沖縄海外移民の父と称される人物の銅像と金武区内にある2つのガマ☆|沖縄放浪日記

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2018年5月24日木曜日

沖縄海外移民の父と称される人物の銅像と金武区内にある2つのガマ☆

ハイサぁ~イ⭐

今月(5月)の2日、再び金武町へと足を運びまして、金武区や並里区、そして中川地区にある史跡を見学してきました。

まず最初に向かったのは金武区内にある「沖縄海外移民の父」と称され、移民政策に情熱を注いだ人物の銅像と金武区内にある2つのガマです。

沖縄県国頭郡金武町字金武にある

『當山久三の像とアナガー・メーカジメーヌガマ』

當山久三の像の写真
金武町役場の後方にある丘に建立されている『當山久三の像』。
まず最初に向かったのは、2つのガマ。

その内の1つは、『金武公会堂』の道向かいにある広場の1画にあります。
アナガーの写真
『金武公会堂』前の広場にある横長の建物。
広場の東側に横長の建物があり、倉庫やトイレとなっているんですが、その建物の一部がガマの入口となっています。

こちらは『アナガー』と称されるガマで、戦時中は住民の避難壕として使用されていたようです。
アナガーの写真
建物沿いにある道路から見た『アナガー入口』
『アナガー』の入口は広場側と道路側の2ヵ所に設けられているんですが、鉄柵が設けられカギがかけられていて、内部に入ることは出来ません。
アナガーの写真
広場から見た『アナガー入口』。こちらも施錠されています。
過去に、この『アナガー』に入ったことがある方のブログを拝見させて頂くと、内部は立派な鍾乳石がある洞穴となっており、水汲み用のプールや水路があるんだそうです。
(※参考⇒沖縄洞窟探検『アナガー』)

また、入口に近い場所は地盤が硬く比較的歩きやすいようですが、奥へ行くほど粘土質の地盤になり、歩くのが困難になるとのことです。
アナガーの写真
『アナガー入口』から階段の奥を見たところ。かなり深そうでしたね。
さらに、この『アナガー』は、もう1つのガマと内部で繋がっているんだそうで、そちらは『メーカジメーヌガマ』と呼ばれているんだそうです。

『アナガー』をササッと見学し終え、徒歩でその『メーカジメーヌガマ』へ向かおうとしたんですが、なかなか見つけることが出来なかったため、『金武公会堂』の職員の方に教えてもらいました。
※場所を教えて下さった『金武公会堂』の職員の皆様、その節は誠にありがとうございました🙇
メーカジメーヌガマの写真
『メーカジメーヌガマ』がある空き地の奥にある茂み。
『メーカジメーヌガマ』の場所を地図で確認すると、『アナガー』がある場所から少し離れていたため、クルマで向かうことに。。。

『メーカジメーヌガマ』は、『アナガー』がある場所から東南東に直線距離で約160mほどの場所に位置しており、国道329号線沿いにある『金武郵便局』の裏手にある空き地の一画にあります。
メーカジメーヌガマの写真
草木の覆われていて分かりにくいですが、『メーカジメーヌガマ』の入口。
空き地の片隅にクルマを停め、『メーカジメーヌガマ』へ近づいてみると、つい最近、草刈り清掃が行われたらしく、ガマの手前側は比較的綺麗な状態になっていました。

・・・が、ガマの入口と思われる場所に近づいてみると、入口やその周辺は草木が鬱蒼と生い茂り、表からは人が立ち入れないようにするための柵のようなものが設置されているのが見えるくらいで、ガマの中はあまり見えませんでした。。。
メーカジメーヌガマの写真
ガマの入口と思われる場所。奥に進入防止のための柵が見えます。
んで、ガマの入口と思われる場所の前から左側へ移動してみると、地面と岩壁の間に洞口と思われる穴があったんですが、こちらにも進入防止のための金網が設置されていました。
メーカジメーヌガマの写真
ガマの入口前から左側に移動したところ。進入防止のための金網と柵が見えます。
こちらは、手前側に雑草があまり無かったため、柵に近づくことが出来たので、柵の間からカメラを入れて、僅かですが内部の様子を伺うことが出来ました。
メーカジメーヌガマの写真
ガマの入口側を撮影したところ。
内部は横長になっており、石や土砂が流れ込んでいて、地面と岩の間はあまり広くはありませんでしたね。
メーカジメーヌガマの写真
今いる場所から正面を撮影したところ。こちらは行き止まりになっていました。
先述したように、この『メーカジメーヌガマ』は『アナガー』と繋がっているんだそうで、たぶん先程のガマの入口の奥から『アナガー』へと向かうことが出来るのでしょうね。

