今回は、以前ご紹介したブログ記事の続きです。
『白梅之塔』を見学した後、次に向かったのは、『白梅之塔』が建立されている場所から西側に位置する慰霊塔。。。
こちらには、沖縄や海外諸地域にて戦没された山形県出身者の諸霊が祀られており、敷地内には壕跡や第24師団雨宮中将率いる各部隊100余名を祀る慰霊塔などもあるんです。。。
沖縄県糸満市真栄里にある
『山形の塔』☆
山形県出身者四万余柱の諸霊が祀られた『山形の塔』 |
『白梅之塔』が建立されている場所よりも、少し小高い丘になっているこの一帯は『ウテル原』と呼ばれているようです。
西に向かって進んでいくと、すぐ左側にあります。 |
『山形県の塔』入口 |
≪山形の塔≫
≪この塔は沖縄(七七六柱)をはじめ海外諸地域において戦没された山形県出身者四万余柱の諸霊を祀ってあります。一九六五年二月山形県民の総意と誠心による碑石、台座を県から運び建立したもので、この聖地は歩兵第三十二連隊が軍旗を奉持勇戦奮斗し一九四五年八月この壕内で奉焼した由緒ある丘であります。
右の堂は観音像(二体)を安置する観音堂です。
山形県 一九八二年十月(再記)≫
・・・とありました。説明板の後方にある観音堂と壕の出入口 |
壕は、立入禁止となっているため、中へは入ることができません。
観音堂 |
『山形の塔』の参道から見た壕。かなり深そうです。 |
眞山之塔 |
その碑文を読んでみると・・・
≪怒涛の南進を続ける米軍に対し第二四師団隷下の各部隊は最後の拠点として真栄里地区に陣地を構築し勇戦奮斗敵の心胆を寒からしめたるも、ついに昭和二十年六月十七日この附近の壕内において玉砕せり。
ここに南方同胞援護会の助成を得て塔を建て地下に眠る幾多の英霊を慰め永くその遺烈を伝う。
昭和四二年二月財団法人 沖縄遺族連合会≫
・・・とありました。『眞山之塔』の右側には碑文が記された石板が設置されていました。 |
『眞山之塔』の碑文が記された石板 |
『眞山之塔』の後方にある開けた場所 |
説明を読んでみると、どうやらこの石板の後方の下の方にも、『白梅学徒看護隊』の壕があるんだそうです。。。
『白梅之塔 上の壕』と記された石板と香炉が置かれた祭壇 |
≪白梅之塔 上の壕≫
≪左の竪穴は、沖縄戦当時、軍の物資置場であったが、白梅学徒看護隊の仮眠所でもあった。昭和二十年六月二十二日 米軍の攻撃を受け、軍人・白梅隊員および一般住民が死傷した。
昭和六十三年六月 白梅同窓会≫
・・・とありました。このコンクリート製の柵の後方に『上の壕』があるそうです。。。 |
・・・ですが、この一帯も、『白梅学徒看護隊』の神聖な霊場となっているはずなので、行かなくて良かったです。
ちなみに、以前の『白梅之塔』をご紹介した際には書かなかったんですが、『白梅之塔』が建立されている敷地内の壕が『下の壕』と呼ばれ、こちらの壕が『上の壕』と呼ばれていたんだそうです。
糸満市の公式HP『白梅之塔』のページによると、こちらの『上の壕』は食糧・弾薬の倉庫、或いは『白梅学徒看護隊』の仮眠所として使用され、『下の壕』は傷病兵の看護場所で、学徒たちは『下の壕』で負傷兵の手当てなどを手伝ったんだそうですよ。。。
そして、6月21日に『下の壕』が先に攻撃を受け、翌22日に『上の壕』が攻撃を受けたとのことです。。。
山形の塔 |
『山形の塔』の側面に建立記が刻まれていたので、そちらを読んで見ると・・・
≪山形の塔建立記≫
≪大東亜戦争において祖国防衛のため惜しくも散華された山形県出身三万八千余の英霊を仰ぎ、その偉勲をしのび、み霊の冥福を祈り、永久に鎮まりますことを念じ、ここに県民の総意を結集してこの塔を建立したのである。
昭和四十年二月六日 建設期成同盟会長 加藤富之助≫
・・・と記されていました。山形の塔 |
また、慰霊祭の際には、山形県からも慰霊団が斎行されているとのことです。
・・・と、ここまで見学した後、一旦敷地を出て、最後に道向かいに建立されている石碑を見学しに向かいました。
歩兵第三十二聯隊 終焉の地碑 |
また、石碑には『平成十七年八月建 聯隊関係者一同』とも記されていました。
そして、側面には『ここより西北西四百七十米の低地で軍旗を奉焼した。』と記されておりました。
ここまで見学した後は、そのままクルマへと戻り、次の目的地へと向かいました。
この続きは、また別の回にしますね。
『白梅之塔』を訪れる際には、こちらの『山形の塔』も併せて見学してみてはいかがでしょうか。。。
それでは今回は、この辺で。。。でわでわ☆★☆
☆『山形の塔』☆
☆場所:〒901-0362
沖縄県糸満市字真栄里1789
☆見 学:無料
☆駐車場:なし(『白梅之塔』の駐車場に駐車可)