ハイサイ☆
今日(25日)の沖縄本島は、降水確率が0%となっており、雨は降っていないんですけど、朝から雲に覆われており、『曇り』の天気となってます☆
今日の夕方から明日(26日)の朝方までは晴れる見込みなんですが、明日の午前9時頃から、また曇るみたいですヽ(^。^;
また、昨日(24日)から風がかなり強く、日が当たる場所でも肌寒く感じますね( ̄▽ ̄;
明日にかけて、次第に弱まってくるようで、今日よりは少~し暖かくなりそうです(^^♪
さてさて☆
この前、今月7日に『第10回 やえせ桜まつり』が開催された『八重瀬公園』に行ってきました☆
この『八重瀬公園』内には、『八重瀬グスク跡』や『按司墓』、そして沖縄戦の際に『白梅学徒看護隊』が配備された野戦病院壕跡があります。
今回は、この野戦病院壕跡をご紹介したいと思います。
沖縄県島尻郡八重瀬町富盛にある
こちらはまず、南風原町の沖縄自動車道『南風原南インター』から国道507号線を八重瀬町向けに進みます。
しばらくすると、八重瀬町に入るんですが、今度は国道507号線と県道15号線がぶつかる『富盛』の交差点を、県道15号線に入ります。
県道15号線に入り、約900mくらい進むと、左側に『八重瀬城跡』『八重瀬公園』『白梅学徒病院壕跡』の案内板がありますので、そちらを左折して直進していくと、正面に『八重瀬公園』の名標が見えてきますので、そこが公園の入口となります。
公園入口横には《第24師団第一野戦病院と白梅学徒隊 【次世代に遺すもの それは平和】》と題された大きな説明板が設置されています。
その説明文を引用させて頂きます。
≪沖縄県立第二高等女学校の4年生56人は、第32軍司令部の要請を受け、1945年3月6日から第24師団3486部隊の内務班生活で看護学を受講していた。
同月23日、沖縄本島南部に米軍の艦砲射撃が始まり東風平国民学校での看護学習は18日間で打ち切られた。
翌3月24日から、第24師団第一野戦病院に緊急配備され、6月4日までの73日間、ここ八重瀬岳の本部壕と手術壕、他に、八重瀬町字新城(あらぐすく)の新城分院、同町字東風平(こちんだ)の東風平分院で、それぞれ補助看護婦として傷病兵の看護に当たった。≫
3月24日に、56人全員が本部壕に配置されたが、体調不良や家庭の要望などで数日の間に10人が除隊した。
本部壕に既に内科患者が収容されていたが、伝染病患者(赤痢、結核)なども混在していた。
日中は攻撃が激しく負傷者の救出は困難で、夕刻から搬入される負傷兵は日々増加し、軍医と正看護婦・衛生兵による懸命の治療が行われた。
学徒の任務は食事の世話、排泄物の処理、水汲み、洗い物などの雑用であったが、学徒は野戦病院に無くてはならない存在であった。≫
この壕は、コーラル質のもろい岩盤のため崩落の危険があるとして、現在は八重瀬町によって「立ち入り禁止」とされている。
当時は本部壕を「下の壕」、この手術場壕を「上の壕」と称していた。この壕は幅が2メートル、奥行きが30メートルほどの小さな一抗で、通り抜けが出来る構造になっている。
壕入り口の右手に手術室、左手の壕壁に添って粗末な2段式の病床があった。患者収容能力は70人ほどであった。
ここ上の壕には、4月中旬に5人の学徒が配置された。任務は食事・排泄の世話に加えて、本部壕から食事を運ぶ「飯上げ」、手術時の照明係り「ろうそく持ち」があり、切断された手足や汚物の処理も学徒の任務であった。
連日、夕刻から搬入される重傷兵の傷はすでに悪化してウジが群がり、壊疽(えそ)が確認されるなど一刻を争う状態であった。手術は夜を徹して行われ、手足の切断や弾丸の摘出などの荒療治が行われた。
凄惨な手術場面にひるみがちだった学徒たちは、日を追って任務を自覚し不眠・不休で看護に励んだ。
5月中旬頃には薬品も訪台材料も底を尽き、病院の機能は失われた。
治療もままならず退院する兵もなく病室は満杯であった。民間人負傷者の搬入は皆無だった。≫
《4月1日に米軍が沖縄本島中部西海岸に上陸、既に首里が占領された》と信じ難いニュースの後「自分で身の安全を守れ」と本島南部へ下るよう言い渡された。
第24師団第一野戦病院は、八重瀬岳から糸満市真栄里(現在の白梅之塔のガマ)に撤退し、一部の白梅学徒も合流したが6月16日頃に終焉を迎えたとされている。
解散直前まで勤務した46人の学徒たちは、鉄の防風が吹き荒れた地上戦に巻き込まれ、途中除隊した学徒の犠牲者も含めて22人が戦没した。
