南城市玉城當山にある尚泰久王の長男と次男が居住していた2つのグスク跡☆|沖縄放浪日記

2018年8月6日月曜日

南城市玉城當山にある尚泰久王の長男と次男が居住していた2つのグスク跡☆

ハイサぁ~イ⭐

前々回、南城市玉城富里に点在する史跡をご紹介しましたが、富里集落内に点在する史跡を見学した後、今度は富里集落の南西側に位置する當山集落内に点在するグスク跡や拝所を見学しに向かいました。

沖縄県南城市玉城當山にある

『安次富グスク・大川グスク』

安次富グスクの写真
『安次富グスク』のグスク域内にある古墓。
當山集落内にも、グスク跡をはじめいくつかの拝所や拝井泉などの史跡が点在しているんですが、今回は、當山集落にある2つのグスク跡をご紹介させて頂きたいと思います。
安次富グスクの写真
県道48号線から国道331号線に抜ける道路から見た『安次富グスク』。
『安次富グスク』は、富里集落の南側を通る県道48号線から国道331号線に抜ける片側一車線の抜け道沿いにあり、當山集落の東端に位置しています。

南城市の資料『第五章 歴史文化保存活用区域の方向性』によると、『安次富グスク』は琉球王国第一尚氏王統・第六代国王『尚泰久』の長男『安次富金橋』が築いたとされるグスクなんだそうです。
安次富グスクの写真
大小2つの岩の間に奥へと続く獣道があり、そこに標柱が立てられています。
安次富グスクの写真
『安次富グスク』と記された標柱が立つ、グスク域入口。
グスク域は、現在草木が繁茂しており、石積みなどの遺構は見当たりません。

先程の南城市の資料にも、石積みは確認できないと記されています。
安次富グスクの写真
道路からグスク域に向かって右側の岩。
また、資料によると道路からグスク域に向かって左側の大岩には上と下に按司墓があると記されているんですが、大岩の根元にある崖葬墓は見学できたんですが、大岩の上にあるという按司墓は、入口が分からなかったため確認出来ませんでした。。。
安次富グスクの写真
入口を入ってすぐ左側の巨岩の根元にある崖葬墓。
安次富グスクの写真
小川を背に2基の崖葬墓を見たところ。
道路からグスク域入口を入っていくと、すぐ左側の大岩の根元に大小2基の古い崖葬墓がありました。

どうやらこの2基の崖葬墓が、資料に記されていた按司墓と思われます。
安次富グスクの写真
ガジマルの木の根が張った按司墓。
安次富グスクの写真
上の写真の崖葬墓の右隣にある小さな崖葬墓。
この2基の崖葬墓には墓標が設けられていなかったため、どちらがどの人物の御墓となっているのかなど、詳細は不明です。。。

ちなみに、『安次富グスク』に居城していた『安次富金橋(加那巴志との表記もあります)』の御墓は、こちらには無く、ここから南へ約100mほどの距離にある巨岩の中腹に父親である『尚泰久』の御墓と一緒にあります。
※『安次富加那巴志之墓』は、過去に当ブログでもご紹介したことがあるので、『安次富加那巴志之墓』は、そちらをご参照下さい。⇒https://oki-night.blogspot.com/2017/06/blog-post_13.html
安次富グスクの写真
グスク域内を流れる小川の上流側。
この2基の崖葬墓の前から、グスク域をさらに奥へ進むと少し掘り下げられて造られた小川がありました。

小川は、綺麗に整備されていたんですが、この小川が当時から存在していたのかは、残念ながら不明です。。。
安次富グスクの写真
下流側を見たところ。
安次富グスクの写真
2基の崖葬墓の前から南側の小岩後方を見たところ。こちらには遺構などは見当たりませんでした。
・・・と、ここまで『安次富グスク』を見学させて頂いた後、今度は『安次富グスク』の南南西側(左斜め向かい側)に位置する『大川グスク』を見学しに向かいました。
大川グスクの写真
『安次富グスク』前から見た『大川グスク』。
南城市の資料『第五章 歴史文化保存活用区域の方向性』によると、『大川グスク』は琉球王国第一尚氏王統・第六代国王『尚泰久』の次男『三津葉多武喜』の住居跡と記されています。
※南城市の資料『第五章 歴史文化保存活用区域の方向性』では、『三津葉多武喜』は"三男"と表記されていますが、『三津葉多武喜』は"次男"で、"三男"は『尚徳』(琉球王国第一尚氏王統 第7代国王)です。
大川グスクの写真
表の道路から集落へと続く小道。
兄である『安次富金橋』と『三津葉多武喜』は、父である『尚泰久』と折り合いが悪かったんだそうで、長男『安次富金橋』と四男の『八幡加那志』と一緒にこの地に田舎下りし、『三津葉多武喜』は、この『大川グスク』を築いたとのことです。

