前回ご紹介したうるま市石川白浜の『ちゅら浜食堂』で食事を終えた後、一路金武町へ向けてクルマを走らせました。
沖縄県国頭郡金武町字屋嘉にある
『底森御嶽・ヨリブサノ御嶽・屋嘉のウフカー』☆
屋嘉集落の北東に位置する田芋畑に囲まれた丘の上に位置する『ヨリブサノ御嶽』。 |
屋嘉集落内には、2つの御嶽とかつて集落の住民の生活を支えた大井戸、そして、集落の創始者が住んでいたかつての家で、祭祀を行なう場所となる"根屋(ニーヤ)"などがあります。
(※参考⇒沖縄方言辞典『根屋(ニーヤー)』)
集落の中央に位置する『屋嘉のウフカー』。 |
こちらは、近年まで集落の住民の飲料水や生活用水として利用されていた井戸で、屋嘉集落の"村カー"として構築されたと伝えられているんだそうです。
『屋嘉のウフカー』内部。転落防止の鉄格子が設置されており、手前には1基の香炉が置かれていました。 |
また、手前には1基の香炉が置かれており、ウフカー周辺はとても綺麗な状態が保たれていました。
『屋嘉のウフカー』の横に設置されていた説明板と劣化した古い標柱が立てられていました。 |
≪金武町指定文化財 屋嘉のウフカー(大井戸)≫
≪一、種別 民族文化財(有形)一、指定 平成五年四月二十七日
一、所在地 金武町字屋嘉十四番地
ウフカーは屋嘉部落の中央に位置する石積みの掘り下げ井戸で屋嘉の村かーとして構築されたと伝えられ、近年まで地域住民の飲料水や生活用水として利用されていた。
ウフカーは往時から部落の祭祀と深い関わりのあるカミカー(神井戸)とされ、正月元旦の若水や産水を汲み、死者の清めの水にも使われた。
『屋嘉のウフカー』の説明板。 |
金武町教育委員会≫
・・・とありました。『屋嘉のウフカー』を見学した後、次に向かったのは集落の北に位置する『屋嘉西児童公園』です。
この公園は、小高い丘陵となっており、その上に屋嘉集落の2つある"御嶽"のうちの1つ『底森御嶽(スクムイウタキ)』があります。
『底森御嶽(スクムイウタキ)』入口。 |
まずは、その説明を読んでみると・・・
≪金武町指定文化財 底森御嶽 (神名・コバヅカサノ御イベ)≫
≪一、種別 記念物一、指定 平成四年五月七日
一、所在地 金武町字屋嘉九九番地の一
御嶽は「琉球国由来記(一七一三年)」金武間切屋嘉村底森御嶽と記され、御嶽は(ヨリブサノ御嶽)に対し西の御嶽と称されている。
『底森御嶽』の説明板。 |
屋嘉部落には二つの御嶽が東と西に対峙して位置づけ形成されていることから、屋嘉部落の成立と変遷を知る上でも御嶽は貴重な存在である。
鳥居を潜って階段を上がると、奥の方まで参道が続いていました。 |
金武町教育委員会≫
・・・とありました。説明を読み終えて鳥居を潜り、階段を上がっていくと、参道が奥の方へと伸びていました。
参道の終点。説明に記されていた社の屋根がチラッと見えます。 |
『底森御嶽』の社。 |
内部には1基の香炉が納められていました。 |
『底森御嶽』を見学した後、社の後方へと進んでいくと、遠くの方に東屋と展望台が見えました。
『底森御嶽』の社の後方には、東屋と公園展望台がありました。 |
すると、公園の遊歩道に出たんですが、その向かい側の小さな広場にコンクリートブロック製の古い建造物があり、なんだか"拝所"っぽかったんで、その建造物の前方へ回り込んでみると・・・
遊歩道沿いにある広場にあった拝所。 |
拝所。 |
しかし、位牌などはなく、現在、こちらの"拝所"は使用されていないようでしたね。
建造物の間口の右側には「西暦一九五六年 新六月貮拾貮日 旧五月拾四日 竣工」と記されていました。
遊歩道沿いに建立されていた慰霊碑。 |
屋嘉集落の慰霊碑。 |
台座には日支事変・第二次世界大戦で戦没された屋嘉集落出身者の芳名が記されていました。 |
≪建立のことば≫
≪日支事変以来第二次世界大戦までに戦没された御霊を合祀し御冥福を祈ると共に敬慕の誠を捧げ此処聖なる台地に慰霊の碑を建立す
昭和六十三年九月二十四日 屋嘉遺族会 区民一同≫
・・・とありました。慰霊碑の右側に設けられていた「建立のことば」。 |
『屋嘉西児童公園』の南西側にあった拝所。 |
こちらの拝所は、どうやら屋嘉集落に住む門中の拝所となっているようでしたね。
この拝所まで見学した後は、そのままクルマへと戻り、『底森御嶽』の説明にあったもう1つの"御嶽"を見学しに向かいました。
集落北東側に建立されていた『土地改良之碑』。 |
石碑の右側には、説明板らしき金属製の板が立てられていたんですけど、板面には何も掲載されておらず、詳細は不明です。。。
この石碑を後にし、さらに東向けに進みます。
『ヨリブサノ御嶽』がある屋嘉集落の北東に位置する田畑に囲まれた丘。 |