僅か10代半ばの年齢で、かけがえのない人生を断たれた彼女たちの無念と悲運を、沖縄戦の真実としてここに後世に伝え遺す。
以上は、白梅学徒たちの証言と体験記によってまとめた記録である。
二高女の学徒隊は、校章の白梅のマークから、戦後は「白梅学徒隊」と呼ばれている。
ワタクシが訪れた時にも、壕入口横には、千羽鶴やお花などが置かれていました。
他の岩の色とは違って、壕の入口周辺は黒ずんでいたんですが、これは米軍の火炎放射の攻撃を受けた跡だと言われているんだそうです。。。
以前、糸満市字真栄里にある『白梅之塔』をはじめ、『ひめゆりの塔』、『積徳高等女学校慰霊之碑(ふじ学徒隊)』、『ずゐせんの塔』、『梯梧之塔』を訪れたことがあり、各女子学徒隊についていろいろ調べたことがあったんですが、各壕ともに、薬や包帯などの医療具が不足している状況下で、治療といえば専ら患部を切断や弾丸の摘出などしかなかったと記されているのを目にしました。。。
また、彼女たちの主な任務は、食事の世話、排泄物の処理、水汲み、洗い物などの雑用と記されていましたが、他にも死体の処理や伝令なども彼女たちに課せられた任務だったという記事も目にしたことがあります。。。
水汲みや伝令、死体処理の任務などで壕の外に出てしまい、そこで命を落としてしまったという学徒隊もいたとのことです。。。
また、各野戦病院壕ともに、撤退の命令が下されて壕を出る際には、動くことが困難、或いは不可能な傷病兵には青酸カリや手りゅう弾などを渡したとも言われていますね。。。
・・・と、話を『八重瀬公園』の方に戻しまして。
『八重瀬公園』の名標がある場所から、さらに奥へと続く道に進むと、左側道沿いに『八重瀬風景ネットワーク 戦跡緑化活動』と記された標柱が立てられた花壇があります。
案内板は出てませんが、この花壇の後方奥にも、大きなガマがありました。
こちらも落盤の危険性があるためか、ガマ手前側に「立ち入り禁止」のロープが張ってありました。
ガマに向かって右側足元に、岩壁が窪んだ場所があって、そこには1つの石が中央に置かれており、拝所みたいでしたね。
そして、左側には、奥へと続いてる感じになっていて、その入口にも拝所らしき石が置かれてました。
もしかすると、先ほどの『白梅学徒看護隊之壕』と繋がっているのかもしれませんね。。。
各戦跡に足を運んで、いろいろ調べたり、体験者の方からのお話しをごく稀に聞くことが出来たりするんですが、想像を絶する凄惨な状況だったことがひしひしと伝わってきます。
ワタクシが、この『八重瀬公園』を訪れた際、散歩に来ていた地元の方が声をかけて下さって、当時のお話をしてくださいました。
この方は、当時7歳だったということですが、今でも昨日のことのように鮮明に覚えていると仰っていました。。。
当時、同じ八重瀬町内にある、今では景勝地として知られる『ギーザバンタ』近くの壕にいたんだそうです。
バンタから見える水平線は、米軍の艦隊で埋め尽くされて、真っ黒になっていたんだとか。。。
そして、そこから逃げるために壕から出ると、死体の山が出来ており、その上を歩かないと逃げることが出来なかったとのこと。
しかし、当時7歳だったので、思うように歩けずにつまずいてしまい、その際に死体の間に手が入ってしまったので、その手を引き抜くと、腕中にウジがびっしりと張り付いていたことが何度もあったそうです。。。
貴重なお話しを聞かせて下さり、誠にありがとうございましたm(_ _)m
今現在、沖縄戦体験者の方が、年々少なくなってきており、直にお話しを聞く機会が減ってきていますが、沖縄戦を風化させないためにも、こちらのような戦跡を大切に保存して、後世に遺していかなければいけませんね。。。
『八重瀬公園』を訪れた際には、この『白梅学徒看護之壕』にも立ち寄ってみてはいかがでしょうか。。。
今回は、『八重瀬公園』の『白梅学徒看護之壕』をご紹介させていただきましたが、今度は『八重瀬グスク跡』をご紹介したいと思います。
それでは、この辺で。。。でわでわ☆★☆
最後まで読んでくださって、ありがとうございますm(_ _)m
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☆『白梅学徒看護之壕』(八重瀬公園内)☆
☆場所:〒901-0402
沖縄県島尻郡八重瀬町富盛1637(八重瀬公園)
☆入場料:無料
☆駐車場:あり
☆トイレ:あり
