ハイサぁ~イ☆
時が過ぎるのは早いもので、今日から6月がスタートしましたね☆o(^-^)o
6月も、沖縄県内の各地では、様々なイベントが開催される予定です♪♪♪
中でも、旧暦の5月4日(新暦6月8日)には、本島を中心に離島を含め、各地域でハーリー(若しくはハーレー)が行われます☆
そしてその他、宮古島で毎年開催されている『ツール・ド・宮古島』や『MIYAKO ISLAND ROCK FESTIVAL』、また、石垣島の『Tropical Lovers Beach Festa』などなど、6月も沖縄はイベント盛り沢山となっております(笑)( ̄▽ ̄)b
※在沖米海兵隊基地で6月に開催予定だった『JUNGLE FEST』・『FLIGHT LINE FAIR』は、哀悼の期間のため、延期となったみたいです。
イベントの詳しい情報をチェックして、興味があるイベント会場へ遊びに行ってみてはいかがでしょうか?
さてさて☆
この前、南風原町津嘉山にある『クボー御嶽』を見学した後、同じ津嘉山内にある遺跡を見学しに行ったんですが、遺跡内への入口が見つけることができず断念・・・(泣)
こちらの遺跡は、じっくり調べてから再訪することにし、気を取り直して、今度は同町兼城にあるグスク跡を見学しに向かいました。
沖縄県島尻郡南風原町兼城にある
こちらはまず、南風原町の国道329号線と、県道241号線、82号線がぶつかる『兼城』の交差点から、国道329号線を与那原町向けに約160mほど進むと、右側に『業務スーパー南風原店』がありますので、その隣にある脇道に入ります。
脇道に入り約130mほど進むと、左側に『イカリ消毒沖縄株式会社』がありますので、隣りにある小道を入っていくと、その突き当りにあります。
こちらのグスク跡には、城壁などの遺構はなく、宅地造成により破壊されてしまったみたいです。
敷地入口から、左側の方へ進むと、グスク跡を示す標柱が建てられています。
見学を開始する前に、まずは説明書きを読んでみると・・・
≪グスク跡は、南風原町のほぼ中央部に位置する標高約40mの丘陵上にあります。伝承によると、14世紀末頃に首里から来た内嶺按司がグスクを築いたといわれています。
内嶺按司は鉄の農具をつくっては農民に与えて農業をすすめたようで、グスクの名称「ウチンミ」は「鍛冶」を意味するものであるとの見解もあります。
グスク周辺からは14・15世紀代の土器や中国産陶磁器、近世・近代の陶磁器などが採集できます。
現在、グスクの旧地形は大きく改変され、他地域でみられるようなグスクの石積みを確認することはできません。
グスクを築いていた石は首里城改修の際に献納されたり、遺跡の北側を走る国道329号線の工事のために使用されたと伝えられています。
グスク内の北西側には、字兼城の拝所が合祀され、その近くには字兼城の慰霊塔が建立されています。
また、内嶺グスクに関連するものとして、ここから南側約500mには沖縄の年中行事であるカシチーと紫差由来の「按司墓」があります。
【参考文献】
・南風原町字兼城『兼城誌』2006(平成18)年
・南風原町史編集委員会『南風原町史第6巻民族資料編 南風原シマの民族』2003(平成15)年≫
・・・と書かれていました。
標柱の裏手側、左後方に合祀された兼城集落の拝所があります。
拝所に向かって右側から『野原門』、『前ヌ殿』、『里主殿』、『中ヌ殿』、『西ヌ殿』となっていました。
この合祀された拝所から、今度は敷地の中央付近へと向かおうとすると、グスク跡の標柱裏にも説明書きが記されていました。
そちらも、引用させて頂きます。
≪内嶺城は、内嶺一族が西暦一三八〇年頃、ここ兼城発祥地にグスクを築いたとされる。
(神名)カニマンのイベ、(古謡)兼城クエナ、(考古遺跡)グスク遺物が記されていて町指定の文化財である。
