ハイサ~イ☆
昨日に引き続き、今日も沖縄本島は降水確率が0%となっており、丸一日晴れる見込みのようです(^^♪
今週は、連日いい天気が続いてて、とても気持ちがいいですね(≧▽≦)v
風もだいぶ収まってて日中はポカポカ暖かく、沖縄はほとんど『春』になってます(笑)
さてさて☆
この前、うるま市勝連平安名にある『ワイトゥイ』を見学した後、次に向かったのは、同じ勝連の平安名にある丘☆
この丘は、昔、水不足で苦しむ農民を助けるために、《ため池》を作ったそうなですが、その時に掘り出した土を盛って築いたそうなんですヽ(^。^)☆
沖縄県うるま市勝連平敷屋にある
こちらはまず、うるま市勝連の県道10号線と8号線がぶつかる『与那城』の交差点から、県道8号線に入り米軍施設『White beach』向けに約3.4㎞ほど進みます☆
すると、『White beach』手前の右側に、『平敷屋タキノー』と『製糖工場跡』の案内板がありますので、そこを右折して、今度は約250mくらい進み、また右側に案内板がありますのでそこを右折すると、すぐ左側にあります☆
『製糖工場跡』まで進んで、その向かい側から丘へと続く道があるので、そちらからでも『平敷屋タキノー』に辿り着くことができますよ♪
まずは、『平敷屋タキノー』と刻まれた石碑後方にある説明板を読んでみると・・・
≪この地域は平敷屋タキノーとよばれ、標高70m余りの小さな丘です。
1727年脇地頭(わきじとう)《領主》としてこの地を配された平敷屋朝敏は、水不足になやむ農民のために、ため池をほりました。その時ほり出した土を盛り上げ築いたのがこの丘だと伝えられています。
近年住宅化が進み、タキノーや池も整備・改修がなされ昔と趣を異にしたが、勝連半島を取り巻く太平洋のみはらせる素晴らしい景勝地です。1986年には、和文学者でもあった朝敏の琉歌の記念碑も建立されました。
また、近くには御嶽やヒータチムイ(のろし台)や平敷屋古島遺跡もあり、昔の集落を研究するにも重要な史跡です。
文化財保護条例により、勝連町指定文化財に指定する。
説明板を読んで、さっそく丘の頂上部を目指して歩いていくと、一番高い場所に東屋があり、その手前側に大きな歌碑と碑文がありましたヽ(^。^)☆
石碑の表には平敷屋朝敏の
この歌碑の隣には、これまた大きな碑文があります☆
その碑文には・・・
≪平敷屋掉尾は一七〇〇年首里金城村に生を受け、一七三四年三十四歳の若さで安謝港に於て『八付』にされた。世にいう、平敷屋‟友寄事件”によってである。
朝敏は、薩摩支配下における苦難の時代に、士族という自らの身分におごることなく、農民を始めとした弱い立場の人たちに暖かい眼差しを向けることの出来た、沖縄近世随一の文学者でありました。
思えば、朝敏の憂き目は、当時の封建支配の原理道徳に背を向けようとする、人間としての優しさゆえの到達点でもあったと、言い得ることである。
このタキノーは、朝敏が脇地頭在任中当地平敷屋に滞在した折、農民の水不足を解消するために用水池を掘り、その土を盛りつけて構築したと伝えられている。
さらに彼の和文学の作品『貧家記』には、碑に掲げられた若を始め、当時の勝連の風物や貧しかった領地領民の生活環境が四十首の和歌とともに描写されている。『貧家記』のなかの一首。
琉球和文学の粋を極め、組踊『手水の縁』の作者でもある朝敏はまた、物ごとの本質を見つめ続けようとしたすぐれた批判精神の持ち主でもあった。
次の琉歌はその一端を吐露してあまりある。
そして今、朝敏がこよなく愛したと伝承されるこの地平敷屋タキノーに歌碑を建立し、永く平敷屋朝敏とその志を讃えるものである。
要するに『平敷屋タキノー』の丘は、農民たちのために尽力した平敷屋朝敏の証でもあるわけなんですねぇ~o(^-^)o
勝連方面に遊びに来た際は、この『平敷屋タキノー』にも、ぜひ足を運んでみてくださいませヽ(^。^)ノ♪
丘の頂上から見える景色は、まさに絶景ですよぉ~(⌒▽⌒)ノ☆
それでは、この辺で。。。でわでわ☆★☆
最後まで読んでくださって、ありがとうございますm(_ _)m
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☆『平敷屋タキノー』☆
☆場所:〒904-2314
沖縄県うるま市勝連平敷屋3483
☆時間:自由見学
☆トイレ:あり
☆駐車場:無し
昨日に引き続き、今日も沖縄本島は降水確率が0%となっており、丸一日晴れる見込みのようです(^^♪
今週は、連日いい天気が続いてて、とても気持ちがいいですね(≧▽≦)v
風もだいぶ収まってて日中はポカポカ暖かく、沖縄はほとんど『春』になってます(笑)
