊塔となっているんだそうで、1957年(昭和32年)7月31日に建立されたとのこと。
塔の裏面には、昭和二十年第二次世界大戦に於いて戦没せる勇士の納堂」と刻まれていたので、下の方は、納骨堂となっているみたいですね。
そして、『戦俸軍人御名之碑』と『慰霊塔』よりも、先に建立されたのは、『慰霊塔』と並んで建てられている『忠魂碑』です。
『忠魂碑』の裏側には、『大正四年十一月十日』と刻まれていました。
沖縄戦前は、この『忠魂碑』は、各地の村や町全体に一基ずつ建てられていたとのこと。
こちらにある『忠魂碑』も、その中の一基みたいですね。
読谷村の渡慶次や座喜味にある『忠魂碑』を調べた時も、同じ内容の資料を何度か目にしました。
『忠魂碑』とは、元々、日清戦争や日露戦争で、国家や天皇陛下のために戦死した軍人や軍属の忠義の魂を顕彰するために、自治体が建立した石碑なんですが、戦後は、読谷村渡慶次にある『忠魂碑』のように『慰霊碑』として、そのまま残している地域もあるみたいです。
・・・と、ここまで見学させて頂いた後、『慰霊碑』と『忠魂碑』、そして『戦俸軍人御名之碑』に手を合わせてから、こちらを後に致しました。
沖縄県内には、こちらのような『慰霊碑』や『忠魂碑』(別の呼称をされている地域もあります)が、多く点在しているので、今後も、少しずつご紹介していきたいと思います。
それでは、そろそろこの辺で。。。でわでわ☆★☆
最後まで読んでくださって、ありがとうございますm(_ _)m
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☆『慰霊塔・忠魂碑・戦俸軍人御名之碑』☆
☆場所:〒905-0211
沖縄県国頭郡本部町東
☆入場料:無料
☆トイレ:無し
☆駐車場:あり
今日(19日)の沖縄本島は、夜明け前までは、少し小雨がパラついてましたが、明るくなっていくとともに、雨が止んで、快晴とまではいかなかったものの、日中はいい天気となりました☆
んで、明日(20日)も、降水確率が20%となっており、丸一日晴れる見込みとのこと(^^♪
ただ、明日の夜からは、次第に雲が広がり、明後日(21日)から来週火曜日(26日)までは、『曇り時々雨』となっており、愚図ついた天気が続くみたいです。。。
来週末からはGWが始まるので、出来れば、その前日くらいまでには、天候が安定してほしいものですねヽ(^。^;
さてさて☆
昨日ご紹介した本部町伊野波の『石くびり』を見学した後、この日最後に向かったのは、『石くびり』に向かう途中で、偶然発見した同町東の県道沿いにある敷地。。。
敷地奥に、小さな石碑が建てられており、その横から、後方の丘の上へと延びる階段が見えたので、『石くびり』から戻る途中に少し立ち寄らせて頂きました。
沖縄県国頭郡本部町東にある
『慰霊塔・忠魂碑・戦俸軍人御名之碑』
県道沿いにある敷地内にひっそりと佇む『戦俸軍人御名之碑』。その隣りの階段の上には『慰霊塔・忠魂碑』があります。 |
この日、こちらに到着したのは、午後6時過ぎくらい。。。
敷地は、結構広々としており、ヨメさんの話によると、この広場は、以前は夏休みの際に、子供たちの朝のラジオ体操で使用されていたんだそうです。
※今現在も、こちらでラジオ体操が行われているかは、不明です。。。
県道84号線から見た敷地の出入り口。 |
敷地奥には、かなり古い感じの石碑が建てられていたので、まずはそちらを拝見させて頂くと、石碑前方部分に弾痕らしき跡が、いくつか残ってました。
そして、石碑の台座も、よく見ると、所々欠けている。。。
石碑の裏側を見てみると、『昭和九年十二月吉日建立』と刻まれていたので、どうやら太平洋戦争前に建立されたものみたいですね。
後日、いろいろ調べてみると、こちらは『戦俸軍人御名之碑』という石碑らしく、『本部町在郷軍人遺族会』が昭和9年12月に建立したんだそうです。
戦俸軍人御名之碑 |
ここに刻まれているのは、日露戦争(1904年2月8日)-1905年9月5日)の際に戦死した本部町出身者9名、そして、後の日濁戦争(1914年8月23日-1918年11月)戦没者2名、日支事變(1937年-太平洋戦争の一部)戦没者1名の名前も刻まれているみたいです。
『日濁戦』は、『日独戦争』のことみたいですね。
そして『日支事變(変)』は、『日中戦争』に対する、当時の日本側の呼称とのことなんだそうです。(コトバンク『デジタル大辞泉』の解説より引用)
『戦俸軍人御名之碑』隣りにある階段の上にひっそりと佇む『慰霊塔』と『忠魂碑』。 |
本部町のいくつかの字(あざ)には、慰霊塔が点在しているんですが、こちらの『慰霊塔』は、町全体の慰霊塔となっているんだそうで、1957年(昭和32年)7月31日に建立されたとのこと。
塔の裏面には、昭和二十年第二次世界大戦に於いて戦没せる勇士の納堂」と刻まれていたので、下の方は、納骨堂となっているみたいですね。
階段中腹あたりから見た『慰霊塔』と『忠魂碑』。 |
『忠魂碑』の裏側には、『大正四年十一月十日』と刻まれていました。
慰霊塔 |
忠魂碑 |
こちらにある『忠魂碑』も、その中の一基みたいですね。
読谷村の渡慶次や座喜味にある『忠魂碑』を調べた時も、同じ内容の資料を何度か目にしました。
『忠魂碑』とは、元々、日清戦争や日露戦争で、国家や天皇陛下のために戦死した軍人や軍属の忠義の魂を顕彰するために、自治体が建立した石碑なんですが、戦後は、読谷村渡慶次にある『忠魂碑』のように『慰霊碑』として、そのまま残している地域もあるみたいです。
・・・と、ここまで見学させて頂いた後、『慰霊碑』と『忠魂碑』、そして『戦俸軍人御名之碑』に手を合わせてから、こちらを後に致しました。
沖縄県内には、こちらのような『慰霊碑』や『忠魂碑』(別の呼称をされている地域もあります)が、多く点在しているので、今後も、少しずつご紹介していきたいと思います。
それでは、そろそろこの辺で。。。でわでわ☆★☆
最後まで読んでくださって、ありがとうございますm(_ _)m
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☆『慰霊塔・忠魂碑・戦俸軍人御名之碑』☆
☆場所:〒905-0211
沖縄県国頭郡本部町東
☆入場料:無料
☆トイレ:無し
☆駐車場:あり