兼城城の別名でもあり按司は尚巴志から鉄塊を受けて鍛冶を打ち《鍛冶打ちの嶺(ウチンミ)》鉄具を作って農を興したとされ、その功をたたえてクエナに「聞こえ兼城、豊む兼城・・・・捨尋の御殿、国の人あつめて呑んでぃん減ならん・・・・」とあるグスクの繁栄を寿いだと伝えられている。
現在、里主殿として大屋が管掌している。
この標柱裏に記されていた説明まで読み終えてから、敷地中央付近へと向かいます。
そちらには、兼城区の『慰霊塔』や『兼城ノロ火の神』などがありました。
祠の中の角に、香炉が置かれており、『兼城内嶺城・大城世立・火の神』の札が壁に設置されていました。
こちらの標柱の裏にも、説明書きが記されていたので引用させて頂きます。
≪内嶺の嶽、眞南風之嶽とともに三代拝所のひとつである。
兼城ノロは、それら三神の神事祭祀を司り、五国全盛の時代に民心の安泰と信仰にかかわってきた。
以来、神官ノロ制度は確立され兼城ノロ神役を下原門族が継承。根神、根人をそれぞれ大屋と喜納門族が管掌したと伝う。
この『兼城ノロ火の神』の左隣には、兼城区の『大東亜戦争戦没者慰霊塔』が建立されています。
慰霊塔の台座の正面と左右には、大勢の戦没者の名前が刻まれていました。
慰霊塔と『兼城ノロ火の神』の間から、『兼城ノロ火の神』の裏側へ回ると、『野原門御井戸・火神(ヌバンジョーウカー ヒヌカン)』、『野呂御井戸(ヌールウカー)』がありました。
この『兼城ノロ火の神』や『野原門御井戸・火神』がある場所から、隣接する広場へと向かいましたが、そちらには拝所らしき場所は見当たりませんでしたね。
この広場の南側から、下の方へと続く小道が二つあったので、そちらの方へ下りてみると、こちらも芝生が綺麗に敷かれた広場となっていました。
そして、この芝生が綺麗に敷かれた広場の南側にも小道があったので、そちらの方へ行ってみると・・・
大きなガジュマルの木の根元に香炉が置かれており、『眞南風之御嶽(まはえのうたき)』〔通称:フェーヌミー〕と呼ばれる遥拝所がありました。
こちらの標柱の裏側にも説明書きが記されていたので引用します。。。
≪グスク時代の遺跡で御門口とも伝承され、集落の創始と発展にかかわった神城聖地であり、神名「ワカツカサノ御イベ」と琉球国由来記に記されていて人々の幸を守る、神へ祈る拝所(御嶽)であり、諸々の願いを叶える遥拝所でもある。
この『眞南風之御嶽』がある場所から、一旦住宅街に出て、再度丘の上へと向かうと、ちょうど内嶺グスク跡』の入口に戻りました。
んで、今度は、『内嶺グスク跡』から、表の道まで出て、その反対側にある脇道へと進みました。
その脇道の奥には、『兼城の石獅子』があるんだとか。。。
小道に入り、道なりに進んで行くと、奥にも案内板が設置されてました。
その案内板がある場所を左折すると、その突き当りに石獅子があります。
『兼城の石獅子』の隣りにも、説明板が設置されていました。
その説明によると・・・
≪この石獅子は、上間(那覇市)へのケーシ(返し)の目的で置かれたと伝えられている。普通南部では東風平の八重瀬へのヒーゲーシ(火返し)の目的で置かれたものが多い。
それに対しこの石獅子が上間へのケーシであるといわれるのは当時、上間も一帯の人々にとって恐れの対象であったことを示しており、南風原の民族文化を知るうえで貴重なものである。
『南風原町観光サイト』によると、かつてはもう1基あったといわれているそうですが、現在は消失してしまい、この1基だけが残っているとのことです。
横から見ると、ただの石にしか見えませんが、崖側の方から見ると、一応、獅子の顔があるのがわかるみたいです。
今回は、雑草が生い茂っており、うまく撮影できなかったので、写真は撮りませんでした。。。
・・・と、ここまで見学した後は、クルマに戻り、グスク跡を後に致しました。
沖縄の史跡や城跡などに興味がある方は、石積みなどの遺構は残っていませんが、ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか?
