八重瀬町志多伯の西部プラザ公園東南側に位置する丘陵上にある杜☆|沖縄放浪日記

2018年7月3日火曜日

八重瀬町志多伯の西部プラザ公園東南側に位置する丘陵上にある杜☆

ハイサぁ~イ⭐

前々回まで読谷村喜名にあるいくつかの史跡をご紹介させて頂きましたが、今回は再び八重瀬町にある『西部プラザ公園』内にある史跡をご紹介させて頂きたいと思います。

以前、『西部プラザ公園』内にある『テミグラグスク(テミグラの杜)』や『金満の杜(フサトモークワギブク嶽』等をご紹介してきましたが、同公園内にはあと1ヵ所、"杜"があるんですよ。

この"杜"にも、いくつかの拝所や古墓などが点在しているんですが、公園内に建立されている石碑の説明によると、こちらは志多伯集落の"クサティムイ(腰当森)"となっているようですね。
※今回も少し長くなりますが、ご了承下さいませ。。。

沖縄県島尻郡八重瀬町志多伯の『西部プラザ公園』内にある

『赤石の杜』

赤石の杜の写真
『赤石の杜』のウマチーロード沿いにある『国元ヌアジシー』の墓。
『赤石の杜』へは、志多伯集落の北側から入っていきました。

『西部プラザ公園』内に設置されている案内図によると、こちらは東門となっているようです。
赤石の杜の写真
志多伯集落の北側にある東門前から見た『赤石の杜』。
集落から公園へ入ると、拝所が2ヵ所あるんですが、そちらは別の回にご紹介しますので、今回は省略させて頂きます。

その2ヵ所の拝所を通過して東門へ足を進めていくと、丘の中腹辺りに立派な石碑が建立されていました。
神谷夏吉翁畜産功労碑の写真
神谷夏吉翁畜産功労碑。
石碑に記されていた文字は、難しくてワタクシには判読出来なかったため、後日、この石碑について調べてみると、この石碑は東風平尊初代村長に就任した『神谷夏吉』という人物の畜産功労碑なのだそうです。
神谷夏吉翁畜産功労碑の写真
『神谷夏吉翁畜産功労碑』の前面。
石碑の台座部分と裏面に出生や学歴、職歴などの碑文が記されていたんですが、文字が擦れたりしてて判読が難しかったんで、ネットでちょこっと調べてみると・・・

『神谷夏吉』氏は、1869年(明治2年)に東風平尊志多伯に屋号神谷の四男として生れたんだそうです。

そして、沖縄県師範学校を卒業した後、東風平村の初代村長に就任し、24年間村政を担当したのだそうですよ。
村長に在任中、1913年(大正2年)には県会議員に当選し、大正6年にも再選されたのだそうです。
神谷夏吉翁畜産功労碑の写真
『神谷夏吉翁畜産功労碑』の裏面。沖縄戦の際にできた弾痕が残されています。
また、1919年(大正8年)には志多伯信用販売購買組合長、翌大正9年には島尻郡産馬組合長、さらに翌年の大正10年には産業組合中央会沖縄支部評議員などを歴任されたとのことです。

それだけに留まらず、氏は1938年(昭和13年)に農林大臣より馬事振興功労賞、翌年の昭和14年には高松宮宣仁親王殿下より「銀製花瓶壱箇」を下賜され、さらに昭和18年には監受褒賞を受賞されたんだそうです!

氏の活動と多大な功績を讃え、島尻郡畜産組合では1941年(昭和16年)に畜産功労碑を建立したのだそうです。
神谷夏吉翁畜産功労碑の写真
『神谷夏吉翁畜産功労碑』の台座部分。文字が擦れて判読出来ませんでした。。。(泣)
しかし、『神谷夏吉』氏は、1945年(昭和20年)に沖縄戦で没してしまったのだそうで、功労碑も過去に4度の移設を経て、現在の場所に建立されたのだそうです。

石碑の裏面には、沖縄戦の際にできた弾痕が残されていましたよぉ~。。。

この『神谷夏吉翁畜産功労碑』を見学した後、東門から『赤石の杜』へ上ろうとすると、東門の近くに小さな説明板が立てられた階段を発見しました。
地頭之殿の写真
『地頭之殿』の入口。
説明板に近づいて、記されていた説明を読んでみると、この階段の先には『地頭之殿(ジトウノトン)』と称される拝所があるのだそう。。。

んで、説明によると・・・≪当銘を治めていた地頭が住居を構えていたことから、村の人たちは地頭之殿とよんでおり拝所となっている。ウマチーでは稲穂をお供えし、上ヌ西神谷(ウイヌイリガナ)からタバコ盆を借りて休憩所として利用している。≫とありました。
地頭之殿の写真
階段の先にあった『地頭之殿(ジトウノトン)』の拝所。
説明を読み終えて階段を上がり、奥へ進んでいくと、突き当りの茂みに1基の香炉と『地頭之殿』と記された石柱が立つ拝所がありました。

