◎沖縄貝塚時代前期後半の貝塚と約200年前に伊波子が移住したとされる御嶽☆|沖縄放浪日記

この記事をシェアする

2016年4月13日水曜日

◎沖縄貝塚時代前期後半の貝塚と約200年前に伊波子が移住したとされる御嶽☆

ハイサイ☆

昨日(12日)の沖縄本島は、朝から小雨がシトシト降り続き、あまりパッとしない一日でしたね。。。

んで、今日(13日)も、降水確率が70%となっており、予報では丸一日雨とのこと。。。

今現在の週間天気予報によると、今週末、金曜日・土曜日の二日間だけ『曇り・晴れ』となっており、その他の日は『曇り』か『雨』となってます・・・

この愚図ついた天気は、一体いつまで続くんでしょうかね。。。(泣)

さてさて☆

この前、『小禄墓』を見学した後、次に向かった史跡は、同じ宜野湾市内にある貝塚跡と御嶽なんですが、特に御嶽は、『心霊スポット』としてとても有名な場所でして、ネット上ではいろいろ取り沙汰されています。。。

宜野湾市の大昔の歩みを探る貴重な場所であり、とても神聖な場所でもあるのに、『心霊スポット』として紹介されているのは、なんだか悲しくなっちゃいますね。。。

・・・と、悲観してては話が進みませんので、気を取り直してご紹介しますね。

まずは、沖縄県宜野湾市大山にある
『大山貝塚』
大山貝塚
こちらは、宜野湾市の国道58号線『真志喜(北)』の交差点から、そのまま58号線を北上して、最初の信号を右折、すると『パイプライン』に差し掛かるんですが、こちらもそのまま通過して約230mほど進むと右側にあります。

こちらには、『大山貝塚』と記された標柱が新旧2本立てられており、新しい標柱の隣には石製の説明板が設置されていました。

その説明板を、引用します。
《大山貝塚》
《昭和47年5月15日 国指定》
≪この貝塚は巨岩を東に負い、北も同様な巨岩で画され、西と南は崖となった東西約50メートル、南北約15メートルのテラス状の平地に貝層が点在してできています。

昭和33年に実施された発掘調査では、貝層は約50戦地メートルの堆積となっており、磨製石斧、土器・骨針等の骨製品類が出土しています。

土器は、伊波、荻堂貝塚出土品とくらべて、型式的に後出のものが主体で、沖縄の貝塚時代前期後半に属します。これは縄文後期に並行するものです。

調査者はこの貝塚から出土する土器を6類に分けて分類しています。

そのうちⅡ類土器の横捺刻文を口縁部縁帯文として施文する土器は本貝塚中特筆すべき特徴があり現在南島先史土器のうち大山式土器として型式設定されています。
沖縄県教育委員会
昭和53年3月31日≫
・・・と書かれていました。
『大山貝塚』後方の琉球石灰岩の崖壁
『大山貝塚』の古い標柱が後方に立てられていたので、貝塚は、その後方にある琉球石灰岩なのかと思っていたんですが、いろいろ調べてみると、どうやら貝塚は、もっと奥にある聖域とされる『大山御嶽』の中にあるみたいですね。

この『大山貝塚』の標柱がある場所を通過して、さらに奥へと進み、道の終点まで行きます。

道の終点には、『普天間基地』のフェンスがあり、『大山御嶽』はこのフェンスを右側にあるいていくと、その奥にあります。

沖縄県宜野湾市大山にある
『大山御嶽』
大山御嶽(美底山御嶽)
『大山御嶽』は、かつては『美底山(ミスクヤマ)』と呼ばれていた場所なんだそうで、約200年前に伊波子(イハシー)という人物がこちらに移り住み、子孫繁栄を祈願し、この場所に御嶽を建て、松を植えたんだとか。。。