今日(25日)の沖縄本島は、降水確率が0%となっており、雨は降っていないんですけど、朝から雲に覆われており、『曇り』の天気となってます☆
今日の夕方から明日(26日)の朝方までは晴れる見込みなんですが、明日の午前9時頃から、また曇るみたいですヽ(^。^;
また、昨日(24日)から風がかなり強く、日が当たる場所でも肌寒く感じますね( ̄▽ ̄;
明日にかけて、次第に弱まってくるようで、今日よりは少~し暖かくなりそうです(^^♪
さてさて☆
この前、今月7日に『第10回 やえせ桜まつり』が開催された『八重瀬公園』に行ってきました☆
この『八重瀬公園』内には、『八重瀬グスク跡』や『按司墓』、そして沖縄戦の際に『白梅学徒看護隊』が配備された野戦病院壕跡があります。
今回は、この野戦病院壕跡をご紹介したいと思います。
沖縄県島尻郡八重瀬町富盛にある
『白梅学徒看護隊之壕』
『白梅学徒看護隊之壕』がある『八重瀬公園』の名標と入口 |
しばらくすると、八重瀬町に入るんですが、今度は国道507号線と県道15号線がぶつかる『富盛』の交差点を、県道15号線に入ります。
県道15号線に入り、約900mくらい進むと、左側に『八重瀬城跡』『八重瀬公園』『白梅学徒病院壕跡』の案内板がありますので、そちらを左折して直進していくと、正面に『八重瀬公園』の名標が見えてきますので、そこが公園の入口となります。
左側の階段奥に壕跡があり、右側の階段を上るとグスク跡や多目的広場などに続いてます。 |
その説明文を引用させて頂きます。
≪沖縄県立第二高等女学校の4年生56人は、第32軍司令部の要請を受け、1945年3月6日から第24師団3486部隊の内務班生活で看護学を受講していた。
同月23日、沖縄本島南部に米軍の艦砲射撃が始まり東風平国民学校での看護学習は18日間で打ち切られた。
翌3月24日から、第24師団第一野戦病院に緊急配備され、6月4日までの73日間、ここ八重瀬岳の本部壕と手術壕、他に、八重瀬町字新城(あらぐすく)の新城分院、同町字東風平(こちんだ)の東風平分院で、それぞれ補助看護婦として傷病兵の看護に当たった。≫
この奥に病院壕跡の入口があります。 |
《本部壕での白梅学徒の任務》
≪本部壕は、現在地を左に下って右側にあった。収用能力は500人と言われたが、現在は落盤のため壕口は塞がれ壕全体は確認できていない。3月24日に、56人全員が本部壕に配置されたが、体調不良や家庭の要望などで数日の間に10人が除隊した。
本部壕に既に内科患者が収容されていたが、伝染病患者(赤痢、結核)なども混在していた。
日中は攻撃が激しく負傷者の救出は困難で、夕刻から搬入される負傷兵は日々増加し、軍医と正看護婦・衛生兵による懸命の治療が行われた。
学徒の任務は食事の世話、排泄物の処理、水汲み、洗い物などの雑用であったが、学徒は野戦病院に無くてはならない存在であった。≫
壕入口に続く階段横の岩下にある『白梅学徒看護隊之壕』と記された標柱 |
《重傷兵が搬入された手術場壕》
≪現在地の小階段を上がって、奥の方が手術場壕跡である。この壕は、コーラル質のもろい岩盤のため崩落の危険があるとして、現在は八重瀬町によって「立ち入り禁止」とされている。
当時は本部壕を「下の壕」、この手術場壕を「上の壕」と称していた。この壕は幅が2メートル、奥行きが30メートルほどの小さな一抗で、通り抜けが出来る構造になっている。
壕入り口の右手に手術室、左手の壕壁に添って粗末な2段式の病床があった。患者収容能力は70人ほどであった。
ここ上の壕には、4月中旬に5人の学徒が配置された。任務は食事・排泄の世話に加えて、本部壕から食事を運ぶ「飯上げ」、手術時の照明係り「ろうそく持ち」があり、切断された手足や汚物の処理も学徒の任務であった。
説明板にあった白梅学徒隊の軌跡 |
凄惨な手術場面にひるみがちだった学徒たちは、日を追って任務を自覚し不眠・不休で看護に励んだ。
5月中旬頃には薬品も訪台材料も底を尽き、病院の機能は失われた。
治療もままならず退院する兵もなく病室は満杯であった。民間人負傷者の搬入は皆無だった。≫
階段を上がって壕へと続く狭い小道 |
《解散後の白梅学徒の犠牲》
≪戦況の悪化により6月4日、白梅学徒たちに解散命令が下った。新城分院(ヌヌマチガマ)と東風平分院に配置されていた学徒たちは、前日の3日に本部壕に呼び戻され、翌4日には手術場壕勤務の学徒たちも招集されて、病院長から白梅学徒全員に解散命令が下された。《4月1日に米軍が沖縄本島中部西海岸に上陸、既に首里が占領された》と信じ難いニュースの後「自分で身の安全を守れ」と本島南部へ下るよう言い渡された。
