◎沖縄初の外交官となった人物の業績を讃える顕彰碑☆|沖縄放浪日記

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2015年9月14日月曜日

◎沖縄初の外交官となった人物の業績を讃える顕彰碑☆

どーもども☆

今日からまた一週間が始まりましたね☆

今週ガンバれば、来週はいよいよ『シルバーウィーク』ですよ♪o(^-^)o

皆さんは、何処か遊びに行く予定とかされていますでしょーか???

ワタクシは、またまた沖縄本島北部方面へモトクロスバイクレース『チビモト』の観戦や釣りキャンプに行く予定でございます(≧▽≦)b

連休中、お仕事の方は、体調に気をつけてガンバってくださいねヽ(^。^)ノ

さてさて☆

この前、浦添市当山にある『そば処 一本松』で昼食を食べた後、そのアパートの後ろ側に小さな公園があることに気が付きました☆

その公園入口のフェンスにある小さな案内板には『顯影碑』があると記されていたので、ちょこっと行ってみることにしました♪

沖縄県浦添市当山にある『田場盛義(せいぎ)顕彰碑』
当山小公園内にある『田場盛義顕彰碑』
こちらは、『そば処 一本松』がある『コーポ米須』とゆーアパートの裏側にある『当山小公園』のほぼ中央付近にあります☆

この『田場盛儀』とゆー人物は、なんと第二次大戦前に『沖縄初の外交官』として活躍した人物なんだそうです。
浦添小公園
顕彰碑の下部に設置されている説明板によると・・・
≪田場盛義(1894年-1937年)は、浦添市当山で出生。沖縄初の外交官となり国際的にも活躍した沖縄の先駆者である。

田場の外交官としての資質は、絶えず語学の教科書と辞書を持ち歩き、また休日には、庭先の木に登り英単語に熱中した。そのため地元では、学ブラー(学問狂い)と呼んだ程である。

1915年、東京外国語学校(現東京外大)に入学、難関な外務書記生試験に合格する。

任地は、外務省本省・中国福州・香港・アモイ・吉林・漢口・南京の領事館から退任後は、上海商務官事務所・旧満州国外交部・通州特派員公署であった。

上海では、松岡洋右(後の外務大臣)の秘書役を務め、その実力は高く評価された。
田場盛義顕彰碑
郷土への想いも強く、雅号は沖縄振興を計る意味の「耕南」と称した。しかし不幸な日中戦争で志半ばに四十二歳の若さで生涯を閉じた。

葬祭は、田場の業績を称え『満州国葬』、『那覇市葬』が営まれた。

沖縄を担い中国を生きた田場の生涯は、先駆者として浦添・沖縄の近現代を代表する人物である。

生誕の地に浦添市・各方面の拠金により顕彰碑を建立し、次世代と市民・区民の道標とする。
(撰文 又吉盛清編著参照)
2010年3月吉日 当山自治会・田場盛義顕彰碑建立期成委員≫
・・・と書かれていました。
顕彰碑下部にある写真。右側が『田場盛義』
いろいろ調べてみると、難関の外務書記生試験には、東京外国語学校の第二学年在学中、22歳の若さで合格したんだそうですよ!!

さらに外務書記生在職中には外交科予備試験にも合格していたんだとか。。。

その秀でた語学力と才能で大活躍した田場盛義でしたが、満州国外交部から駐冀東通州特派員公署に派遣された際、抗日運動が高まり、通州事件に巻き込まれます。

田場盛義自身も、公署内で応戦したそうですが、体内に十数発の弾丸を受けて殉職してしまったんだそうです。。。
公園内は、遊具もあり綺麗に整備されていましたよ。
田場盛義の亡骸は、1973年8月に満州国葬の後、田場盛義の母親が住む那覇市に移送され、その際には県をあげて出迎えられたんだそうです。

同月25日に那覇市葬が盛大に開催された際には、約千名が参列していたんだとか。。。

田場盛義の生家は、この『当山小公園』の隣りにあったんだそうですよ。

近隣にある史跡『当山の石畳道』を見学したついでに、若しくは『そば処 一本松』に食事しに行った際には、こちらの『沖縄初の外交官 田場盛義顕彰碑』もぜひ見学してみてくださいo(^-^)o

それでは、この辺で。。。でわでわ☆★☆

最後まで読んでくださって、ありがとうございますm(_ _)m
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☆『田場盛義顕彰碑』☆

☆場所:〒901-2104
      沖縄県浦添市当山2-37

☆時間:自由見学

☆入場料無料

☆駐車場:無し

☆トイレ:有り(公園内)

☆公園内施設:滑り台・ブランコ