また、こちらも『アナガー』と同様に、戦時中は住民の避難壕として使用されていたらしく、内部には拝所も設けられているのだそうですよ。
(※参考⇒沖縄洞窟探検『メーカジメーヌガマ』)
當山久三の像の写真
『當山久三の像』の入口。
『メーカジメーヌガマ』を見学した後、次に向かったのは『金武町役場』の後方にある丘です。

この丘の上には「沖縄海外移民の父」と称され、移民政策に情熱を注いだ『當山久三』の銅像が建立されています。
當山久三の像の写真
階段上がったその先に『當山久三』の銅像があります。
銅像へは、役場側からも向かうことが出来るようですが、役場前の道路を東向けに進み、最初の十字路を左折して約25mほど進むと、左側に丘の上へと続く階段があり、そこから向かうこともできます。
基本的にはこちらから向かうのが一般的なようです。

階段前の道路には、役場の専用駐車場があったので、そちらにクルマを停めてから見学へと向かいました。
當山久三の像の写真
當山久三の像
階段を上がっていくと、その先に『當山久三の像』が見えました。

銅像に近づいていくと、台座部分には「志士當山久三氏の像」と記されており、さらにその下部には1903年の第2回ハワイ移民出発の際に『當山久三』が詠んだ短歌「いざ行かむ 吾等乃家は 五大州」と記されていました。
當山久三の像の写真
遥か彼方を指さす『當山久三の像』。
また、銅像に向かって右側には「誠一つの金武世界石」と記された石柱が建立されていました。

この石柱に刻まれた「誠一つの金武世界石」という言葉は、先程の「いざ行かむ 吾等乃家は五大州」という短歌の続きとなっているようで、「いざ行かむ 吾等乃家は 五大州 誠一つの金武世界石」となるようです。
台座にある「志士當山久三氏之像」と短歌「いざ行かむ 吾等乃家は 五大州」
そして、銅像に向かって左側には『當山久三』の略歴が記された石碑が建立されていました。
當山久三の像の写真
「誠一つの金武世界石」と刻まれた石柱。
その石碑に記されている略歴を読んでみると・・・

≪故 当山久三氏之略歴≫
≪故当山久三氏は、明治元年この地に生まれ、沖縄縣師範学校を卒業、東京淀橋小学校を最後に教職を去り爾後その人生を自由民権運動海外移民の創始に献げた先駆の士である。

明治十二年の廃藩置縣に伴い沖縄は新時代を迎えた。しかし縣民に自治権國政参與権が与えられず加之、縣知事は新しい支配者として圧迫と搾取の独裁専横を極め、ために沖縄縣民は屈従と経済窮兎を強いられたものである。

当山久三氏が教職を辞したのは斯る殖民地的支配からくる縣民の奴隷化を見かね、敢然自由民権の獲得に挑むためであった。
當山久三の像の写真
『當山久三』の略歴が記された石碑。
時代は英雄をつくるという。当山久三氏は、当時の沖縄の待望した英雄であり、そして氏の強い意志と超人的努力は遂に縣民開放の偉業を成し遂げたのである。即ち縣知事の専横政治は、官界、教育界をはじめ各面において沖縄人を差別待遇するのみでなく経済活動の面でも制約を加え、その非政は全縣民の反対を押し切って強行された。

広大な共有地の無償配分、農家生活の基礎として先哲具志頭親方蔡温の善政により造成されていた杣山の無償拂下げなど権力につながる一部の私腹を肥やすものとなって、その極に達した、そこで当山久三氏同志謝花昇氏と共に広く同志の紏合を計り知事追放による縣政の改革に起ち上った。

斯くて縣内における挺身と同時に中央への請願運動も強力に展開、明治十二年の縣會創設明治四十三年の国會参與の基礎を築いた。もとよりその間専制治下だけにこの種運動に対する官憲の彈圧はきびしく幾度か脅迫或いは刺客の難に逢うなど想像に絶するものがあった。

当山久三氏はまた土地狭隘、人口過剰の対策として、つとに海外移民問題にとっくみ、その送り出しに盡力した。しかしそこにも縣知事の時期尚早論による官憲の防害があり、さらに一般縣民の移民に対する認識不足と資金調達の困難があった。
當山久三の像の写真
銅像の後方にある『當山久三記念館」。
だが氏の熱情と努力は、これらの難関を克服、遂に明治三十二年十二月五日第一回ハワイ移民二十余人の送り出しに成功、次いで明治三十六年第二回ハワイ移民四十五人を自ら引率し、茲に日本でも有数な移民としての基礎を確立したのである。

