北中城村喜舎場の集落内に点在する『喜舎場ウフカー』をはじめとする史跡☆|沖縄放浪日記

2017年11月22日水曜日

北中城村喜舎場の集落内に点在する『喜舎場ウフカー』をはじめとする史跡☆

ハイサぁ~イ⭐

今回は、前々回の記事の続きです。

北中城村喜舎場にある『喜舎場公の墓』がある『喜舎場公園』内を見学した後、喜舎場集落内に点在する『ウフカー』や『火之神』などの拝所等を見学しに向かいました。

沖縄県中頭郡北中城村喜舎場の喜舎場集落内に点在する

『喜舎場ウフカーや龕屋などの史跡群』

喜舎場ウフカーの写真
喜舎場公民館向かいの児童公園隣りにある『喜舎場ウフカー』の『ンブガー(産井戸)』。
『喜舎場公園』西側の『喜舎場祖先の墓所』がある石畳道を下り、大きな2階建ての御墓のすぐ後ろまで行くと、そこから右側の森の中へと続く獣道があり、その入口には『イラブーガー・イーヌカー』と記された小さな案内版が立てられていたので、そちらへ行ってみることにしました。
※『喜舎場公園』までの道順は、前々回の記事をご参照下さい。⇒『喜舎場公の墓』
イラブーガー・イーヌカーの写真
石畳道から見た『イラブーガー・イーヌカー』へ続く獣道の入口(写真左側)。
イラブーガー・イーヌカーの写真
獣道入口から獣道の先を見たところ。
獣道の入口から森の中の様子を伺うと、ご覧の通り草木が繁茂しており、だいぶ長い間、清掃・整備等が行われていない感じでしたね。
イラブーガー・イーヌカーの写真
獣道を入り、大きな岩の前からその先を見たところ。正面の岩の根元に案内板があります。
獣道を入って森の奥へ進んでいくと大きな岩があり、そこから獣道は二手に分かれていて、岩の根元に『イラブーガー・イーヌカー』の2つの案内板が設置されていました。
イラブーガー・イーヌカーの写真
獣道の分岐点にあった案内板。
左に進むと『イラブーガー』、右へ進むと『イーヌカー』に辿り着くことができるようです。

まずは右へ進み、『イーヌカー』を見学することに。
イーヌカーの写真
岩の根元にあった『イーヌカー』の案内板と獣道。
『イーヌカー』の案内板から約10mほど進むと、左側の岩の根元に石積みで方形に囲われた『イーヌカー』がありました。
イーヌカーの写真
イーヌカー。
北中城村の公式HP内にある『上の井戸(イーヌカー)』のページを見てみると、横120㎝、たて60㎝、深さ75㎝に積み上げられているんだそうで、ハチウビー(旧正月)、ウマチー(旧2月15日、旧5月15日、旧6月15日)に集落として拝んでいるとのことです。

『喜舎場御嶽』と称されるこの一帯には、古来、『アーマンチュー(喜舎場祖先)』が住んでいたという伝説や『喜舎場の子孫』、『喜舎場公』などが居を構えていたこと、そして『イーヌカー』の北側には『甲斐川原遺跡』があることから、かつては『イーヌカー』一帯は由緒ある場所であったと考えられているのだそうです。
イラブーガーの写真
『イラブーガー』へと続く獣道。
『イーヌカー(上の井戸)』を見学し終え、今度は『イラブーガー』を見学しに向かいました。

先程の2つの案内板が設置されている分岐点から、岩と岩の間を抜けて『イラブーガー』を目指します。
イラブーガーの写真
獣道の分岐点から北向けに少し入って来たところ。藪が深く、これ以上先へ進めませんでした(泣)
・・・が、約10mほど進むと、草木が生い茂っていて獣道自体が無くなってしまい、これ以上先へ進むことが出来ませんでした。。。

また、この場所から西側を見ても獣道らしきものは見当たらず、進入することが出来なかったため、この日は『イラブーガー』見学を断念しました。。。(泣)
イラブーガーの写真
獣道から西側を見たところ。たぶんこの先に『イラブーガー』があるのでしょうね。。。
北中城村の公式HP内にある『イラブーガー』のページを見てみると、喜舎場集落から屋宜原へ抜ける村道の右手にある丘陵中腹に位置しており、『イーヌカー』と同様に岩の付け根にあるとのことです。

