今月(5月)の2日、再び金武町へと足を運びまして、金武区や並里区、そして中川地区にある史跡を見学してきました。
まず最初に向かったのは金武区内にある「沖縄海外移民の父」と称され、移民政策に情熱を注いだ人物の銅像と金武区内にある2つのガマです。
沖縄県国頭郡金武町字金武にある
『當山久三の像とアナガー・メーカジメーヌガマ』☆
金武町役場の後方にある丘に建立されている『當山久三の像』。 |
その内の1つは、『金武公会堂』の道向かいにある広場の1画にあります。
『金武公会堂』前の広場にある横長の建物。 |
こちらは『アナガー』と称されるガマで、戦時中は住民の避難壕として使用されていたようです。
建物沿いにある道路から見た『アナガー入口』。 |
広場から見た『アナガー入口』。こちらも施錠されています。 |
(※参考⇒沖縄洞窟探検『アナガー』)
また、入口に近い場所は地盤が硬く比較的歩きやすいようですが、奥へ行くほど粘土質の地盤になり、歩くのが困難になるとのことです。
『アナガー入口』から階段の奥を見たところ。かなり深そうでしたね。 |
『アナガー』をササッと見学し終え、徒歩でその『メーカジメーヌガマ』へ向かおうとしたんですが、なかなか見つけることが出来なかったため、『金武公会堂』の職員の方に教えてもらいました。
※場所を教えて下さった『金武公会堂』の職員の皆様、その節は誠にありがとうございました🙇
『メーカジメーヌガマ』がある空き地の奥にある茂み。 |
『メーカジメーヌガマ』は、『アナガー』がある場所から東南東に直線距離で約160mほどの場所に位置しており、国道329号線沿いにある『金武郵便局』の裏手にある空き地の一画にあります。
草木の覆われていて分かりにくいですが、『メーカジメーヌガマ』の入口。 |
・・・が、ガマの入口と思われる場所に近づいてみると、入口やその周辺は草木が鬱蒼と生い茂り、表からは人が立ち入れないようにするための柵のようなものが設置されているのが見えるくらいで、ガマの中はあまり見えませんでした。。。
ガマの入口と思われる場所。奥に進入防止のための柵が見えます。 |
ガマの入口前から左側に移動したところ。進入防止のための金網と柵が見えます。 |
ガマの入口側を撮影したところ。 |
今いる場所から正面を撮影したところ。こちらは行き止まりになっていました。 |
また、こちらも『アナガー』と同様に、戦時中は住民の避難壕として使用されていたらしく、内部には拝所も設けられているのだそうですよ。
(※参考⇒沖縄洞窟探検『メーカジメーヌガマ』)
『當山久三の像』の入口。 |
この丘の上には「沖縄海外移民の父」と称され、移民政策に情熱を注いだ『當山久三』の銅像が建立されています。
階段上がったその先に『當山久三』の銅像があります。 |
基本的にはこちらから向かうのが一般的なようです。
階段前の道路には、役場の専用駐車場があったので、そちらにクルマを停めてから見学へと向かいました。
當山久三の像。 |
銅像に近づいていくと、台座部分には「志士當山久三氏の像」と記されており、さらにその下部には1903年の第2回ハワイ移民出発の際に『當山久三』が詠んだ短歌「いざ行かむ 吾等乃家は 五大州」と記されていました。
遥か彼方を指さす『當山久三の像』。 |
この石柱に刻まれた「誠一つの金武世界石」という言葉は、先程の「いざ行かむ 吾等乃家は五大州」という短歌の続きとなっているようで、「いざ行かむ 吾等乃家は 五大州 誠一つの金武世界石」となるようです。
台座にある「志士當山久三氏之像」と短歌「いざ行かむ 吾等乃家は 五大州」。 |
「誠一つの金武世界石」と刻まれた石柱。 |
≪故 当山久三氏之略歴≫
≪故当山久三氏は、明治元年この地に生まれ、沖縄縣師範学校を卒業、東京淀橋小学校を最後に教職を去り爾後その人生を自由民権運動海外移民の創始に献げた先駆の士である。明治十二年の廃藩置縣に伴い沖縄は新時代を迎えた。しかし縣民に自治権國政参與権が与えられず加之、縣知事は新しい支配者として圧迫と搾取の独裁専横を極め、ために沖縄縣民は屈従と経済窮兎を強いられたものである。
当山久三氏が教職を辞したのは斯る殖民地的支配からくる縣民の奴隷化を見かね、敢然自由民権の獲得に挑むためであった。
『當山久三』の略歴が記された石碑。 |