なので、こちらは『伊波ヌ御願小』と呼ばれているらしく、『伊波門中』の発祥の地となっているみたいです。

『伊波門中』は、ウチマーや旧歴9月9日に、こちらで拝みを行っているんだそうですよ。
『大山御嶽』の入口。左側は『普天間基地』のフェンス。
言い伝えによると、昔、本島南部の南風原町宮城に『御宿井(ウスクガー)』という井戸があり、この隣に『大国子(オオクニシー)』という人物が住んでいたんだそうです。

ある晩、隣の『御宿井』が光っているので、様子を見に行くと、天女が水浴びをしていたんだとか。

『大国子』は、木に掛けてあった羽衣を盗み隠した後、再び井戸に戻って、天に帰れなくなった天女に話しかけ、後に天女を嫁にしてしまいました。
参道から見た『大山御嶽』
それからしばらくして、一男一女を授かり、女の子は成人してノロ(祝女)となったんだそうです。

このノロとなった女の子の子孫は、姓が分れていき、伊波子(イハシー)』という者が約200年ほど前にこちらに移り住みました。

『伊波子』が移り住んだ時代は、清水があり、近くに海もあってとても豊かな土地だったとのこと。

『伊波子』は、ここに家を構え、子孫繁栄を祈願して、御嶽を建立し、松を植えたんだそうです。

・・・と、これが『大山御嶽』に纏わるお話です。
『大山御嶽』の隣に立てられた石碑
『大山御嶽』の隣には、1761年に建立された石碑が建てられています。

この石碑から、『大山御嶽』を挟んで反対側には、広場のような場所があります。
『大山御嶽』に向かって右側の広場
この広場を囲むように石灰岩があり、その下側にはガマらしき場所が点在してました。
広場から参道側を見たところ。写真左側も拝所のようでした。
こちらもガマみたいでしたが、石で塞がれてました。
また、『大山御嶽』の祠の真下にも、ガマがあり、入口には香炉が1基置かれたました。
祠の真下にガマが見え、その手前側にもガマがありました。
祠の真下にあったガマ。ガマ内部が本来の拝所とのこと。
いろいろ調べていくと、このガマの内部が、本来の『大山御嶽』とのことで、中に拝所があるんだそうですよ。
ワタクシは、恐れ多くて内部には入りませんでしたが。。。

こちらで今回、突然訪問したことや見学させてほしい旨を、手を合わせてお話致しました。

そして、この香炉がある場所から、さらに奥に獣道が続いていたので、そちらにも少しお邪魔させていただくと、琉球石灰岩の拝所らしき場所が奥の方に見えました。
拝所らしき場所。
・・・と、こちらまで見学させて頂いた後、参道の方へと戻り、祠に向かって、再度、突然訪問したこと、そして見学させて頂いたことを感謝して、御嶽を後にしました。

宜野湾市の公式HP《古き琉球の文化をたずねて》のページに記載されている説明によると、『1899年7月に、青森県出身の加藤三吾先生という人物が、沖縄各地の御嶽・ウガンと呼ばれる村落にある拝所を「太古村落の遺址」と考えて調査した』とのこと。

続けて、『そのひとつに、ここ大山の「ヤホソ森」御嶽の「ミソカ・イマホラ」と呼ばれる竪穴形の石灰洞があり、磨製の石斧3例と盃形の凹石を採集されました。』とも記載されていました。

宜野湾市によると、こちらは『ヤホソ森御嶽』とも呼ばれているみたいですね。。。

そして、『ミソカ・イマホラ』という石灰洞は、先ほどの祠の真下にあるガマのことのようです。

『大山御嶽』は、宜野湾市の歴史を知る上で、大変貴重な場所であり、とても神聖な場所でもあるので、これからも、綺麗に大切に保存していってほしいものですね。。。

それでは、この辺で。。。でわでわ☆★☆

最後まで読んでくださって、ありがとうございますm(_ _)m
宜しければブログランキングへ 御協力お願い致します。
ブログランキング・にほんブログ村へ    

☆『大山貝塚』・『大山御嶽(美底山御嶽)』☆


☆場所:〒901-2223
      沖縄県宜野湾市大山

☆入場料:無料

☆トイレ:なし

☆駐車場:なし