この前糸満市真壁にある『真壁グスク(真壁公園)』を出て帰ろうとした際、公園前から真壁集落へと続く小道の先に木々が生い茂る場所を見つけたんですよ。
その木々の中に、いくつかの石碑が建立されているのが見えたので、そちらにも行ってみることにしました。
沖縄県糸満市真壁にある
『萬華之塔(まんげのとう)』☆
真壁集落の北側にある木々に囲まれた場所にひっそりと佇む『萬華之塔』 |
『真壁公園』の広場前から見た『萬華之塔』が建立されている場所(写真中央付近) |
『萬華之塔』入口 |
入口を入ったところ。正面奥に『萬華之塔』が建立されていました。 |
『萬華之塔』に向かって右側を見たところ。 |
入口側に建立されている石碑には、『珊瑚礁を朱にそめて』と題され、『臨時海軍砲大隊長 陸軍砲兵少佐 仁位顯』と記されており、続けて碑文が記されていました。
『珊瑚礁を朱にそめて』と題された石碑 |
碑文には、『陸軍砲兵少佐 仁位顯』という人物の沖縄戦においての業績が記されていました。 |
どうやら沖縄戦を生き抜き、後に護国神社で慰霊につとめたようです。
そして、この石碑の左隣には『沖縄連隊区司令部戦没職員 慰霊碑』が建立されていました。
『沖縄連隊区司令部戦没職員 慰霊碑』 |
この二基の石碑の広場を挟んで向かい側には、3基の慰霊碑が建立されています。
入口を入って右側に建立されていた三基の慰霊碑 |
『山三四八〇部隊戦没者氏名』碑 |
また、裏側に碑文が記されていたので、こちらは、その碑文を引用させて頂きます。
『鎮魂 山3480部隊(野砲兵第42聠隊) 終焉之地』碑 |
≪鎮魂 山3480部隊(野砲兵第42聯隊) 終焉之地碑 碑文≫
≪山三四八〇部隊(野砲兵第四十二聠隊)は昭和十四年秋関東軍に新設の第二十四師団の特科聠隊聠隊として創設され東部ソ満国境近い東安省西東安に駐屯していたが、同十九年七月動員下令により出動し、南西諸島防衛のため沖縄本島の守備に当っていた。翌二十年三月末より本当に侵攻した連合軍を迎えて、想像を絶するほど激しい弾雨の中で、第一線友軍の支援射撃に、あるいは対戦車攻撃に威力を発揮し再三その進撃を阻止するなど、砲兵の本領そのままに敢闘したのである。
やがて戦況の悪化に伴い、軍命令により島尻南部に後退した部隊は、ここ真壁を中心に陣地を展開してさらに奮戦するも、しだいに弾薬は途絶え死傷者は続出し各隊ごと最後の出撃を決行したがその殆どは、この地一帯で散華した。
『山3480部隊』の鎮魂碑裏面に記された碑文 |
沖縄決戦における我が部隊の戦没者は、聠隊長西沢勇雄大佐以下二千百十余名を数えるが、部隊に配属された防衛隊員はじめ炊事や看護などに献身的に尽くされ、最後は部隊と運命を共にした人や、戦火の犠牲となった多くの住民のいたことを忘れることはできない。
これらのことが、祖国に今日の平和と繁栄をもたらすための礎石となったことを明らかにし、とこしえに御霊安かれと念じつつ、我が部隊終焉の地にこの碑を建立する。
昭和六十二年三月 野砲兵第四十二聠隊戦友会 同 戦没者遺族有志≫
・・・とありました。碑文にあったように、人間だけではなく、多くの馬たちも犠牲となったことから、『山3480部隊』の『鎮魂碑』の右隣には『馬魂碑』が建立されていました。
馬魂碑 |
この『山三四八〇部隊戦没者氏名』碑・『鎮魂』碑・『馬魂碑』が建立されている場所のすぐ右隣りには、『顕彰碑』が建立されていました。
※石碑にある『顕彰碑』の文字の"彰"の部分は、"頌"とされているかもしれません。
顕彰碑 |
顕彰碑の右隣には『故陸軍軍曹 滝沢不二夫命』と記された墓標がありました。 |