『イラブーガー』には「奉寄進 同治十四年亥五月吉日 安里仁屋」(1875年5月)と記された鳥島石(火山岩)の香炉があり、石碑が寄贈されるほど重要な井戸であったと考えられているんだそうです。

こちらも『イーヌカー』と同様にハチウビーやウマチーの際に拝みが行われるんだそうです。また、喜舎場集落に隣接する『仲順』も旧歴の9月にこちらの井戸を拝みにおとずれるんだそうです。

現在、集落内にある『喜舎場ウフカー』が"ウフカー"と称されていますが、かつては、こちらが集落の"ンブガー(産井戸)"であったと言われているんだそうですよ。

・・・と、ここから一旦『喜舎場公園』の入口前まで戻り、喜舎場集落内へと進みました。
仲間神屋の写真
仲間神屋。
『喜舎場公園』入口から集落内へ入っていくと、すぐ右側に赤瓦屋根の建物があり、その横には『仲間神屋』と記された石碑が建立されています。

その石碑の裏側には碑文が記されており、その碑文によると・・・≪仲間神屋は(一九六四年(昭和三十九年)の建築から四十四年が経過し老朽化によるコンクリートの剥離落下等があり自治会予算によって改築する。二〇〇八年(平成二十年)六月吉日竣工≫とありました。

また、『仲間神屋』は、喜舎場の根所(元祖)なんだそうで、『喜舎場公の墓』などを遥拝する場所となっているんだそうです。
仲間神屋の写真
『仲間神屋』の敷地内にあった井戸跡。
『仲間神屋』を見学した後、敷地南側を通る小道を西へ進みます。

すると、すぐ右側に石積みの祠があります。
火之神の写真
『火の神』が祀られている拝所。
火の神の写真
内部には霊石らしき小石が納められていました。
この石積みの祠は『火の神』が祀られている拝所なんだそうで、祠内部にはいくつかの小さな霊石が納められていました。

この『火の神』の拝所の前からさらに西に進み、突き当りを左折、そして二つ目の右側にある脇道に入って約20mほど進むと、右側に立派な石垣に囲われた瓦屋根の屋敷があります。
喜屋武家住宅の写真
立派な石垣に囲われた『喜屋武家住宅』。
北中城村公式HP内の観光案内のページによると、こちらは『喜屋武家住宅』とのことで、約90年前に、大工の棟梁であった前の当主『比嘉氏』によって建てられた屋敷なんだそうです。

木造本瓦葺、木材はチャーギ(イヌマキ)が使用されているんだそうで、ヒンプンや石垣も精巧に造られています。

建物面積は38坪で規模はあまり大きくないんですが、戦前の建築物とのことでとても貴重なんだそうです。

また、台所と外壁及び建具等に改造工事が施されているんだそうですよ。

この『喜屋武家住宅』の前から、一旦東向けに戻り『喜屋武自治会館』横を通って児童公園へ向かいます。
喜舎場のおもろの碑の写真
喜舎場のおもろの碑。
この児童公園内には『喜舎場おもろの碑』が建立されています。

向って左側の大きな石碑には草書体で詩が刻まれており、右側の石碑には詩とその歌意、そして解説が刻まれていました。
喜舎場おもろの碑の写真
草書体の詩が記された歌碑。
大きな岩には【一 きしやは つくりきよ きしやは おなりしや ゑけ はひ
       又 よへ みちやるいめの まよなかのいめの
       又 いめや あとなもの いめや うせなもの
       又 おなり たちへともて つくり たちへともて】
と記されているんだそうです。

そして歌訳は【一 喜舎場つくり子は 喜舎場おなり子は あれ まあ
       又 昨夜見た夢の 真夜中の夢の
       又 夢は跡なく消えるもの 夢は失せてなくなるもの
       又 おなりを抱いたと思ったのに つくりを抱いたと思ったのに】
(『おもろさうし』巻十二)
とのことです。
小さい方の石碑。歌と歌訳、そして解説が記されています。
解説・・・≪歌意は "喜舎場の美しいツクリ(人名)を抱いたと思ったものの、それは昨夜見た夢であったよ。夢はたよりないものよ。"である。

このおもろは、高笑いを意図した狂言的な歌である。

古琉球の人々は健康な笑いこそは、共同体に世果報をもたらす力の根源だと考えたのである。≫
・・・と記されていました。

『喜舎場おもろの碑』を見学した後、児童公園の西側に位置する大きな"カー(共同井戸)"へ移動しました。
喜舎場ウフカーの写真
東側の遊歩道から見た『喜舎場ウフカー』。
こちらは、『喜舎場ウフカー』と称される井戸で、"ムラ"の共同井戸なんだそうです。

