糸満市名城のタルマサ王が築城したという伝承が残るグスク跡☆|沖縄放浪日記

2017年3月7日火曜日

糸満市名城のタルマサ王が築城したという伝承が残るグスク跡☆

ハイサぁ~イ⭐

先月、糸満市内の慰霊塔やグスク跡などを見学して回った日の翌日、ネットで史跡などを調べてた際、気になるグスク跡を見つけたんで、ちょっと足を運んでみることにしました。

なんでも、こちらは、名城村の宗家『仲原』の始祖である『タルマサ王』という人物が、南山城からやってきて、先史時代の貝塚跡にグスクを築城したんだとか。。。

沖縄県糸満市名城にある
『フェンサー城貝塚』
フェンサー城貝塚の写真
大きな岩壁の根元にひっそりと佇む『四郎樽金』の墓
こちらはまず、糸満市の国道331号線(糸満道路)を、同市真栄里から糸洲向けに進み、『医療法人友愛会南部病院』の信号を通過して最初の信号を右折します。

そこから道なりに約540mほど進んだところにある右側の脇道に右折して、ちょこっと進んでいくと、右側にあります。
※表の道には案内板などは設置されておらず、少し分かりにくいんですが、Google earthなどで確認しながら向かって下さい。
フェンサー城貝塚の写真
北東から見た『フェンサー城貝塚』
グスクの拝所や神アシャギのある場所は、ちょっとした広場みたいになっていたので、そちらの片隅にクルマを停めさせて頂きました。

ワタクシが到着した際、グスクに隣接した畑で農作業されている方がいたので、こちらに駐車してグスクを見学してもいいですかと尋ねると、「どうぞ、どうぞ」と快諾して下さいました😊
その節は、ありがとうございました🙇
フェンサー城貝塚の拝所とカー跡と神アシャギの写真
『フェンサー城貝塚』の拝所やカー跡、神アシャギのある広場
クルマを降り、さっそく見学開始‼

まずは、広場内にある拝所等を見学👍

広場の東側の隅にコンクリートブロック製の祠があり、そこは『大殿内のトン』という拝所となっていました。
大殿内のトンの写真
大殿内のトン
そして、広場のほぼ中央に位置する場所には、石垣で囲われた小さな穴があり、どうやらこちらはカー(井泉)の跡のようです。
カー跡の写真
広場のほぼ中央に位置する場所にあるカー跡
カー跡の写真
カー跡
カー(井泉)も、拝所となっており、小さな石柱と手前に香炉らしき石が設置されていました。

そして、このカー跡のすぐ隣には『神アシャギ』が建てられています。
神アシャギの写真
神アシャギ
『神アシャギ』の内部にも香炉が置かれてましたね。

そして、広場の北側、森の手前にも三角屋根の祠があり、『国ウタキの石碑』と刻まれた石碑が建てられた拝所となっていました。

内部には灯籠が納められてましたね。
国ウタキの石碑の写真
国ウタキの石碑
広場には、これらの拝所があって、その他の史跡は『国ウタキの石碑』の後方にある丘陵の森の後ろの下側にありました。

丘陵の後方へは、『神アシャギ』の向かい側にある入口から向かうことが出来ます。
フェンサー城貝塚の写真
『神アシャギ』の向かい側の奥に、丘陵の後方へ向かうことのできる道の入口があります。
フェンサー城貝塚の写真
丘陵後方へ向かう道の入口
ここで、少し『フェンサー城貝塚』についてお話させて頂きますね。

『フェンサー城貝塚』は、1967年に行われた発掘調査によって出土した「フェンサ上層・下層式土器』から命名されたグスクなんだそうです。

また、別名『名城グスク』とも呼ばれているんだそうですよ。
フェンサー城貝塚の写真
入口を入ってすぐ左側の岩の下にあった石垣
フェンサー城貝塚の写真
回り込んで正面から見たところ。どうやらこちらも拝所となっているようでした。
10世紀の『フェンサ下層式土器』は、貝塚時代後期の土器の特徴を持っているんだそうで、農耕に適した丘陵上にある多くの遺跡で発掘されているとのこと。。。

また、後の12~13世紀頃の『フェンサ上層式土器』は、平底で、より農耕に適した土器へと変化しているんだそうですよ。

・・・と、話を戻しまして。。。

入口を入って、すぐ左側にある岩陰の下に小さな石積みを発見しました。

んで、回り込んで真正面から見てみると、石済み手前にコンクリートブロックが敷かれており、どうやらこちらも拝所となっているようでした。
フェンサー城貝塚の写真
小道は丘陵の後方へと続いてました。
この拝所を後にし、小道をさらに奥へと進みます。

すると、小道右側の崖の根元に、洞穴を塞ぐようにしてコンクリートブロックが積まれた拝所(古墓?)と、長方形の古墓がありました。
フェンサー城貝塚の写真
コンクリートブロックで塞がれた拝所と、『南山世』と『玉城世』の古墓
フェンサー城貝塚の写真
コンクリートブロックで洞穴を塞いだ拝所
フェンサー城貝塚の写真
南山世(右側)と玉城世(左側)の古墓(拝所)
こちらの古墓を通過すると、すぐ右側にも洞穴を利用して造られた拝所(古墓?)がありました。
フェンサー城貝塚の写真
『南山世・玉城世』の古墓の近くにあった拝所(古墓?)
小道は、ここからさらに奥へと続いています。

