◎今帰仁城の一代目から三代目の城主が眠るガマ☆|沖縄放浪日記

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2015年7月28日火曜日

◎今帰仁城の一代目から三代目の城主が眠るガマ☆

どぉ~もぉ~♪

台風12号が過ぎて、ここ沖縄本島は連日いい天気が続いてますね☆

先日行われた『浦添てだこ祭り』など、市町村主催の大きな祭りを中心に、各区域ごとの小さな祭りなどの催し物も予定されていて、青年会などのエイサーを練習する音が連日聞こえてきます♪

エイサーの練習の音を聞くと、いよいよ沖縄の夏到来!って感じですネ(笑)

さてさて☆

以前、読谷村渡具知にある『泊城公園』内の『トゥマイグシク』をご紹介したことがありましたが、今回は、その『トゥマイグシク』に逃れてきた仲昔今帰仁按司『丘春』が今帰仁城の一代目から三代目の遺骨を葬ったとされるガマのお話です☆

沖縄県中頭郡嘉手納町水釜にある
『仲昔今帰仁按司祖先之墓』
(なかむかしなきじんあじそせんのはか)
仲昔今帰仁按司祖先之墓
こちらは、沖縄県中部にある嘉手納町と読谷村の境界を流れる『比謝川』とゆー川があり、その川の河口付近にあります☆

この『比謝川』の嘉手納町側には、川と並行して切り立った崖があり、その中腹に『イリタケーサーガマ』とゆーガマがあって、そのガマの中に『仲昔今帰仁按司祖先之墓』があります。
比謝川河口付近を臨む
画像ほぼ中央左よりにある対岸の丘が『渡具知グスク』
なぜ、北部にある『今帰仁城』の按司のお墓が、この地にあるのかとゆーと、湧川王子から三世代後の北山世主の時代に、家臣であった『本部大主(ムトゥブウフヌシ)』が謀反を起こします。

北山世主の子『千代松(ちよまつ)』は、家臣達と共に、『トゥマイグシク』まで逃げ延びます。

そしてこの『トゥマイグシク』で仇討の機会を待ち、18年後に千代松は『丘春』と名前を変え、旧臣達を集め、本部大王を見事討ち取り本懐を遂げました。
ガマの入口にある『仲昔今帰仁按司祖先之墓』の石碑
見事、王位に返り咲いた『丘春』でしたが、勢力を増大させていた湧川按司の次男の子である『怕尼芝(はにじ)』によって、1322年に今帰仁城に攻め込まれ、滅ぼされてしまいます。

今帰仁按司の一族は、祖先の遺骨と『丘春』とともに、この比謝川に辿り着き、河口にあるイリタケーサーガマへ祖先の遺骨を葬ったとされています。
仲昔今帰仁按司祖先之墓
『丘春』は、再度、今帰仁城奪還の機会を覗っていたみたいですが、志半ばで、この世を去ったそぉです。

『丘春』の遺骨は、この『仲昔今帰仁按司祖先之墓』ではなく、対岸の『トゥマイグシク』にある『鷹の目洞窟』に葬られているとのこと。
『仲昔今帰仁按司祖先之墓』の隣りにももう1つお墓がありました。
また、今帰仁按司の五男で、丘春の兄弟にあたる『屋良先大川按司』は、この父祖のお墓を守ったと言い伝えられてるそぉです。

遺骨を運んできた今帰仁一族は、敵地となってしまった今帰仁には帰らず、中頭の方々に散り、身を隠してしまいました。

なので、本部・今帰仁では仲昔今帰仁按司祖先之墓を知る人はいないという伝説もあるみたいですよ。

仲昔今帰仁按司であった丘春の時代を『中北山・中昔』と呼ばれているので、この『仲昔今帰仁按司祖先之墓』のことを、『山田按司の先祖墓』あるいは『中北山按司の墓』とも言われてるんだそうです。

この嘉手納町水釜と読谷村渡具知は、今帰仁の歴史において、また後の薩摩侵攻や沖縄戦の際の米軍上陸などの戦史においても、沖縄の歴史上、非常に重要な場所となっています。

それでは、この辺で。。。でわでわ☆★☆

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☆『仲昔今帰仁按司祖先之墓』☆

☆場所:〒904-0204
      沖縄県中頭郡嘉手納町水釜(比謝川河口付近)

☆時間:自由見学

☆入場料無料

☆駐車場無し

☆トイレ無し