また、『大川グスク』には『尚泰久』の長女『百十踏揚』も居住していたんだそうで、『三津葉多武喜』と『百十踏揚』の二人の御墓は、当初この『大川グスク』内にあったのだそうです。
(※参考⇒南城市の資料『第五章 歴史文化保存活用区域の方向性』)
大川グスクの写真
小道を入って右側の森の様子。
そして、後に二人の御墓は、『南城市陸上競技場』の東側の丘陵中腹に移葬されたんですが、南城市の資料によると、『大川グスク』内には『三津葉多武喜』の移葬前の古墓が残っているようですね。
※『百十踏揚の墓』・『三津葉多武喜の墓』をご紹介した過去のブログ記事はこちらからどうぞ⇒https://oki-night.blogspot.com/2017/09/blog-post_2.html
大川グスクの写真
小道を入って左側の森の様子。この場所からは森の中へ入れそうな道は見当たりませんでした。。。
・・・と、話を戻しまして。。。

表の道路から當山集落へと伸びる小道があったので、そこから入ってみることに。。。
大川グスクの写真
小道の先にあった城門を思わせる岩が両側にありました。
表の道路から小道を入っていくと、両側は草木が生い茂る森になっており、左側の森の奥が『大川グスク』の領域となっているようです。

しかし、草木が繁茂しており、進入するのは難しかったため、小道をそのまま進むことにしました。

小道を進んでいくと、城門を思わせるような岩が両側にあり、小道はその間を通って集落内へと伸びていました。
大川グスクの写真
岩の間を通過して左側にあった広場。
その城門っぽい岩の間を通過すると、視界がパーッと開け、左側に原っぱがある場所に出ました。

その原っぱの奥にある岩壁に、"ガマ"らしき横長の洞口が見えたんですが、この原っぱは私有地っぽかったので、原っぱに入るのは遠慮させて頂きました。
大川グスクの写真
小道の先は當山集落内へと続いていました。
大川グスクの写真
『屋良神屋』前から見た、先程の原っぱ。
小道を進むと、右側に民家があるんですが、その敷地内に『屋良神屋』と思われる建物がありました。
大川グスク 屋良神屋の写真
民家の敷地内にあった『屋良神屋』と思われる建物。
當山公民館に設置されていた『當山ガイドマップ』によると、『屋良神屋』では『尚泰久』やその子孫が祀られていると記されていました。

この『屋良神屋』を通過していくと、今度は右側に大きな岩があるんですが、その大岩と『屋良神屋』の塀の境目辺りに小さな洞穴があり、その洞穴の中に拝井泉が設けられていました。
大川グスクの写真
『屋良神屋』を通り過ぎると、小道にせり出した大岩があり、その根元に拝井泉がありました。
大川グスク 石下井の写真
大岩の根元の洞穴にあった『石下井』と称される拝井泉。
『當山ガイドマップ』の分布図によると、こちらは『石下井』と称される拝井泉とのことです。

この『石下井』を通過すると、當山集落に入ります。
大川グスクの写真
今来た小道を振り返ってみたところ。
當山集落に入って左折し、『大川グスク』の西側を目指して集落内の道を進みます。
大川グスクの写真
グスク域西側の集落内から見た『大川グスク』。
どこかからグスク域へと進入できそうな道を探してはみたんですが、民家が立ち並んでいたり、草むらになっていたりして、とてもじゃないけど、そのような道は見つけられませんでした。。。(泣)

・・・なので、来た道を戻り、『安次富グスク』と『大川グスク』の間を通る道路を南下することにしました。
『大川グスク』の南側の岩壁にあった古墓。
道路沿いのグスク域側の森に目をやりながら進入路を探しますが、やはり見つかりません。。。(泣)

んで、そのまま道路を進んでいくと、グスク域南側の少し高くなった場所に立派な古墓があるのみで、やはりグスク域内への進入路は発見出来ませんでした。。。

まぁ、グスク域に入ることが出来なかったのはちょっと残念でしたが、気を取り直して今度は當山集落内に点在する史跡を見学しに向かいました。

・・・と、区切りがいいので今回はここまでにして、この続きはまた別の回にご紹介したいと思います。

それでは、この辺で・・・でわでわ☆★☆

最後まで読んで下さいまして、誠にありがとうございますm(_ _)m
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『南城市玉城當山の史跡

☆場所:〒901ー0612
      沖縄県南城市玉城當山

☆見 学:無料

☆駐車場:無し

※訪れる際は、くれぐれもマナーを守って、他の来訪者や地元の方々に迷惑をかけないよう、十分気を付けてくださいね。