『ヨリブサノ御嶽』の入口に建立されていた鳥居と説明板。 |
『ヨリブサノ御嶽』の入口から見た風景。 |
≪金武町指定文化財 ヨリブサノ御嶽 (神名・アコウヅカサノ御イベ)≫
≪一、種別 記念物一、指定 平成四年五月七日
一、所在地 金武町字屋嘉一三三八番地
この御嶽は「琉球国由来記(一七一三年)」に金武間切屋嘉村ヨリブサノ御嶽(神名・アコウヅカサノ御イベ)、祭祀は伊芸ノロに所掌と記されている。
『ヨリブサノ御嶽』の説明板。 |
御嶽の森にはコンクリート作りの社があり火の神(ヒヌカン)が安置され、現在屋嘉区での神事の祈りには祭祀によって部落の繁栄と豊年の祈願が行なわれている由緒のある御嶽である。
金武町教育委員会≫
・・・とありました。丘陵上へと続く長~い階段。 |
丘陵頂部の奥にある『ヨリブサノ御嶽』。 |
『ヨリブサノ御嶽』の社。 |
社内部には大小2基の香炉が納められていました。 |
・・・と、ここまで見学させて頂いた後は、参道を戻り、クルマに乗り込んで、次の目的地へと向かいました。
んで、この日はそのまま屋嘉集落を後にしたんですが、後日、改めて金武町内の史跡を調べてみると、屋嘉集落内に"根屋(ニーヤー)"と称される村の創始者のかつての家で、祭祀を中心に行う"拝所"があるとのこと。
なので、別の日に再び屋嘉集落に足を運び、その"根屋"という"拝所"を見学してきました。
根屋(トンチ小)。 |
鳥居から社へと伸びる参道の左側に建立されていた『根屋建立記念碑』と『火之神』の拝所(右側)。 |
『根屋建立記念碑』の台座には碑文が記されていたので、そちらを読んでみると・・・
≪根屋(トンチ小)≫
≪屋嘉村の開闢当時火種を保管し村人が火種を分けあったところが根屋(トンチ小)であった。『根屋建立記念碑』の右隣にある『火之神(ヒヌカン)』の拝所。 |
第二次大戦後根屋として14番地に建立され昭和57年4月に現在の場所に再建された。≫
・・・とありました。
この『根屋建立記念碑』の右隣には、コンクリートブロックで作られた囲いがあり、その中に霊石が納められた『火之神(ヒヌカン)』の拝所があります。
『根屋(トンチ小)』の立派な社。 |
社は扉が閉じられていましたが、内部の様子を伺うことができたので、外から内部を見てみると、4基の香炉が納められていました。
『根屋(トンチ小)』の内部。4基の香炉が納められていました。 |
この『屋嘉ビーチ前』のバス停(北向け)には、『久高島住民強制疎開之記念碑』と『日本軍屋嘉捕虜収容所跡の碑』という2つの石碑が建立されています。
日本軍屋嘉捕虜収容所跡の碑。 |
石碑には碑文も記されていたので、そちらを読んでみると・・・
≪日本軍屋嘉捕虜収容所跡の碑≫
≪第二次世界大戦中(昭和20年)米軍は、この地に捕虜収容所を設け、投降した日本軍将兵約7千人を収容しいて厳しい監視下に置かれた。一時捕虜の数が増え約3千人がハワイに移送された。その時の将兵等はP.Wと呼ばれ敗戦の悲哀の中から郷土出身の一兵士により「屋嘉節」が作られた発祥の地でもある。
この収容所は1946年(昭和21年2月)閉鎖となり米軍保養所となって、1979年(昭和54年)8月31日全面返還されるに及んだ。
昭和58年10月25日竣工≫
・・・とありました。久高島住民強制疎開之記念碑。 |
前面には≪戦世の故に 生まり島はなり 屋嘉村ぬ情き 忘してならん 詠む 並里仙八≫と琉歌が記され、裏面の碑文は≪昭和20年太平洋戦争により久高島の住民は強制立退き命令によって生まれ島を離れ、疎開先である屋嘉に移り、当地の皆さまに大変お世話になった。 よってここに感謝の意を表し、久高島住民強制疎開の事実を、戦争というものの実態と共に構成に永く語り継ぎ、平和を守る礎と資する力となることを願って記念の碑を建立した。 2006年9月20日竣工≫と記されていました。
・・・と、今回も少し長くなってしまいましたが、『底森御嶽』や『ヨリブサノ御嶽』、『屋嘉のウフカー』を見学した後の続きは、また別の回にご紹介したいと思います。
※その際にも、今回のように別の日に再訪した金武町の史跡を合わせてご紹介したいと思います。
それでは、そろそろこの辺で。。。でわでわ☆★☆
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☆『屋嘉区内に点在する史跡』☆
☆場所:〒904ー1203
沖縄県金武町字屋嘉【底森御嶽・ヨリブサノ御嶽・屋嘉のウフカー・屋嘉根屋・土地改良之碑】など。
☆見 学:無料
☆駐車場:無し
※訪れる際は、くれぐれもマナーを守って、他の来訪者や地元の方々に迷惑をかけないよう、十分気を付けてくださいね。