昔、化け猫が大山村の子供達を行方不明にしたという伝説が残る宜野湾市大山の洞穴遺跡☆|沖縄放浪日記

2016年8月19日金曜日

昔、化け猫が大山村の子供達を行方不明にしたという伝説が残る宜野湾市大山の洞穴遺跡☆

どーもども☆

前回のブログ記事でご紹介した『宮古そばとソーキそば専門店 田舎 安謝店』さんで食事を済ませた後、以前、ネットで偶然見つけた宜野湾市大山にある洞穴遺跡へ行ってみることにしました。

こちらのガマは、かつて化け猫が住み着き、村の子供達を行方不明にしてしまうという言い伝えが残されているんだとか。。。

沖縄県宜野湾市大山にある
『大山マヤーガマ洞穴遺跡』
大山マヤーガマ洞穴遺跡
こちらは、宜野湾市の国道58号線パイプラインがぶつかる『大山』の交差点から、パイプラインに入り、在沖米軍基地『CAMP FOSTER』大山ゲート向けに約310mほど進むと、道路沿い左側に入口があり、その奥にあります。
『大山マヤーガマ洞穴遺跡』入口
この日、こちらに到着したのは、夕方の4時過ぎくらい。。。

路肩にちょこっとクルマを停めさせてもらい、さっそく洞穴へと向かいました。

道路から階段を少し上がると、両側に洞穴名と由来が記載された石柱が立てられています。

まずは、その由来を読んでみると・・・

≪大山マヤーガマ洞穴遺跡≫
≪沖縄では猫のことをマヤ―、洞穴をガマと呼んでいます。

昔、ここマヤ―ガマに住む魔物(マジムン)が猫に化けて、大山村の子供たちを行方知れずにしたそうです。


それを見かねた村の力持ちが、化け猫をこらしめ、逃げ込んだ洞穴の中の甕を棕櫚(しゅろ)の皮で作った左巻きの縄でくくりつけました。


それ以来、マヤ―ガマの化け猫は、二度と村にあらわれませんでした。


本遺跡の名前は、その話にちなんで名付けられています。

宜野湾市指定史跡[平成11年2月23日指定]≫
・・・と記されていました。

由来を読んだ後、さらに奥へと進みます。
遊歩道沿いには、沖縄の歴史に登場する人物や原人、グスク時代の絵などを紹介する石板が並べられています。
近代沖縄や近世琉球、沖縄貝塚時代や旧石器時代の人物や原人を紹介する石板
階段を少し上ると、遊歩道になっており、その道沿いには近代沖縄や近世琉球、沖縄貝塚時代、旧石器時代などに出てくる人物や原人などを紹介する石板が設置されています。

石板を見ながら、奥へ進んでいくと、沖縄貝塚時代を紹介する石板があり、その場所から遊歩道が二手に分かれています。

右側は、個人所有の墓地となっており、洞穴遺跡へは正面の石段を下った先にありました。
遊歩道の分岐点。正面の説明版左側へ行くと『マヤーガマ』、右側へ行くと墓地になっていました。
説明版から右側奥へ進んできたところ。個人所有の墓地となっており、立入禁止となっていました。
遊歩道の分岐点に設置されていた沖縄貝塚時代を紹介する説明版。
説明版左側から『マヤーガマ』へと続く石段。
『マヤーガマ』の手前にも、発掘調査の説明が記載された石板が設置されていました。

その説明によると・・・
≪大山マヤーガマ洞穴遺跡の発掘調査≫
≪大山マヤーガマ洞穴遺跡は、沖縄諸島の“墓の造り”と“死者の葬り方”の移り変わりを知るうえで大切な遺跡です。

遺跡は標高50m程の傾斜地に位置し、後背に平坦な石灰岩台地が控え、前面に東中国海が一望できる場所です。

洞穴の入り口は北西側に向かって開き、その内部は高さ2.5m以上・幅12m・奥行き7.5m程の人が動きやすい広さです。

現在、入り口の中央部に石垣が積まれて左右に2ヵ所の通路がありますが、もともとは一連なりの入り口です。
説明が記載されていた石板から階段を下ってきたところ。左側に説明版が設置されており、右奥に洞穴があります。
洞穴の中には、新旧の人骨と支社に添えて葬られた副葬品などの遺物が、積み重なる土倉の順に埋もれています。

