1月12日(月曜日)は、午後からちょこっと時間が空いたので、久しぶりに北部方面のグスク跡を散策しに出かけてきました。
今回向かったのは、金武町内にあるグスク跡。。。
こちらは、城壁や石垣などの遺構は残ってはいないんですが、唯一、グスクの城門に使用されていた石が保管されているんだとか。。。
沖縄県国頭郡金武町金武にある
『金武(ちん)グスク』☆
金武公会堂前には、『金武グスク』の城門の石と『サーターグルマ』の歯車が展示されていました。 |
グスク跡ではあるようですが、石垣などの遺構は全くありません。。。
『上ヌ毛公園』は、まず金武町の国道329号線と県道104号線がぶつかる『金武』の交差点から、国道329号線をうるま市向けに南下し、約650mほど進んだところにある二つめの信号を右折します。
右折して道なりに直進していくと、道路沿い右側に『金武公会堂』があるんですが、そこを通過して、約120mほど進むと、右側に小高い丘がありますので、そちらが『上ヌ毛公園』になります。
国道から入ってきた道から見た『上ヌ毛公園』(金武グスク跡) |
脇道を入ったところにある『上ヌ毛公園』入口 |
この公園入口をさらに通過していくと、すぐ右側に公園の駐車場がありました。
その駐車場にクルマを駐車し、さっそく散策開始‼
その駐車場にクルマを駐車し、さっそく散策開始‼
まずは、国道から入ってきた道側の公園入口横に設置されていた『金武節』が刻まれた石碑を見学。
『金武節』が刻まれた石碑 |
≪金武節≫
≪くばは金武で取り 竹は安富祖で取り 瀬良垣では竹を細かく削り 恩納でくば笠を仕上げた読み人知らずの金武節は、琉歌に関する古い文献から推察すると、一八世紀後半より古い時代に生まれたと考えられる。
金武を出発し安富祖、瀬良垣、恩納までの道程をくば笠作りになぞらえて歌ったものである。
二〇〇〇年建立≫
・・・とありました。
この石碑の右側にも公園入口があるので、そちらから入っていくと、左側に木々が生い茂る一角があり、その中には大きな石がいくつか設置されています。
その大きな石の下は、拝所となっているみたいですね。
この石碑の右側にも公園入口があるので、そちらから入っていくと、左側に木々が生い茂る一角があり、その中には大きな石がいくつか設置されています。
その大きな石の下は、拝所となっているみたいですね。
公園の広場側から見た拝所のある場所 |
木々が生い茂る場所にはいくつかの石が置かれていました。 |
木々が生い茂る場所の中の石 |
右側の縦長の石の元が拝所っぽかったんですが・・・ |
階段側にもう一つ縦長の石があったんですが、こちらも拝所っぽかったですねぇ・・・ |
その台座にも、説明が刻まれていたので、そちらを引用させていただきます。
≪フィリピン移民の父 大城孝藏之像≫
≪沖縄のフィリピン移民は、一九〇四(明治三十七)年首都マニラと避暑地ハギナを結ぶベンゲット道路の過酷な工事についたのが始まりとされている。
翌年、同工事を終えた沖縄移民たちは、大城考藏に引率されミンダナオ島ダバオに転成し、マニラ麻の栽培に従事する。
このダバオでのマニラ麻栽培がフィリピン移民発展の契機となり、フィリピンはハワイに次ぐ第二の移民地となった。
一九三八(昭和十三)年四月、ダバオ沖縄県人会ではダバオ開拓の大恩人で在留同胞の先覚者たる故大城孝藏の功績を永遠に讃える為、当時、海外移民事業の拠点であった那覇市若狭の開洋会館前庭に大城孝藏の胸像を建立した。
一方、郷里の金武村では、ダバオ在日本人移民からの寄付金と村内外からの浄財をもとに大城孝藏の銅像制作がすすめられ、一九三八(昭和十三)年八月、石膏像による原型が完成し、金武区のウィーヌモーで除幕式を挙行している。
しかしながらこの二つの像は大戦の渦中で姿を消してしまう。
このダバオでのマニラ麻栽培がフィリピン移民発展の契機となり、フィリピンはハワイに次ぐ第二の移民地となった。
上ヌ毛(ウィーヌモー)に建立された『フィリピン移民の父 大城孝藏之像』 |
