◎沖縄の戦跡めぐり☆|沖縄放浪日記

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2014年11月23日日曜日

◎沖縄の戦跡めぐり☆

『沖縄にある戦跡』と聞いたら、大抵は南部の方をイメージされると思うんですが、意外と中部方面にも戦跡があるんです☆数は圧倒的に南部の方が多いんですが・・・

そこで沖縄の中部にある戦跡もちょこっと紹介したいと思います(^^)/

以前、『普天間基地』で紹介した宜野湾市嘉数にある『嘉数高台公園』
その公園内に慰霊碑や戦跡があるんですよ。
嘉数高台公園☆
みなさん『嘉数の戦い』ってご存知ですか?

太平洋戦争末期の沖縄戦で、この嘉数高地をめぐって1945年4月8日から16日間にわたり行われた戦いのことで、沖縄戦の中でも最大級の戦闘の一つなんだそうです。
旧日本軍が実際に使用してた『トーチカ』
この高台に旧日本軍が「反斜面陣地」を構築し、北から攻めてくる米軍に対して頑強に抵抗したため、米軍から「嘉数」は『死の罠』とか『忌々しい丘』などと呼ばれたそうです。
右側から見た『トーチカ』
この16日間の内に両軍の戦死傷者は合わせて約10万人に上ったと言われるぐらい、大激戦だったみたいです。

『京都の塔』『嘉数の塔』の慰霊碑
また、米軍側の戦史には「嘉数地区で米軍が失った戦車22台というのは、沖縄の一戦闘での損害としては最大のものであった」と記録されているそうです。
『京都舞台激戦死守の地』碑
そんな「大激戦」だったこの『嘉数高台』には、今現在でも戦跡が当時の状態で保存されてます。

その一つが『トーチカ』。これはロシア語で「点」とか「拠点」を意味する軍事用語で、防御の中心となる陣地のことです。
『青丘の塔』
この『トーチカ』は鉄筋コンクリート製で、厚さは最大1mあり、内部は2m四方で、大人が3人入れるくらいの広さがあります。

北側に向けて射撃するための銃眼が2ヶ所あり、そこから小銃や機関銃などを出して、米軍を攻撃してたそうです。

この『トーチカ』の前上部が大きく破損してるのは、おそらく砲火を浴びた時の痕跡なのでしょうね。
『島根の兵奮戦の地』の塔
また、近くには『京都の塔』『嘉数の塔』をはじめとする、慰霊碑が立ち並んでいます。

『京都の塔』は、京都府出身沖縄戦没者2536柱の御霊の冥福と世界の恒久平和を祈念して、玉砕の地である宜野湾市嘉数の丘に京都市民によって建立された
塔のことです。
『島根の兵奮戦之地』の塔の横に
建てられてた『弔魂』の石碑
『京都の塔』と同じ敷地内にある『嘉数の塔』は、嘉数の住民が建てた石碑で、嘉数部落に日本軍が駐留していたため、嘉数の人々はこの日本軍の京都舞台を援助、輸送等の任務につき、区民の過半数が犠牲になったので、その本土防衛の使命感に殉じた区民の誠意に対し、永久に英勲を讃えた塔のことです。
『島根の兵奮戦之地』の斜め前にあった『拝所』
また『京都の塔』の敷地隣には、韓国人・朝鮮人を祀った『青丘の塔』があります。
実は、沖縄戦で犠牲になった人は、沖縄県民を含む日本人、アメリカ人だけではなく、多くの朝鮮民族も含まれてたそうなんです。
『青丘』とは、韓・朝鮮半島のことで、昔の中国では中国側から見た半島のことをそう呼んでたんだそうです。
嘉数集落の民家から移築された『弾痕の塀』
またその近くに『島根の兵奮戦之地』の石碑と『弔魂』の石碑がありました。沖縄にある『島根の塔』自体は、沖縄県糸満市米須にあるので、なぜこちらにこの石碑が建てられてるのかわかりませんでした。。。

たぶん、京都出身の兵隊さんと共にこちらで戦った島根出身の兵隊さんのために建てられたのかもしれませんね。

そして、その『島根の兵奮戦之地』の石碑の前には『拝所』もありました。

これだけの数の石碑がこちらに祀られてることを見てると、やはりこの嘉数高台がものすごい激戦の地だったとゆーことが伝わってきますね。
『陣地壕』
この他にも嘉数集落の民家から移築された『弾痕の塀』や当時のまま保存されている『陣地壕』がありました。

話がだいぶ長くなってしまったので、今回はこの辺で・・・
また中部にある他の戦跡も何れご紹介できればと思います(^^)b

でわでわ☆

最後まで読んでくださって、ありがとうございますm(_ _)m
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☆『嘉数高台公園』情報☆

☆場所:〒901-2226 沖縄県宜野湾市嘉数1丁目5

☆駐車場:有り

☆トイレ:有り

☆自由見学