そして、『萬華之塔』のある広場の奥には『砲兵山吹之塔』や『萬華之塔』をはじめ、『独立重砲兵第百大隊(球一八八〇四部隊) 鎮魂碑』、『山三四七四部隊(元満州第八八部隊) 慰霊之碑』、そして戦没者個々人の墓標や慰霊碑が建立されていました。
『萬華之塔』を中心に建立されている多くの慰霊碑や墓標 |
砲兵山吹之塔 |
この塔は、1966年6月に建立され、739柱が祀られているんだそうですよ。
『砲兵山吹之塔』の後方にあった『諸霊よ安らかに』と記された慰霊碑 |
萬華之塔 |
"塔"となっているんですが、この"塔"自体が納骨堂となっているようです。
糸満市の公式HP内にある『萬華之塔』のページによると、沖縄戦後に真壁地区の人々が共同で遺骨収集の作業を行い、1951年に納骨堂を建立し、収集した遺骨を安置したんだそうです。
『萬華之塔』の寄付者の氏名が記された石板。 |
独立重砲兵第百大隊(球一八八〇四部隊) 鎮魂碑 |
『萬華之塔』の右側、『独立重砲兵第百大隊 鎮魂碑』の後方にあった十数基の慰霊碑。 |
山三四七四部隊(元満州第八八部隊) 慰霊之碑 |
『山三四七四部隊(元満州第八八部隊) 慰霊之碑』に隣接してあった『俗芽衣谷嶋秀敏』と記された墓標。 |
『萬華之塔』をはじめとする慰霊塔が建立された場所から奥へと続く小道 |
小道の両側は鬱蒼とした茂みとなっていたんですが、定期的に草刈りなどの清掃が行われているらしく、思いのほか綺麗な状態が保たれていましたね。
『アンティラガマ(真壁千人壕)』に続く小道 |
全長約250mとなっており、コウモリの生息するガマとしても知られているとのことです。
沖縄戦当時、このガマには地元民だけでなく他地域の住民も多数避難していたらしく、それと同時に日本兵も雑居していたみたいです。
アンティラガマ(真壁千人壕) |
しかしその後、1945年の6月20日には米軍に包囲されてしまい、ガマにいた部隊は全滅してしまったんだそうです。
当初、『アンティラガマ』には水源が無いと思われていたらしく、この近くにある『ターチューグムイ』や『真壁アンガーガマ』で水を確保していたそうなんですが、戦況が悪化するにつれ、避難してきた人数が多くなり、ガマの奥へ追いやられた避難民が湧水を発見したとのことです。
・・ですが、1945年の7月末には米軍の火炎放射のために、入口付近で多くの犠牲者が出てしまったんだそうですよ。。。
(※沖縄ガマ情報『アンティラガマ』のページより一部引用)
洞口ギリギリまで接近して撮影。現在も洞内には遺留品などがあるらしいので、入壕は遠慮しました。 |
特に5月~7月にかけての繁殖期には、むやみに入壕してしまうと、親たちが驚いて育児放棄してしまう恐れがあり、さらには赤ちゃんが落下して死んでしまうことがあるんだそうです。
なので、入壕する際は、ライトでコウモリを照らしたり、また、コウモリの糞には絶対に触れてはいけないとのことです。
そして、入壕した後は、感染防止のため手洗い必須なんだそうですよ!
壕内には、まだ遺留品などが残されているらしいので、いずれにせよ、入壕は遠慮した方が無難なようですね。
今回も、かなり長くなってしまいましたが、そろそろこの辺で。。。でわでわ☆★☆
☆『萬華之塔』☆
☆場所:〒901-0336
沖縄県糸満市真壁1292(萬華之塔)
※『アンティラガマ』へは、『萬華之塔』から徒歩で向かうことが出来ます。
☆お問合せ:098-840-8111(糸満市役所)
※糸満市公式HP『萬華之塔』のページ⇒http://www.city.itoman.lg.jp/kankou-navi/docs-kankou/2013022500029/
☆見 学:無料
☆駐車場:無し