それでは、この辺で。。。でわでわ☆★☆
☆『内嶺城跡』・『兼城の石獅子』☆
☆場所:〒901-1111
沖縄県島尻郡南風原町兼城
☆営業時間:自由見学
☆入場料:無料
☆駐車場:無し
時が過ぎるのは早いもので、今日から6月がスタートしましたね☆o(^-^)o
6月も、沖縄県内の各地では、様々なイベントが開催される予定です♪♪♪
中でも、旧暦の5月4日(新暦6月8日)には、本島を中心に離島を含め、各地域でハーリー(若しくはハーレー)が行われます☆
そしてその他、宮古島で毎年開催されている『ツール・ド・宮古島』や『MIYAKO ISLAND ROCK FESTIVAL』、また、石垣島の『Tropical Lovers Beach Festa』などなど、6月も沖縄はイベント盛り沢山となっております(笑)( ̄▽ ̄)b
※在沖米海兵隊基地で6月に開催予定だった『JUNGLE FEST』・『FLIGHT LINE FAIR』は、哀悼の期間のため、延期となったみたいです。
イベントの詳しい情報をチェックして、興味があるイベント会場へ遊びに行ってみてはいかがでしょうか?
さてさて☆
この前、南風原町津嘉山にある『クボー御嶽』を見学した後、同じ津嘉山内にある遺跡を見学しに行ったんですが、遺跡内への入口が見つけることができず断念・・・(泣)
こちらの遺跡は、じっくり調べてから再訪することにし、気を取り直して、今度は同町兼城にあるグスク跡を見学しに向かいました。
沖縄県島尻郡南風原町兼城にある
『内嶺グスク跡』
(ウチンミグスク跡)
敷地内にある『内嶺グスク跡』の標柱 |
脇道に入り約130mほど進むと、左側に『イカリ消毒沖縄株式会社』がありますので、隣りにある小道を入っていくと、その突き当りにあります。
『イカリ消毒沖縄株式会社』の横の小道を入ってきたところ。 |
入口から見たグスク跡の敷地内 |
敷地入口から、左側の方へ進むと、グスク跡を示す標柱が建てられています。
『内嶺グスク跡』の標柱と説明板 |
≪グスク跡は、南風原町のほぼ中央部に位置する標高約40mの丘陵上にあります。伝承によると、14世紀末頃に首里から来た内嶺按司がグスクを築いたといわれています。
内嶺按司は鉄の農具をつくっては農民に与えて農業をすすめたようで、グスクの名称「ウチンミ」は「鍛冶」を意味するものであるとの見解もあります。
グスク周辺からは14・15世紀代の土器や中国産陶磁器、近世・近代の陶磁器などが採集できます。
現在、グスクの旧地形は大きく改変され、他地域でみられるようなグスクの石積みを確認することはできません。
標柱の裏手後方にある拝所 |
グスク内の北西側には、字兼城の拝所が合祀され、その近くには字兼城の慰霊塔が建立されています。
また、内嶺グスクに関連するものとして、ここから南側約500mには沖縄の年中行事であるカシチーと紫差由来の「按司墓」があります。
【参考文献】
・南風原町字兼城『兼城誌』2006(平成18)年
・南風原町史編集委員会『南風原町史第6巻民族資料編 南風原シマの民族』2003(平成15)年≫
・・・と書かれていました。
右側から『野原門』、『前ヌ殿』 |
拝所に向かって右側から『野原門』、『前ヌ殿』、『里主殿』、『中ヌ殿』、『西ヌ殿』となっていました。
拝所中央の『里主殿』 |
そちらも、引用させて頂きます。
≪内嶺城は、内嶺一族が西暦一三八〇年頃、ここ兼城発祥地にグスクを築いたとされる。
(神名)カニマンのイベ、(古謡)兼城クエナ、(考古遺跡)グスク遺物が記されていて町指定の文化財である。
右側から『中ヌ殿』、『西ヌ殿』 |
現在、里主殿として大屋が管掌している。
平成十六年十月吉日建立≫
・・・と、書かれていました。この標柱裏に記されていた説明まで読み終えてから、敷地中央付近へと向かいます。