こちらを見学させて頂いた後は、すぐに引き返し、東門から『赤石の杜』へと入っていきました。
赤石の杜の写真
東門から『赤石の杜』に入って来たところ。
東門から階段を上がると、丘の上へ向かって『ウマチーロード』が伸びており、その先に説明板が立てられているのが見えました。

ほんで、その説明板へ近づいて、記されていた説明を読んでみると・・・
高岩と国元ヌアジシーの説明板の写真
『ウマチーロード』沿いに立てられていた『高岩』と『国元ヌアジシー』の説明板。
『高岩(タカシー)』『国元(クニモト)ヌアジシー』という御墓の説明で、『高岩(タカシー)』の方には≪ティミグラ按司の娘のお墓があり、今も遺骨が納められている。≫とあり、『国元ヌアジシー』の方には≪拝む方向が二ヵ所あり遥拝所の役割がある。≫と記されていました。
高岩(タカシー)の写真
『高岩(タカシー)』のお墓がある場所の入口。
説明を読み終え、説明板のウマチーロードを挟んで向かい側にある階段を上がっていくと、左側に草木で覆われた大きな岩があり、その根元付近に『高岩(タカシー)』の御墓がありました。
玉城世と高岩の写真
岩の根元にあった『玉城世』と『高岩(タカシー)』(右)のお墓。
先程の説明には記されていませんでしたが、岩の根元には『高岩』の御墓の他に『玉城世』の御墓もありました。

そして、『玉城世』と『高岩』の御墓の向かいに森の中へと続く階段があり、その先に獣道があったので、今度はそちらへ進んでみることにしました。
赤石の杜の写真
『玉城世』と『高岩』の向かい側にあった獣道。
階段を下りて獣道を進むと、すぐ左側の少し高い場所に小さな石積みを発見したんですが、その根元には『高御墓』と記された石柱が立てられていました。
高御墓の写真
獣道沿いにあった『高御墓』。
石積みは木の根元に沿うようにして造られており、説明にはありませんでしたが、どうやらこちらも とある人物の御墓となっているようですね。

獣道は、この『高御墓』の前からさらに奥へと続いていたので、そちらへ歩を進めました。
金クン・ウ御墓の写真
獣道の先にあった『金クン・ウ御墓』と記された石柱の立つ崖葬墓。
獣道を進んでいくと、突き当りにフェンスがあり、そこを右折すると、右側の岩の根元に石積みで造られた崖葬墓がありました。

崖葬墓の前には1基の香炉が置かれており、その横には『金クン・ウ御墓』と記された石柱が立てられていました。

こちらもまた説明には記されていなかったため、どのような人物が葬られているのかなどの詳細は、残念ながら不明です。。。

獣道の突き当りには、こちらの崖葬墓しかないようでしたので、獣道を引き返してウマチーロードに戻り、ウマチーロードをさらに北向けに進むことにしました。
国元ヌアジシーの写真
ウマチーロード上から見た『国元ヌアジシー』の御墓。
ウマチーロードに戻って、歩を進めると、先程の『玉城世』と『高岩』の御墓がある岩の裏側にあたる場所に立派な石積みの御墓がありました。

その御墓の前には2基の香炉と1本の石柱が立てられていたので、ちょこっと近づいてみると・・・石柱には『国元ヌアジシ』と記されていました。
国元ヌアジシーの写真
岩の根元にあった『国元ヌアジシー』の御墓。
御墓は、ご覧のように岩陰を利用して石積みで造られた崖葬墓となっており、自然石とコンクリートブロックで綺麗に造られていましたね。

この『国元ヌアジシー』の御墓を後にし、ウマチーロードをさらに進んでいくと、少し開けた場所に差し掛かり、その東側に森の中へ入ることの出来る入口がありました。
赤石の杜の写真
ウマチーロードの少し開けた場所にあった森の入口。
入口から森の中の様子を伺うと、綺麗に草刈り・清掃が行われて綺麗な状態だったので、今度はその奥を見学することに。。。
赤石の杜の写真
ウマチーロードから階段を下りてきたところ。獣道は上ってるように見えますが、実は下ってます(笑)。
ウマチーロードから階段を下りて、獣道を進んでいくと、その先に大きな岩があり、その岩陰に人工的に造られた石積みの遺構がありました。
赤石の杜の中にあった古墓の写真
獣道の先にあった崖葬墓跡らしき石積み。
こちらは自然石を利用して岩陰を囲うようにして造られていたのですが、石柱とか説明板などが設置されていなかったので、"古墓"なのか或いは"拝所"なのかなど、詳細は不明です。。。

