沖縄戦の際に住民が避難していた山城集落の東側に位置するガマ☆|沖縄放浪日記

2017年7月3日月曜日

沖縄戦の際に住民が避難していた山城集落の東側に位置するガマ☆

ハイサぁ~イ⭐

前々回にご紹介した糸満市伊原にある『伊原第一外科壕跡』を見学した後、次に向かったのは同じ伊原区内にある壕跡です。

こちらは、沖縄戦末期に撤退してきた陸軍病院の本部勤務者が傷病兵の治療にあたっていた壕で、『ひめゆり学徒隊』もこちらに配置されていたんだそうです。

沖縄県糸満市伊原にある

『沖縄陸軍病院本部壕跡』

沖縄陸軍病院本部壕跡(サキアブ)の写真
壕の入口前に立てられている『沖縄陸軍病院本部壕跡』の石碑
こちらはまず、糸満市伊原の国道331号線沿いにある『ひめゆりの塔』の前から、国道331号線を同市福地向けに進み、約450mほど進んだところ左側にある『(株)琉球漆器 糸満店』さんの横にある脇道へ左折します。
沖縄陸軍病院本部壕跡(サキアブ)の写真
国道331号線沿いにある『沖縄陸軍病院慰霊の塔 入口』の石柱。
脇道に入って道なりに進んでいき、突き当りを左折します。

そして、約60mほどの距離にある右側の脇道へ右折し、道なりに約260mほど進んでいくと、道沿い右側にあります。
※右折した脇道からは未舗装となり、道幅も狭くなるので、運転には気を付けて下さい。
沖縄陸軍病院本部壕跡(サキアブ)の写真
前の道から見た『沖縄陸軍病院本部壕跡』がある敷地。
空きスペースにクルマを停めさせてもらい、すぐさま見学開始。

敷地の入口に、小さな案内板が設置されており、『ひめゆり学徒隊(沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校)』の説明が表記されていたので、まずはそちらを読んでみることに・・・

≪ひめゆり学徒隊(沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校)≫
≪沖縄師範学校女子部の前身は、1886年(明治19年)に師範学校内に設置された「女子講習科」でした。その後変遷を経て、1943年(昭和18年)に国立の専門学校に昇格し、「沖縄師範学校女子部」に名称を変更しました。
沖縄陸軍病院本部壕跡(サキアブ)の写真
敷地の入口に設置されていた『ひめゆり学徒隊』の説明板
沖縄県立第一高等女学校の前身は、1900年(明治33年)に設置された「私立高等女学校」でした。1928年(昭和3年)に「沖縄県立第一高等女学校」に名称を変更しました。

1945年(昭和20年)3月23日、学徒たちに動員命令が下され、配置先の沖縄陸軍病院があった南風原に向かいました。

4月中旬~下旬、戦況悪化による負傷兵の増加に対応するため、一日橋分室、識名分室、糸数分室が設置され、学徒たちも配置されました。
沖縄陸軍病院本部壕跡(サキアブ)の写真
敷地内に建立されている『沖縄陸軍病院之塔』の概要。
5月下旬、米軍は首里戦線へ侵攻を開始し、日本軍は南部への撤退の準備を始めました。25日には、沖縄陸軍病院にも撤退命令が下されました。

26日に学徒は伊原に到着し、翌27日、山城、波平、糸洲、伊原の壕へ分散配置されました。

6月18日、学徒らは学徒隊の解散命令を受けました。米軍の猛攻撃の中、負傷した学徒は壕に残され、壕を出た学徒たちは、砲弾が飛び交う中、逃げまどい、追い詰められ、多くの命が失われました。
平成28年3月 沖縄県子ども生活福祉部平和援護・男女参画課≫
・・・とありました。
沖縄陸軍病院本部壕跡(サキアブ)の写真
敷地北側には『沖縄陸軍病院之塔』と歌碑が建立されています。
沖縄戦の際に動員された女子学徒による看護隊は、『ひめゆり学徒隊』をはじめ、『白梅学徒隊』、『ずゐせん学徒隊』、『積徳学徒隊』、『梯梧学徒隊』、『なごらん学徒隊』、『宮古高女学徒隊』、『八重山高女学徒隊』、『八重農学徒隊』の9つあったそうなんですが、その中でも、『ひめゆり学徒隊』の動員数は240名(ひめゆり平和祈念資料館・資料)と最も多かったことから、各壕に分散して配置されたのかもしれませんね。
※『ひめゆりの塔』が建立されている伊原第三外科壕跡の『ひめゆりの塔の記』には、動員数297名、合祀した戦没者数224名と表記されているようですが、これは、学徒隊以外の戦没者数を含んでいることによるものなんだそうです。

また、戦闘で負傷した兵や住民らも各壕にいたはずなので、その看護にあたるために分散配置されたのでしょうね。。。
※あくまでワタクシの憶測にすぎませんので、ご了承下さい。。。
沖縄陸軍病院之塔の写真
沖縄陸軍病院之塔
・・・と、話を戻しまして。