古く沖縄貝塚時代の前期[約3,000年前]と中期[約2,300年前]の時期には、人骨に伴って壺形の土器や貝輪などの副葬品があり、洞穴墓として利用されたことが知られます。

後期[約1,500年前]とグスク時代[800年前]には、鍋形の土器や植物を擦りつぶす擦石などの生活用具があり、当時の人々が洞穴で生活していたことが分かります。

琉球王府時代[約200年前]には、“洗骨”の儀礼を終えた遺骨を土器や陶器製の蔵骨器(ズシガメ)に納め直して、再び洞穴墓として利用しています。
『大山マヤーガマ洞穴遺跡』
マヤーガマに住む「化け猫」の話は、暗がりにほのかに見える蔵骨器(ズシガメ)、それを納めた古墓の怖さにちなんだ話でしょうか。

また、洞穴の前庭部にも土器や石器などが出土する遺物包含層が厚く積もり、小穴などの生活跡が検出されています。

本遺跡の発掘調査は平成9年3月から実施していますが、今後も調査を続けることによって、原始・古代から現在に至る沖縄諸島の“墓の造り”と“死者の葬り方”などが詳しく分かっていくことでしょう。
平成13年3月30日 宜野湾市教育委員会≫
・・・とありました。

『マヤーガマ』は、発掘調査が継続されているんですねぇ。。。

説明を読んだ後、ガマの近くまで行き、外から洞穴の中の様子を伺うと、発掘調査のためらしきブルーシートが被せられていました。
ガマに向かって右側の洞穴入口。奥にブルーシートが見えます。
上の洞穴を右側から見たところ。
真ん中のガマの入り口。
左側の入り口。
また、『マヤーガマ』の向かい側には、小さな祠が設置されており、拝所となっているようでした。
ガマの向かい側にあった拝所。
・・・と、ここまで見学した後、一旦、表の道まで戻り、『CAMP FORSTER』ゲート向けに少し進むと、少し開けた場所があり、その奥のうっそうと茂った森の中に大山区の慰霊塔がありました。
『マヤーガマ』入口から少し離れた場所にあった慰霊塔。
参詣道を進み慰霊塔の近くまで行ってみると・・・

慰霊塔は『醴泉之塔』(れいせんのとう)と刻まれており、その台座部分に碑文と戦没者御芳名が記された石板が設置されていました。
『醴泉之塔』の前庭は、結構綺麗に清掃されていました。
醴泉之塔
『醴泉之塔』の碑文には・・・
≪わが郷土琉球は今次大戦により、史上空前の一大災厄を蒙った。

當時戦況は、日を追うて苛烈を極め冷酷非情の嵐は陸に海にあるいは空に余す所なく殺戮の限りを尽くして吹き荒れた。

かつてわが部落も漬滅に瀕し遂に四百余名の戦没者を見るに至る悲しむべき事態に直面した。

それから十有余年いささか平静を取り戻した今日全区民の心からなる浄財により嘗では老いも若きも歓びを共にした由緒あるこの地に今は亡き人々の思い出を偲び、み魂安かれと祈りつつ区民集いてこの塔を建て冥福を祈る。


一九六一年十二月二十三日 字大山区民一同≫
・・・と記されていました。
塔の左側側面に記されていた戦没者御芳名。
右側側面にも御芳名が・・・
塔の裏側には塔の建立に携わった方々の氏名が記されていました。
・・・と、こちらまで見学させて頂いた後、この場を後にしました。。。

こちらは、遺跡と慰霊塔の2ヵ所を見学することができるので、興味がある方は、一度、足を運んでみてはいかがでしょうか?

少し長くなってしまいましたが、そろそろこの辺で。。。でわでわ☆★☆

最後まで読んでくださって、ありがとうございますm(_ _)m
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『大山マヤーガマ洞穴遺跡』・『醴泉の塔』☆

☆場所:〒901-2223
      沖縄県宜野湾市大山

☆見 学:無料

☆駐車場:無し