さてさて☆
この前、うるま市勝連平安名にある『ワイトゥイ』を見学した後、次に向かったのは、同じ勝連の平安名にある丘☆
この丘は、昔、水不足で苦しむ農民を助けるために、《ため池》を作ったそうなですが、その時に掘り出した土を盛って築いたそうなんですヽ(^。^)☆
沖縄県うるま市勝連平敷屋にある
『平敷屋タキノー』☆
『平敷屋タキノー』の入口と石碑☆ |
すると、『White beach』手前の右側に、『平敷屋タキノー』と『製糖工場跡』の案内板がありますので、そこを右折して、今度は約250mくらい進み、また右側に案内板がありますのでそこを右折すると、すぐ左側にあります☆
『製糖工場跡』まで進んで、その向かい側から丘へと続く道があるので、そちらからでも『平敷屋タキノー』に辿り着くことができますよ♪
『平敷屋タキノー』石碑がある入口の反対側の入口☆ |
≪この地域は平敷屋タキノーとよばれ、標高70m余りの小さな丘です。
1727年脇地頭(わきじとう)《領主》としてこの地を配された平敷屋朝敏は、水不足になやむ農民のために、ため池をほりました。その時ほり出した土を盛り上げ築いたのがこの丘だと伝えられています。
近年住宅化が進み、タキノーや池も整備・改修がなされ昔と趣を異にしたが、勝連半島を取り巻く太平洋のみはらせる素晴らしい景勝地です。1986年には、和文学者でもあった朝敏の琉歌の記念碑も建立されました。
また、近くには御嶽やヒータチムイ(のろし台)や平敷屋古島遺跡もあり、昔の集落を研究するにも重要な史跡です。
文化財保護条例により、勝連町指定文化財に指定する。
平成2年3月26日 勝連町教育委員会≫
・・・と、書かれていました。歌碑や東屋などがある丘に続く遊歩道☆ |
シーソーなどの遊具もありました♪ |
平敷屋朝敏の石碑と歌碑☆その後方の高台には東屋と巨大なシーサーがありました(^^♪ |
平敷屋朝敏の石碑と歌碑☆ |
『哀そのはた打かへす せなかより ながるるあせや 瀧つしらなみ』
と刻まれており、裏には『平敷屋朝敏歌碑建立期成会 昭和六十一年三月三十一日竣工』とありました☆平敷屋朝敏の歌が刻まれた石碑☆ |
その碑文には・・・
≪平敷屋掉尾は一七〇〇年首里金城村に生を受け、一七三四年三十四歳の若さで安謝港に於て『八付』にされた。世にいう、平敷屋‟友寄事件”によってである。
朝敏は、薩摩支配下における苦難の時代に、士族という自らの身分におごることなく、農民を始めとした弱い立場の人たちに暖かい眼差しを向けることの出来た、沖縄近世随一の文学者でありました。
与勝第二中学校 第22期卒業生一同 PTA平敷屋支部の巨大シーサー☆ |
このタキノーは、朝敏が脇地頭在任中当地平敷屋に滞在した折、農民の水不足を解消するために用水池を掘り、その土を盛りつけて構築したと伝えられている。
さらに彼の和文学の作品『貧家記』には、碑に掲げられた若を始め、当時の勝連の風物や貧しかった領地領民の生活環境が四十首の和歌とともに描写されている。『貧家記』のなかの一首。
『平敷屋公園』の看板がある入口横のため池☆ |
入日さすまつはら近くみつしほを
あすなが崎のあすもきてみん
は、夕暮の半島のはずれ、‟あしな”浜を詠んだものである。琉球和文学の粋を極め、組踊『手水の縁』の作者でもある朝敏はまた、物ごとの本質を見つめ続けようとしたすぐれた批判精神の持ち主でもあった。
次の琉歌はその一端を吐露してあまりある。
小さな橋を挟んで反対側のため池☆ |
四海波たてて硯水なちも
思事やあまた書きもならぬ
平敷屋朝敏没後二百五十年の節目(一九八四年)に、私たちは多くの人と人との出会いを機縁にして、朝敏歌碑建立のための期成会を発足させた。そして今、朝敏がこよなく愛したと伝承されるこの地平敷屋タキノーに歌碑を建立し、永く平敷屋朝敏とその志を讃えるものである。
一九八六年三月三十一日 平敷屋朝敏歌碑建立期成会≫
・・・と記されていましたヽ(^。^;ちょっと長かったですねwww『平敷屋タキノー』の東屋から知念半島を望む☆ |
勝連方面に遊びに来た際は、この『平敷屋タキノー』にも、ぜひ足を運んでみてくださいませヽ(^。^)ノ♪
丘の頂上から見える景色は、まさに絶景ですよぉ~(⌒▽⌒)ノ☆
それでは、この辺で。。。でわでわ☆★☆
最後まで読んでくださって、ありがとうございますm(_ _)m
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☆『平敷屋タキノー』☆
☆場所:〒904-2314
沖縄県うるま市勝連平敷屋3483
☆時間:自由見学
☆トイレ:あり
☆駐車場:無し