また、周辺には、この遺構以外に"拝所"や"古墓"などの史跡は見当たらなかったため、獣道を引き返して、さらに北へ進むことにしました。
赤石の杜の写真
開けた場所からウマチーロードを北向けに見たところ。
ウマチーロードをさらに北向けに進んでいくと、遠くの方に『テミグラグスク(テミグラの杜)』と『フサトモー(金満の杜)』が見えました。
『赤石の杜』から見た『テミグラグスク(テミグラの杜)』(左)と『フサトモー(金満の杜)』
んで、ウマチーロードをさらに進んでいくと、途中左側に赤瓦屋根の建造物がある小さな広場があり、ここも史跡か何かなのかと思ったんですが、こちらには案内板や説明板などはなく、ただの休憩所となっているようですね(笑)。
赤石の杜の写真
ウマチーロード沿いにあった休憩所。
この休憩所前からさらにさらに進んでいくと、ウマチーロードの両側に丘の上へと続く階段があったので、まずは左側の階段から上がってみることにしました。
赤石の杜の写真
ウマチーロード沿いにあった階段。この先は草木が繁茂していて進入出来ませんでした(泣)。
この階段の先にも"拝所"か何かがあるのかとも思ったんですが、階段を上りきると、その先は草木が繁茂していてこれ以上進むことは出来なくなっていました(泣)。
赤石の杜の写真
階段の先の様子。草木が繁茂していてこれ以上進めませんでした。。。
・・・なので、階段を下りて、今度はその反対側(フサトモー側)にある階段を上がってみることにしました。
フサトモー(金満の杜)の写真
もう一方の階段の先にあった遊歩道。
階段を上がると、その先には定期的に草刈り・清掃が行われているらしき遊歩道がずっと奥の方まで続いていたので、この先へ行ってみたんですが、この先は『フサトモー(金満の杜)』の西側にある『馬ンザ広場』近くに繋がっており、この遊歩道沿いには"拝所"などは見当たらなかったため、そのまま引き返しました。
赤石の杜の写真
『フサトモー(金満の杜)』側にある階段上から見た『赤石の杜』。
階段を下りて、ウマチーロードを『馬ンザ広場』向けに進んでいくと、その途中に詩が記された歌碑を発見しました。
西部プラザ公園内に建立されている歌碑の写真
字当銘に伝わる『東風平間切り各村めぐり歌』が記された歌碑。
歌碑には、「むらの高さや志多伯や うたきくさとる当銘村 にせがすなわい小城や」という字当銘に伝わる『東風平間切り各村めぐり歌』が記されていました。

また、歌碑の左隣には<歌碑の説明>が設置されていたので、そちらを読んでみると・・・

<歌碑の説明>
≪この歌碑は、字当銘に残る先人から伝わる「東風平間切り各村めぐり歌」の中の志多伯・当銘・小城を詠んだ歌詞である。 歌詞の内容は、いずれもクサティムィの特徴から表現されている。
西部プラザ公園内に建立されている歌碑の説明の写真
歌碑の左隣に設置されていた<歌碑の説明>。
●村の高さや・・・東風平間切りの再興丘陵地(クサティムィ)は志多伯の「赤石の杜」の高瀬(琉球石灰岩)である。

●うたきくさとる・・・当銘の御嶽は、琉球国王・舜天との関係も深く、琉球国由来記に「当銘ノ嶽神名ソントンノ御イベ」とあり、その御嶽は背後地の「テミグラの杜」というクサティに抱かれている。

●にせがすなわい・・・小城のクワギフクの御嶽は、獅子を形どった「ニンセー石」の史跡があり、字民の五穀豊穣・無病息災・子孫繁栄の祈願の拝所である。特に昔から男子出生との関わりが伝えられている。≫
・・・とありました。

この歌碑まで見学した後は、ウマチーロードを引き返してクルマへと戻り、次は小城集落や志多伯集落内に点在する"拝所"は"拝井泉"などの史跡を見学しに向かいました。
西部プラザ公園の写真
歌碑の前から見た八重瀬岳。
・・・と、区切りがいいので今回はここまでにして、この続きはまた別の回にご紹介したいと思います。

それでは、そろそろこの辺で・・・でわでわ☆★☆

最後まで読んで下さいまして、誠にありがとうございますm(_ _)m
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『赤石の杜(西部プラザ公園)

☆場所:〒901ー0413
      沖縄県島尻郡八重瀬町志多伯(西部プラザ公園内)
☆見 学:無料

☆駐車場:あり(西部プラザ公園駐車場)

※訪れる際は、くれぐれもマナーを守って、他の来訪者や地元の方々に迷惑をかけないよう、十分気を付けてくださいね。