広大な共有地の無償配分、農家生活の基礎として先哲具志頭親方蔡温の善政により造成されていた杣山の無償拂下げなど権力につながる一部の私腹を肥やすものとなって、その極に達した、そこで当山久三氏同志謝花昇氏と共に広く同志の紏合を計り知事追放による縣政の改革に起ち上った。
斯くて縣内における挺身と同時に中央への請願運動も強力に展開、明治十二年の縣會創設明治四十三年の国會参與の基礎を築いた。もとよりその間専制治下だけにこの種運動に対する官憲の彈圧はきびしく幾度か脅迫或いは刺客の難に逢うなど想像に絶するものがあった。
当山久三氏はまた土地狭隘、人口過剰の対策として、つとに海外移民問題にとっくみ、その送り出しに盡力した。しかしそこにも縣知事の時期尚早論による官憲の防害があり、さらに一般縣民の移民に対する認識不足と資金調達の困難があった。
銅像の後方にある『當山久三記念館」。 |
氏はその壮途に際し『いざ行かん吾等の家は五大洲』の不朽の言葉を縣民に贈った。これによって移民熱は〇と高まり、米本國、南米諸國さらに南方諸國へと雄飛相継ぐようになた。
惟うに氏が当時の蒙昧なる官憲に屈し且つ卒先範を垂れることがなければ明治四十一年に発布された自由移民禁止の転航禁止令に阻まれ、ハワイの沖縄移民は皆無であったのみでなく、五大洲における十万の沖縄移民の繁栄もなかったであろう。
当山久三氏は縣民の深い尊敬と信頼をうけて、明治四十二年第一回の縣會議員に当選して、その晩年を飾ったが明治四十三年九月十七日他界、沖縄のため生き抜いた氏の波瀾に満ちた生涯はここに終りを告げた。
『當山久三記念館」前に設置されていた概要。 |
一九六一年九月三十日 当山久三氏銅像再建期成會 寄贈 合資會社松岡配電
建設責任者 會長 松岡政保
書 新垣隆優 刻 山口弘≫
・・・とありました。略歴を読み終えて、銅像の後方へ移動すると、略歴にも記されていた『當山久三記念館』がありました。
建物内は、まだ灯りがついていたので、入館できそうだったんですが、この日はこの後もいろいろ回る予定だったので、今回は入館しませんでした。
※後で分かったことなんですが、入館するには事前に役場で予約が必要らしいですよ。。。
・・・と、ここまで見学した後、そのままクルマへ戻ろうとすると、『當山久三の像』がある場所から東側の斜面に大きな石碑が建立されているのを発見!
んで、左から回り込んで石碑の前方へ行こうとしたんですが、現在の場所からは行けなさそうだったので、一旦、表の道路に下りてから石碑の前に向かいました。
『當山久三の像』の東側斜面に建立されていた『忠魂碑』。 |
気を取り直して、現在の場所から石碑を見てみると、碑には『忠魂碑』と刻まれており、台座部分には桂冠の輪の中に旧海軍の錨と旧陸軍の五芒星が描かれた徽章が記されていました。
『忠魂碑』。左下に文字が記されており、『陸軍大将』までは読めましたが、残りは判読出来ませんでした。 |
台座部分には桂冠で囲われた旧海軍・陸軍の徽章が記されていました。 |
こちらの『忠魂碑』を訪れたことのある方のブログを拝見させて頂くと、こちらの『忠魂碑』は、定かではないですが、在郷軍人会の会長である陸軍大将が昭和6年~12年の間に建立したものではないか・・・とのことでした。
(※参考⇒碧血の島『大和世(やまとゆー)14 金武町金武 忠魂碑』)
・・・と、ここまで見学した後は、そのままクルマへと戻り、次の目的地へと向かいました。
今回は、ここで終わりにして、この続きはまた別の回にご紹介したいと思います。
木々に囲まれた丘の中腹にひっそりと佇む金武町金武の『忠魂碑』。 |
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☆『金武町字金武に点在する史跡』☆
☆場所:〒904ー1201
沖縄県金武町字金武【中森(ナーカムイ)・ヘーシンバ・ティダガー森林公園・上ヌ毛公園・モウシヌムイ公園・トゥムスズ御嶽・金武大川・慶武田川・その他】
※中川区・並里区・金武区の3行政区は、字金武に属しているため、3行政区内にて見学した史跡を全部まとめてグーグルマップに掲載しました。
☆見 学:無料
☆駐車場:無し
※訪れる際は、くれぐれもマナーを守って、他の来訪者や地元の方々に迷惑をかけないよう、十分気を付けてくださいね。