そちらには、兼城区の『慰霊塔』や『兼城ノロ火の神』などがありました。
敷地の中央付近に位置していた『兼城ノロ火の神』 |
こちらの標柱の裏にも、説明書きが記されていたので引用させて頂きます。
≪内嶺の嶽、眞南風之嶽とともに三代拝所のひとつである。
兼城ノロは、それら三神の神事祭祀を司り、五国全盛の時代に民心の安泰と信仰にかかわってきた。
以来、神官ノロ制度は確立され兼城ノロ神役を下原門族が継承。根神、根人をそれぞれ大屋と喜納門族が管掌したと伝う。
平成十七年六月吉日建立(字金城)≫
・・・と書かれていました。この『兼城ノロ火の神』の左隣には、兼城区の『大東亜戦争戦没者慰霊塔』が建立されています。
兼城区の大東亜戦没者慰霊塔 |
慰霊塔と『兼城ノロ火の神』の間から、『兼城ノロ火の神』の裏側へ回ると、『野原門御井戸・火神(ヌバンジョーウカー ヒヌカン)』、『野呂御井戸(ヌールウカー)』がありました。
『野原門御井戸・火神(ヌバンジョーウカー)』と『野呂御井戸(ヌールウカー)』 |
『野原門御井戸・火神(ヌバンジョーウカー)』 |
『野原門御井戸・火神(ウバンジョーウカー)』 |
『野呂御川』と刻まれた『野呂御井戸(ヌールウカー)』 |
『兼城ノロ火の神』がある場所と隣接する広場 |
そして、この芝生が綺麗に敷かれた広場の南側にも小道があったので、そちらの方へ行ってみると・・・
内嶺城跡の広場より一段下がった場所にあった広場 |
こちらの標柱の裏側にも説明書きが記されていたので引用します。。。
≪グスク時代の遺跡で御門口とも伝承され、集落の創始と発展にかかわった神城聖地であり、神名「ワカツカサノ御イベ」と琉球国由来記に記されていて人々の幸を守る、神へ祈る拝所(御嶽)であり、諸々の願いを叶える遥拝所でもある。
平成十七年六月吉日建立≫
・・・と書かれていました。眞南風之御嶽(フェーヌミー) |
眞南風之御嶽。ガジュマルの根元に香炉(ブロック)が置かれてました。 |
んで、今度は、『内嶺グスク跡』から、表の道まで出て、その反対側にある脇道へと進みました。
その脇道の奥には、『兼城の石獅子』があるんだとか。。。
『内嶺グスク跡』へ続く小道の反対側にある『兼城の石獅子』へと続く小道 |
小道を進んで行くと、その奥にも案内板がありました。 |
その案内板がある場所を左折すると、その突き当りに石獅子があります。
兼城の石獅子 |
その説明によると・・・
≪この石獅子は、上間(那覇市)へのケーシ(返し)の目的で置かれたと伝えられている。普通南部では東風平の八重瀬へのヒーゲーシ(火返し)の目的で置かれたものが多い。
それに対しこの石獅子が上間へのケーシであるといわれるのは当時、上間も一帯の人々にとって恐れの対象であったことを示しており、南風原の民族文化を知るうえで貴重なものである。
平成四年三月十日 南風原町教育委員会≫
・・・と書かれていました。『南風原町観光サイト』によると、かつてはもう1基あったといわれているそうですが、現在は消失してしまい、この1基だけが残っているとのことです。
横から見ると、ただの石にしか見えませんが、崖側の方から見ると、一応、獅子の顔があるのがわかるみたいです。
今回は、雑草が生い茂っており、うまく撮影できなかったので、写真は撮りませんでした。。。
・・・と、ここまで見学した後は、クルマに戻り、グスク跡を後に致しました。
沖縄の史跡や城跡などに興味がある方は、石積みなどの遺構は残っていませんが、ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか?
それでは、この辺で。。。でわでわ☆★☆
☆『内嶺城跡』・『兼城の石獅子』☆
☆場所:〒901-1111
沖縄県島尻郡南風原町兼城
☆営業時間:自由見学
☆入場料:無料
☆駐車場:無し