さらに奥へと進んでいくと・・・
フェンサー城貝塚の写真
3つの拝所(古墓)を通過したところから小道の先を見たところ
また、右側の崖下に小さなコンクリート製の拝所と、四郎樽金の墓』と刻まれた墓標が立てられた、石積みで洞穴を塞いだ古墓がありました。
フェンサー城貝塚の写真
小さな拝所
四郎樽金の墓の写真
四郎樽金の墓
『四郎樽金』は、『シルタルガニー』と読むのだそうで、冒頭に出てきた名城村宗家『仲原』の始祖『タルマサ』の孫にあたる人物とのことです。

この『四郎樽金(シルタルガニー)』も、後に『フェンサグスク』の按司となった人物のようですね。

『四郎樽金の墓』を後にし、さらに奥へと進んでいくと、そちらにも拝所や古墓が点在していました。

どうやらこの一帯は、聖域となっているようですね。
フェンサー城貝塚の写真
岩陰にあった古墓
『四郎樽金の墓』を通過していくと、立派な古墓がありました。

この古墓は、一段高くなった場所にあり、御墓の前は自然岩をうまく利用した石垣で囲われてて、墓庭となっていました。

そして、この古墓の墓庭から東向けに一段下ると、そこにもまた拝所がありました。
フェンサー城貝塚の写真
古墓のすぐ近くにあった拝所
この古墓のある場所から、またさらに奥へと進んでいきます。

すると、道が左右二手に分かれており、まずは右側へと進んでいくと、丘陵の斜面中腹辺りに、立派な御墓がありました。

その御墓のある場所へ行ってみると、手前に墓標が立てられており、『故陸軍上等兵勲八等功七級仲原太郎君之墓』と刻まれてました。
故陸軍上等兵勲八等功七級仲原太郎君之墓の写真
故陸軍上等兵勲八等功七級仲原太郎君之墓
どうやら旧日本軍の兵隊さんの御墓のようですね。

こちらを後にし、今度はもう一方の道へと進んでいきます。

すると、その途中右側の岩陰にも香炉が1基置かれた拝所がありました。
フェンサー城貝塚の写真
拝所
フェンサー城貝塚の写真
『故陸軍上等兵勲八等功七級仲原太郎君之墓』がある場所の反対側にある道。
岩陰にあった拝所を後にし、さらに小道を進んでいくと、森を出て『フェンサー城貝塚』の北側の原っぱに出ました。
フェンサー城貝塚の写真
『フェンサー城貝塚』北側から見た景色
ここから先には、史跡などは無かったので、来た道を戻り始めました。

戻る途中、先程の崖下にあった立派な古墓の向かい側にも、小さな脇道を発見したので、そちらの方へ行ってみると・・・
フェンサー城貝塚の写真
岩陰にあったコンクリートブロックが綺麗に積まれた古墓
一番奥にあった墓標には『名城祝女御墓』と刻まれており、どうやらこちらの二基の古墓は、名城ノロの御墓だと思われます。
フェンサー城貝塚の写真
岩陰にあった二基の古墓
・・・と、ここまで見学させて頂いた後は、来た道を戻り、そのままクルマへと向かいました。
名城祝女御墓の写真
名城祝女御墓
この『フェンサー城貝塚』には、言い伝えが残されているとのこと。

南山城からやってきた『タルマサ王』の子である『トゥンビベンサ』は、名城村の発展に尽力した按司であったんだそうです。

その『トゥンビベンサ』が若かりし頃、隣村の按司『喜屋武クガニー』の妹に恋をしたそうなんですが、『喜屋武クガニー』から持ちかけられた『石投げ勝負』に敗北してしまい、妹に思いを告げることが出来なかったんだそうです。
進寄奉の拝所の写真
『フェンサー城貝塚』の表道の三叉路の角にあった『進寄奉』と呼ばれる拝所
また、『タルマサ王』の孫である『四郎樽金(シルタルガニー)』は、美男子だったそうで、現在の本島中部の勝連半島にある『勝連グスク』の浜川按司の姫君で絶世の美女とされる『真鍋樽(マナンダル)』を嫁に迎えたとのことです。

『真鍋樽』は、たしか北中城村熱田にある『熱田マーシリー』の伝説にも登場する人物ですね。
※この伝説については、『熱田マーシリー』をご紹介する記事で、ご紹介しますね。。。

こちらを訪れる際は、今回ご紹介した伝説などに思いを馳せながら見学されてみてはいかがでしょうか。。。?

それでは、そろそろこの辺で。。。でわでわ☆★☆

最後まで読んでくださって、ありがとうございますm(_ _)m
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☆『フェンサー城貝塚』

☆場所:〒901-0351
      沖縄県糸満市名城11

☆見 学:無料

☆駐車場:あり(グスク入口の拝所群がある場所にスペースがあるので、そちらに駐車しました)