井戸は2ヵ所に分かれており、東側は『ンブガー(産井戸)』、西側は『洗濯ガー』となっていたとのことです。

この『喜舎場ウフカー』は、敷地面積が集落内で最も大きく、周囲を囲う石積みや階段などが綺麗に保存されています。
喜舎場ウフカーの写真
西側から見た『喜舎場ウフカー』。
『喜舎場ウフカー』の『ンブガー(産井戸)』の近くに説明板があったので、そちらを読んでみると・・・
≪喜舎場ウフカー(大井泉)≫
≪喜舎場ウフカーの築造年代は詳らかでないが旧藩時代という説もある。

1922年(大正11)7月に屋根をコンクリートで葺き、第二次大戦後危険防止と衛生保持のためポンプ2台を据え付け前面をコンクリートで覆った。
喜舎場ウフカーの写真
『ンブガー(産井戸)』と説明板。
ウフカーの敷地には洗濯ガーとカーグムイ(井泉小堀)があり、ウフカーは飲料水等の生活用水に、洗濯ガーは衣類等の洗濯に、カーグムイは畑の帰り手足を洗うために利用することが決められていた。

水量が豊富で日照りが続いても渇水することはなかった。
喜舎場ウフカーの写真
西側にある『洗濯ガー』。
正月にはワカミジ(若水)、新生児が生まれたときはウブミジ(産水)を汲み、旧5月のウマチー(祭)には字の各門中が水の恵みに感謝して祈願した。

ウフカーの名称は、ンブガー(産井泉)・共同井戸の呼称もある。

明治の頃は各家庭に井戸が少なく、女性が桶を頭にのせて水汲みをしている。
喜舎場ウフカーの写真
『洗濯ガー』の向かい側にあるカーグムイ。
戦後簡易水道ができ、上水道が布設されてからは、生活用水として利用されなくなった。
北中城村≫
・・・とありました。

この『喜舎場ウフカー』まで見学した後は、一旦クルマへと戻り、最後に集落の西側に位置する史跡を見学しに向かいました。
喜舎場の龕屋(ガンヤー)の写真
喜舎場の龕屋(ガンヤー)。
こちらは、『喜舎場の龕屋(ガンヤー)』と称される史跡で、北中城村の有形民俗文化財に平成7年6月16日に指定されています。

こちらにも説明板が設置されていたので、その説明を読んでみると・・・

≪喜舎場の龕屋(ガンヤー)≫
≪龕屋は、龕(ガン)を保管した建造物です。龕とは、棺を墓まで運ぶ朱塗りの輿をいいます。
喜舎場の龕屋(ガンヤー)の写真
『喜舎場の龕屋(ガンヤー)』の説明。
喜舎場では、さる大戦後しばらくの間、龕を使用していました。龕屋は集落の西はずれにあり、北向きに建っています。

屋根は二枚の石を組み合わせたアーチ型で、外壁はあいかた積みでつまれ、内側は布積みとあいかた積みが混用されています。

石材は琉球石灰岩が使用され、大きさは、幅3.4m、高さ1.9m、奥行き4.4mあります。
北中城村教育委員会≫
・・・とありました。
喜舎場の龕屋(ガンヤー)の写真
喜舎場の龕屋(ガンヤー)。
北中城村の公式HP内にある『龕屋』のページに掲載されている写真を見てみると、以前は草木に埋もれた状態になっていたようですね。

文化財に指定されているだけあって、現在はとても綺麗な状態で保存されており、とても見学しやすかったです(笑)。

・・・と、この『喜舎場の龕屋』まで見学した後、この日はそのまま帰宅の途に就きました。

んで、後日、喜舎場集落北側に位置する『喜舎場御嶽』のさらに北側にある小高い丘を訪れました。

こちらにも重要な"史跡"があるんですが、この続きはまた別の回にご紹介しますね。

今回も少し長くなってしまいましたが、そろそろこの辺で。。。でわでわ☆★☆

最後まで読んで下さいまして、誠にありがとうございますm(_ _)m
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『喜舎場集落内に点在する史跡


☆場所:〒901ー2311
      沖縄県中頭郡北中城村喜舎場

☆見 学:無料

☆駐車場:無し

※訪れる際は、くれぐれもマナーを守って、他の来訪者や地元の方々に迷惑をかけないよう、十分気を付けてくださいね。