一方、郷里の金武村では、ダバオ在日本人移民からの寄付金と村内外からの浄財をもとに大城孝藏の銅像制作がすすめられ、一九三八(昭和十三)年八月、石膏像による原型が完成し、金武区のウィーヌモーで除幕式を挙行している。
しかしながらこの二つの像は大戦の渦中で姿を消してしまう。
大城考藏之像 |
二〇〇四(平成十六)年四月十日、沖縄移民がベンゲット道路建設に出発して百年、本期成会は、大城考藏の偉業を顕彰し、かつて我々の同胞がフィリピンで生きた証として、過去に除幕式が行われたこの地に大城孝藏之銅像を建立する。≫
・・・と記載されていました。
※説明に出てきた『ウィーヌモー』とは、この『上ヌ毛』のことです。
ちょこっと調べてみると、故大城孝藏氏は、ダバオ沖縄県人会やダバオ日本人会の創立に関わり、大きな役割を果たしたとのことです。
また、その功績が評価され、ダバオ日本人会の初代会長になったんだそうですよ。
しかし、故大城孝藏氏は、健康を害してしまい、54歳の若さでこの世を去ってしまったとのことです。
そして、ダバオで日本人会葬が行われたんだそうです。
しかし、故大城孝藏氏は、健康を害してしまい、54歳の若さでこの世を去ってしまったとのことです。
そして、ダバオで日本人会葬が行われたんだそうです。
今回は、上りませんでしたが、こちらを訪れたことのある方のブログを拝見させて頂くと、結構遠くまで広範囲に見渡すことができるようですね。
ここまで見学した後で、公園北東側にある階段を下りていくと、『金武公会堂』の横に出ます。
すると、すぐ右側に金武に駐屯していた『第二二震洋特別攻撃隊(豊廣部隊)』の戦死者の御霊が祀られた鎮魂碑が建立されています。
すると、すぐ右側に金武に駐屯していた『第二二震洋特別攻撃隊(豊廣部隊)』の戦死者の御霊が祀られた鎮魂碑が建立されています。
金武鎮魂碑 |
≪この鎮魂の碑は、金武に駐屯していた第二二震洋特別攻撃隊(豊廣部隊)の戦死者七四人の御霊が祀られている。
昭和二十年一月二六日、同特攻隊は部隊本部を興亜会館(現・金武公会堂)に置き、金武の前の浜を前戦への発進基地として、日々激しい攻撃訓練が展開された。
昭和二十年三月末、米艦沖縄接近に伴い、同隊は幾度となく敵艦に攻撃を加え、多大な戦果を挙げた。
米軍上陸後は陸上戦へ移行、北部山中に立てこもり、夜襲を敢行、しかし、戦うに武器なく、食もなく、次第に多くの戦友が尊い生命を断っていった。
この碑は、隊長・豊廣稔外、生存戦友の尽力によって建立された。
平成十五年六月 記 金武町遺族会≫
・・・とありました。
この鎮魂碑を後にし、『金武公会堂』前に立つ大きなガジュマルの根元へ行くと、『金武グスク』の城門に使用されていた石が保存されています。
金武公会堂と大きなガジュマル。 |
『金武グスク』の城門に使用されていた石。『金武城門の石』と記された石板が取り付けられています。 |
また、琉球王府が編纂した『琉球国由来記』には、『金武グスク』について一切触れられていないんだそうです。。。
グスクの主は、琉球第二尚氏王統5代尚元王の三男『尚久(しょうきゅう:大和名は大金武王子朝公)』という人物みたいですね。
1564年(嘉靖43)閏2月12日に『金武間切』の総地頭となったそうですが、当時の『金武間切』は、現在の金武町(現在の屋嘉、伊芸、金武、並里、中川)を含め、恩納村の恩納、瀬良垣、安富祖、名嘉真、宜野座村全域、そして名護市の久志、辺野古までを含む広大な間切りだったんだそうです。
(Wikipedia『尚久』のページより一部引用)
『金武グスク』の城門の石の横に立つ大きなガジュマルの根元にはサーターグルマの歯車も展示されていました。 |
『金武グスク』跡とされる『上ヌ毛公園』の近隣には、かつて集落があったことを思わせるノロ殿内や御嶽などの史跡が点在しています。
・・・と、話が長くなりましたので、今回はここで一旦終了させて頂き、この続きは、また別の回でご紹介させて頂きますね。
それでは、この辺で。。。でわでわ☆★☆
☆『金武グスク』とその周辺にある史跡☆
☆場所:〒904-1201
沖縄県国頭郡金武町金武
☆見 学:無料
☆駐車場:『上ヌ毛公園』北側と金武公会堂前にあり。