第24師団第一野戦病院は、八重瀬岳から糸満市真栄里(現在の白梅之塔のガマ)に撤退し、一部の白梅学徒も合流したが6月16日頃に終焉を迎えたとされている。
以前、訪れた際に撮影した糸満市字真栄里にある『白梅之塔』。 この塔に向かって右側の方に『白梅学徒看護隊 自決の壕』があります。 |
僅か10代半ばの年齢で、かけがえのない人生を断たれた彼女たちの無念と悲運を、沖縄戦の真実としてここに後世に伝え遺す。
以上は、白梅学徒たちの証言と体験記によってまとめた記録である。
二高女の学徒隊は、校章の白梅のマークから、戦後は「白梅学徒隊」と呼ばれている。
2013年3月設置 八重瀬町教育委員会
沖縄県立第二高等女学校 白梅同窓会≫
『白梅学徒看護隊之壕』入口 |
他の岩の色とは違って、壕の入口周辺は黒ずんでいたんですが、これは米軍の火炎放射の攻撃を受けた跡だと言われているんだそうです。。。
以前、糸満市字真栄里にある『白梅之塔』をはじめ、『ひめゆりの塔』、『積徳高等女学校慰霊之碑(ふじ学徒隊)』、『ずゐせんの塔』、『梯梧之塔』を訪れたことがあり、各女子学徒隊についていろいろ調べたことがあったんですが、各壕ともに、薬や包帯などの医療具が不足している状況下で、治療といえば専ら患部を切断や弾丸の摘出などしかなかったと記されているのを目にしました。。。
また、彼女たちの主な任務は、食事の世話、排泄物の処理、水汲み、洗い物などの雑用と記されていましたが、他にも死体の処理や伝令なども彼女たちに課せられた任務だったという記事も目にしたことがあります。。。
『八重瀬公園』の名標を通過して、左側道沿いの花壇後方にあるガマの入口 |
また、各野戦病院壕ともに、撤退の命令が下されて壕を出る際には、動くことが困難、或いは不可能な傷病兵には青酸カリや手りゅう弾などを渡したとも言われていますね。。。
・・・と、話を『八重瀬公園』の方に戻しまして。
『八重瀬公園』の名標がある場所から、さらに奥へと続く道に進むと、左側道沿いに『八重瀬風景ネットワーク 戦跡緑化活動』と記された標柱が立てられた花壇があります。
案内板は出てませんが、この花壇の後方奥にも、大きなガマがありました。
花壇後方にあったガマ |
ガマに向かって右側足元に、岩壁が窪んだ場所があって、そこには1つの石が中央に置かれており、拝所みたいでしたね。
そして、左側には、奥へと続いてる感じになっていて、その入口にも拝所らしき石が置かれてました。
もしかすると、先ほどの『白梅学徒看護隊之壕』と繋がっているのかもしれませんね。。。
ガマの左側の様子☆(暗かったのでフラッシュを炊いて撮影してます) |
ワタクシが、この『八重瀬公園』を訪れた際、散歩に来ていた地元の方が声をかけて下さって、当時のお話をしてくださいました。
この方は、当時7歳だったということですが、今でも昨日のことのように鮮明に覚えていると仰っていました。。。
ガマに向かって右側の窪んだ拝所らしき場所 |
バンタから見える水平線は、米軍の艦隊で埋め尽くされて、真っ黒になっていたんだとか。。。
そして、そこから逃げるために壕から出ると、死体の山が出来ており、その上を歩かないと逃げることが出来なかったとのこと。
しかし、当時7歳だったので、思うように歩けずにつまずいてしまい、その際に死体の間に手が入ってしまったので、その手を引き抜くと、腕中にウジがびっしりと張り付いていたことが何度もあったそうです。。。
貴重なお話しを聞かせて下さり、誠にありがとうございましたm(_ _)m
『八重瀬風景ネットワーク 戦跡緑化活動』のコスモス畑♪ |
『八重瀬公園』を訪れた際には、この『白梅学徒看護之壕』にも立ち寄ってみてはいかがでしょうか。。。
今回は、『八重瀬公園』の『白梅学徒看護之壕』をご紹介させていただきましたが、今度は『八重瀬グスク跡』をご紹介したいと思います。
それでは、この辺で。。。でわでわ☆★☆
最後まで読んでくださって、ありがとうございますm(_ _)m
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☆『白梅学徒看護之壕』(八重瀬公園内)☆
☆場所:〒901-0402
沖縄県島尻郡八重瀬町富盛1637(八重瀬公園)
☆入場料:無料
☆駐車場:あり
☆トイレ:あり