氏はその壮途に際し『いざ行かん吾等の家は五大洲』の不朽の言葉を縣民に贈った。これによって移民熱は〇と高まり、米本國、南米諸國さらに南方諸國へと雄飛相継ぐようになた。

惟うに氏が当時の蒙昧なる官憲に屈し且つ卒先範を垂れることがなければ明治四十一年に発布された自由移民禁止の転航禁止令に阻まれ、ハワイの沖縄移民は皆無であったのみでなく、五大洲における十万の沖縄移民の繁栄もなかったであろう。

当山久三氏は縣民の深い尊敬と信頼をうけて、明治四十二年第一回の縣會議員に当選して、その晩年を飾ったが明治四十三年九月十七日他界、沖縄のため生き抜いた氏の波瀾に満ちた生涯はここに終りを告げた。
當山久三記念館の写真
『當山久三記念館」前に設置されていた概要。
昭和六年その徳を慕い功績を讃えてこの地に銅像と記念館が建立されたが銅像は第二次世界大戦の金属回収のため撤去された、よって在ハワイ並びに在北米同胞と在郷有志の淨戝により、これを再建したものである。
一九六一年九月三十日 当山久三氏銅像再建期成會 寄贈 合資會社松岡配電
建設責任者 會長 松岡政保
書 新垣隆優 刻 山口弘≫
・・・とありました。

略歴を読み終えて、銅像の後方へ移動すると、略歴にも記されていた『當山久三記念館』がありました。

建物内は、まだ灯りがついていたので、入館できそうだったんですが、この日はこの後もいろいろ回る予定だったので、今回は入館しませんでした。
※後で分かったことなんですが、入館するには事前に役場で予約が必要らしいですよ。。。

・・・と、ここまで見学した後、そのままクルマへ戻ろうとすると、『當山久三の像』がある場所から東側の斜面に大きな石碑が建立されているのを発見!

んで、左から回り込んで石碑の前方へ行こうとしたんですが、現在の場所からは行けなさそうだったので、一旦、表の道路に下りてから石碑の前に向かいました。
忠魂碑の写真
『當山久三の像』の東側斜面に建立されていた『忠魂碑』。
・・・がしかし、道路側からもこの石碑へ向かうことは出来ず(泣)、どうやら先程の場所から茂みをかき分けて向かうのが正解のようでした。。。

気を取り直して、現在の場所から石碑を見てみると、碑には『忠魂碑』と刻まれており、台座部分には桂冠の輪の中に旧海軍の錨と旧陸軍の五芒星が描かれた徽章が記されていました。
忠魂碑の写真
『忠魂碑』。左下に文字が記されており、『陸軍大将』までは読めましたが、残りは判読出来ませんでした。
忠魂碑の写真
台座部分には桂冠で囲われた旧海軍・陸軍の徽章が記されていました。
また、『忠魂碑』と記されたところの左下にも文字が記されており、上部の"陸軍大将"までは読めたんですが、その後の部分は判読出来ませんでした(泣)

こちらの『忠魂碑』を訪れたことのある方のブログを拝見させて頂くと、こちらの『忠魂碑』は、定かではないですが、在郷軍人会の会長である陸軍大将が昭和6年~12年の間に建立したものではないか・・・とのことでした。
(※参考⇒碧血の島『大和世(やまとゆー)14 金武町金武 忠魂碑』)

・・・と、ここまで見学した後は、そのままクルマへと戻り、次の目的地へと向かいました。

今回は、ここで終わりにして、この続きはまた別の回にご紹介したいと思います。
忠魂碑の写真
木々に囲まれた丘の中腹にひっそりと佇む金武町金武の『忠魂碑』。
それでは、そろそろこの辺で。。。でわでわ☆★☆

最後まで読んで下さいまして、誠にありがとうございますm(_ _)m
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『金武町字金武に点在する史跡

☆場所:〒904ー1201
      沖縄県金武町字金武【中森(ナーカムイ)・ヘーシンバ・ティダガー森林公園・上ヌ毛公園・モウシヌムイ公園・トゥムスズ御嶽・金武大川・慶武田川・その他】
※中川区・並里区・金武区の3行政区は、字金武に属しているため、3行政区内にて見学した史跡を全部まとめてグーグルマップに掲載しました。

☆見 学:無料

☆駐車場:無し

※訪れる際は、くれぐれもマナーを守って、他の来訪者や地元の方々に迷惑をかけないよう、十分気を付けてくださいね。