敷地に入ると、北側には沖縄陸軍病院の関係者を祀った慰霊塔『沖縄陸軍病院之塔』が建立されており、その左側には歌碑が建立されています。

そして、慰霊塔の台座部分には、碑文が記されています。
沖縄陸軍病院之塔の写真
『沖縄陸軍病院之塔』の碑文
その碑文には・・・
≪この塔は、戦没された沖縄陸軍病院の傷病将兵及び職員と学徒の慰霊塔である。

慰霊会(遺族会及び戦友の会)が昭和三十九年一月二十六日に建立し平成四年六月二十三日これを再建す。≫
・・・とありました。
沖縄陸軍病院本部壕跡(サキアブ)の写真
『沖縄陸軍病院之塔』の横に建立されていた歌碑
また、慰霊塔の横に建立された歌碑には、陸軍病院の軍医であった永田紀春氏が詠んだ二首が記されていました。
≪春くるとひたすら待ちし若草の 萌え立ついのち君は捧げぬ≫
≪水汲みに行きし看護婦死ににけり 患者の水筒四つ持ちしまま≫

糸満市の公式HP内にある『沖縄陸軍病院之塔』のページによると、この歌碑は、沖縄戦終結から60年を経過した2005年(平成17年)6月に建立されたんだそうです。

そして、慰霊塔と歌碑が建立されている場所の反対側には、『サキアブ』と呼ばれるガマ『沖縄陸軍病院壕跡』があります。
沖縄陸軍病院壕跡(サキアブ)の写真
敷地の南側にある『沖縄陸軍病院壕跡』(サキアブ)
沖縄陸軍病院壕跡(サキアブ)の写真
"ガマ"の前にある沖縄陸軍病院慰霊会が建立した『沖縄陸軍病院本部壕跡』の石碑。
"ガマ"の周囲には、ご覧のようにガジマルの木が生い茂り、外からはそこに"ガマ"があるのかどうか分かりません。

"ガマ"の前には、『沖縄陸軍病院慰霊会』が建立した『沖縄陸軍病院本部壕跡』と記された小さな石碑があるんですが、この石碑の右側へ行くと、壕の出入口があります。
沖縄陸軍病院本部壕跡(サキアブ)の写真
『沖縄陸軍病院本部壕跡(サキアブ)』の出入口
出入口から右下の方へ通路が伸びており、下の方には大きな洞口が見えます。

写真では、結構明るく見えますが、実際はかなり暗いです。。。
沖縄陸軍病院本部壕跡(サキアブ)の写真
出入口から壕内へと伸びる通路。
こちらも、定期的に清掃が行われているようで、比較的綺麗な状態が保たれていましたね。。。
沖縄陸軍病院本部壕跡(サキアブ)の写真
出入口から下の方を見たところ。横長の壕口が見えます。
もちろん今回も、壕内へは入らずに、出入口をほんの少し下った場所から撮影しました。

沖縄県高教組教育資料センター『ガマ』編集員会発行の『沖縄の戦跡ブック ガマ』に表記されている壕内の見取り図では、壕口は横長に広いんですが、奥に行くにつれて少し狭くなっているようです。

手前側には炊事場や腰掛台、衛生材料置場などがあり、中間地点には休憩所、そして奥には院長室と池があるんだそうです。
沖縄病院本部壕跡(サキアブ)の写真
沖縄病院本部壕跡を南側から見たところ。左側は糸満市山城、右側は同市井原となっているそうです。
出入口から『沖縄陸軍病院本部壕跡』を見学させて頂いた後、敷地を出て南側へ行き、そこから壕のある場所を見ると、木々に覆われていて、やはり"壕"は全く見えませんでした。

また、この『沖縄陸軍病院本部壕跡』の周囲一帯には畑が広がっており、かつてこの一帯で熾烈を極めた戦闘が繰り広げられていたとは思えないほど、とても静かな場所となっています。

・・・と、ここまで見学した後は、そのままクルマへと戻り、また次の目的地へと向かいました。

今回訪れた『沖縄陸軍病院本部壕跡』は、少し分かりにくい場所にあるんですが、『ひめゆりの塔』や、前々回にご紹介した『伊原第一外科壕』を訪れた際には、こちらにも足を運んでみてはいかがでしょうか。。。?

それでは、今回はこの辺で。。。でわでわ☆★☆

最後まで読んでくださって、ありがとうございますm(_ _)m
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『沖縄陸軍病院本部壕(サキアブ)

☆場所:〒901-0352
      沖縄県糸満市伊原279

☆問い合わせ:098-840-8111(糸満市役所 代表電話)

☆見 学:無料

☆駐車場:なし
※敷地内にクルマ数台ほど駐車可能でした。