◎『沖縄の名木百選』に認定されたデイゴが残る読谷村古堅の学校跡☆|沖縄放浪日記

2016年5月10日火曜日

◎『沖縄の名木百選』に認定されたデイゴが残る読谷村古堅の学校跡☆

ハイサぁ~イ☆

今日(10日)の沖縄本島は、日中はいい天気だったんですが、夜になって雨が降り始めました。。。

天気予報では、今夜~明日(11日)にかけて、『弱雨』マークとなっていますが、遠くの空では稲光が断続的に光っており、強い雨が降りそうです。。。

ただ、明日(11日)の夜からは、次第に晴れてくるみたいで、明後日(12日)からまたいい天気となりそうですね(^艸^)♪

今年の沖縄の梅雨は、いったいいつ頃から始まるんでしょうね( ̄▽ ̄;

さてさて☆

昨日(9日)、宜野湾市真志喜の『はなみ食堂』で食事した後、読谷村大湾・古堅・比謝矼に点在する史跡や拝所、そしてグスク跡などを見学しに行ってきました☆

まず最初に向かったのは、同村古堅にある学校跡。。。

こちらには、かつての門柱や国旗掲揚台、そして大きなデイゴの木が残されていました。

沖縄県中頭郡読谷村古堅にある
『古堅國民學校跡・古堅尋常高等小學校跡』
『古堅國民學校跡・古堅尋常高等小學校跡』
こちらは、まず読谷村の国道58号線県道16号線がぶつかる『大湾』の交差点から、県道16号線に入り約330mほど進んだトコ左側にある脇道を左折します。

左折して、最初の脇道を右折し、約130mほど直進すると左側にあります。

現在、この学校跡周辺は、閑静な住宅街となっており、跡地にはかつての門柱と国旗掲揚台、古堅小学校沿革の概要が刻まれた石板、そして、かつての校庭に立っていたデイゴの木が残されています。

『読谷村役場 教育委員会 読谷村史編集室』の公式サイト『読谷村の戦跡めぐりマップ』内にある『㉙旧古堅国民学校校門とデイゴ』のページを読んでみると・・・
『古堅國民學校跡・古堅尋常高等小學校跡』の沿革の概要
≪字古堅在比謝川ガスからNTT社一帯は、戦前の古堅国民学校の校地でした。ところが戦後、校地は民間に分譲され、わずかな一画しか残っていません。

今では戦前からの大きなデイゴの木がそびえ、旧古堅校関係者の「古堅尋常高等小学校・古堅国民学校・古堅青年学校校門跡整備期成会」によって校門門柱と一帯が整備されています。

狭い一画ですので、門柱の位置や向きは戦前のとおりとはいきませんでした。

古堅国民学校(小学校)には1944年(昭和19年)7月8日から8月5日まで独立混成代15連隊工兵隊(球7836部隊)が駐屯し、引き続いて9月2日kら12月10日までは第24師団輜重兵(しちょうへい)※第24連隊第5中隊と医務関係部隊(山3483部隊)の本部となっていました。
※輜重兵:軍需品の輸送・補給にあたる兵。
沿革の概要が刻まれた石板後方にある校門模型と校庭配置模型
軍隊に接収された後の同校では、民家や字事務所などで分散授業をしたり、中には青空教室での授業ということも余儀なくされました。

学校に駐屯していた軍隊は、アメリカ軍の沖縄本島上陸直前、再編され主として島尻方面へ配備変えされました。

軍隊が去った後の同校の校地・校舎等は、1945年(昭和20年)3月末の上陸空襲でことごとく破壊し尽くされ、校門門柱も爆弾破片や銃弾等による損傷を受けましたが、門柱はさらに戦中・戦後にかけて押し倒され、角の部分の損傷が特にひどかったのは、ブルドーザーなどで引きずり回されたからではなかったかと言われています。

事実、この門柱は元あった場所から道路を隔てた所に移され、さらに古堅南小学校の校庭に運ばれ、そして現在地へと三角移動をさせられているのです。戦災だけでなく、戦後も苦難の道をたどってきたわけです。
冒頭の写真と反対側から見た校門。後方にたつデイゴの木とその説明板が見えます。
一方、校門前にあったデイゴの木は、門柱同様大変な戦禍を被ったと思われますが、不死鳥のようによみがえり、戦前より一回りも大きく生長して、その偉容を見せています。

このデイゴは、古堅校のシンボルとしてかつての栄光の歴史を伝えており、卒業生にとっては心のより所であり、語り草ともなっています。
『読谷村の戦跡めぐりマップ《㉙旧古堅国民学校校門とデイゴ》のページより引用』≫
・・・と書かれていました。

古堅国民学校の校庭配置模型を見ると、その規模の大きさが分かりますし、かつてより、だいぶ縮小されているのが分かります。。。

校門を入ると、右側に大きなデイゴの木があり、その根元に説明板が設置されています。
『おきなわの名木 旧古堅国民学校跡のデイゴ』遠景☆
その説明板によると・・・
≪戦前ここは古堅国民学校であった。1945年の沖縄戦で校舎や校門は破壊されたが、校門にあったこのデイゴだけはかろうじて無事だった。

戦後、この地は米軍基地となり、1977年の返還後は土地整備事業が導入され、地域の人々の強い要望により、このデイゴを残すことになった。

その後もデイゴは成長を続け大木となり、2004年度に「沖縄の名木百選」に認定された。

詳しい樹齢は不明だが100年前後だと思われ、学校創立(1902年)の頃からのデイゴだと考えられる。≫
・・・とありました。

このデイゴの木、推定樹齢100年前後になるんですねぇ。。。

戦前~戦中、そして戦後~現在に至るまで、ここで古堅区の歴史を見続けてきたんですね。

このデイゴの木を横切って、奥へと進むと、地面に道路跡が刻まれていました。
デイゴの木のすぐ隣にあった道路跡
中央に設置された『道路跡』と刻まれた石板
この道路跡を通過して、さらに奥に進むと、国旗掲揚台が残されていました。

その少し手前には、当時の学校校門の姿が写された写真と説明が書かれた石柱があります。
国旗掲揚台(奥)とかつての校門の姿が写された写真が設置された石柱(右)
石柱に設置された当時の様子の写真と説明。
古堅尋常高等小学校・古堅国民学校 国旗掲揚台
石柱にある説明によると、どうやらこの石柱が立てられている場所から、当時のデイゴの木と校門を撮影したみたいですね。

また、現在の校門が建てられている場所は、当時の場所ではなく、少しズラされて建てられているんですねぇ。。。

・・・と、ここまで見学した後、次の目的地へと向かいました。

そちらは、また別の機会にご紹介させていただきたいと思います。

それでは、この辺で。。。でわでわ☆★☆

最後まで読んでくださって、ありがとうございますm(_ _)m
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☆『古堅國民學校跡・古堅尋常高等小學校跡』☆


☆場所:〒904-0314
      沖縄県中頭郡読谷村字古堅63-4

☆営業時間:自由見学

☆入場料:無料

☆トイレ:無し

☆駐車場:無し