◎沖縄本島北部の守備に当たった宇土部隊の本部壕と野戦病院のあった跡。。。|沖縄放浪日記

2016年2月7日日曜日

◎沖縄本島北部の守備に当たった宇土部隊の本部壕と野戦病院のあった跡。。。

ハイサイ☆

今日(7日)の沖縄本島は、雲が多かったものの、朝から青空が広がり、とてもいい天気でした(≧▽≦)b

・・・が、今日(7日)開催が予定されていた『チビモトカップ』の開幕戦は、前日(6日)の夜に降った雨の影響で、コース状態が改善しなかったらしく、中止せざるを得なかったとのこと。。。(>_<)

また、今週は水曜日(10日)までは降水確率が10%と晴れるみたいなんですが、また木曜日(11日)から『曇り』となっていて、日曜日(14日)まで天気が崩れる見込み。。。

はぁ。。。今日はホントいい天気だったので、ようやく開幕戦を見ることができると思ってたのに。。。

ブログ『チビモト生活』の更新を待つしかありませんね。。。(泣)(/ω\)

さてさて☆

前々回、本部町八重岳にある『中学徒之碑』をご紹介させて頂いたんですが、この『中学徒之碑』から、さらに八重岳の山頂に向かって約230mくらい進んでいくと、右側に舗装されていない脇道があります。

その脇道を入って、約140mくらい進むと、前方に大きな説明板と木製の標柱があります。

ここは、去った沖縄戦の際、旧日本軍の部隊が使用していた壕と野戦病院があった跡なんだとか。。。

沖縄県国頭郡本部町大嘉陽にある
『国頭支隊本部壕・野戦病院跡』
『国頭支隊本部壕・野戦病院跡』
実は、昨年の1月に『寒緋桜』を見に行った際に、並木道沿いにあった標柱を、たまたま見つけたんですが、その時は、並木道とこちらを繋ぐ道が工事していたので断念したんですよ。。。

んで、今年『寒緋桜』を見に行った際に、並木道から脇道の奥の様子を伺うと、昨年あった重機や『工事中』と書かれた看板が無くなっていたので、ちょっと行ってみることにしました。

舗装されていない小道を突き進んでいくと、前方に大きな案内版と木製の標柱を発見‼

近くの開けたスペースにクルマを停め、その案内板を見てみると『国頭支隊本部壕・野戦病院跡』と書かれていました。

その案内板によると・・・
案内板と標柱の横から森に向かって小さな道が伸びてました。
≪ここは、一九四五年(昭和二〇)の沖縄戦の時、国頭支隊(球七〇七一部隊、俗称宇土部隊)の本部壕と、沖縄陸軍病院名護分院(八重岳野戦病院)のあった跡である。

国頭支隊は飛行場のある伊江島の保持と、本部半島を中心に国頭郡内でゲリラ活動をして米軍を撹乱、釘付けにし、本島中、南部の作戦を容易にすることを任務とした。
『国頭支隊本部壕・野戦病院跡』の案内板。。。かなり汚れており、劣化も進んでました。
宇土部隊(隊長 宇土武彦大佐)は、大分・鹿児島・宮崎・熊本・沖縄の各県出身の将兵によって編成され、伊江島守備隊の第一大隊と、本島守備隊の第二大隊、砲兵隊、遊撃隊(護郷隊)、鉄血勤皇隊、防衛隊等から成る兵員約四千人である。

八重岳、真部山に布陣する国頭支隊は、四月十一日頃から米軍の空爆と艦砲射撃を受け、十三~十六日にかけて西海岸の渡久地方面と東側の伊豆味から進撃する米海兵隊の猛攻に合い、真部山で激しい攻防戦となり日本軍に多数の死傷者が出た。
案内板左上にあったイラストのアップ。《沖縄陸軍病院名護分院(八重岳野戦病院) イラスト 前原 久》
十七日米軍は遂に八重岳北東頂上を占領、十八日敗走する宇土部隊を追撃して掃討戦は四月中続いた。

一方宇土隊長は四月十六日、米軍の伊江島上陸を機に八重岳、真部山の陣地を放棄し、遊撃戦に移ることを命じ、第二遊撃隊のいる多野岳に後退した。その際、八重岳の野戦病院には多くの負傷者が遺棄され、この一帯は悲惨を極めたといわれる。
案内板左下にあった写真のアップ。
《本部半島の日本軍司令部壕で、情報収集のため重要書類などをあさっている
米第六海兵師団の情報収集班。(那覇出版社提供)》
この本部半島地域における戦闘で、軍や町役場の命で山中に避難した住民は却って戦火に巻きこまれ、軍人、軍属を含む町民一七五三人の尊い生命が失われた。
本部町教育委員会≫
・・・と書かれていました。

案内板は、かなり汚れており、劣化も進んでいる感じでしたね。。。

そして、この案内板のすぐ隣には、こちらもかなり劣化が進んでいる木製の標柱があり《・・・こらん(沖縄県立三高等・・・・》と頭の文字と、《高等》に続く文字が消えてましたが、自宅に戻った時に調べてみると、《なごらん(沖縄県立第三高等女学校)》だということが分かりました。
なごらん(沖縄県立第三高等女学校)の標柱
《なごらん学徒隊》とは、沖縄県立第三高等女学校の生徒たちで編成された学徒隊の通称です。

一番有名な《ひめゆり学徒隊》をはじめ、《白梅学徒隊》《瑞泉学徒隊》《積徳学徒隊(ふじ学徒隊)》《梯梧学徒隊》、そして宮古・八重山諸島の《宮古学徒隊》《八重山高女学徒隊》《八重農学徒隊》と同じ九つあった女子学徒隊の内のひとつで、看護要員として負傷兵の看病や世話、遺体の埋葬などが主な任務でした。。。
案内板横の森に伸びる道の入口から向かって右側の斜面に、本部壕と野戦病院跡の石垣が残っています。
奇跡的に助かった《元なごらん学徒隊》の生存者の方々が、TV番組やネットの動画番組に出演され、その当時の様子を詳細に語られています。

そのお話しによると、本島南部方面は、自然壕(ガマ)や人の手で作った人工の壕などが多く点在しているので、そこを使用することができたが、こちらには、そのようなガマはほとんど無かったらしく、こちらに石垣を作り、小屋を建てていたんだそうです。

生存者の方が自身で描いた絵を見せながら説明されていましたが、その絵を見ると、小屋は5、6棟あったみたいで、そのうちの一つはオペ室で、あとは病棟だったとのこと。

しかし、毎日、夜になると負傷者がドッと運び込まれてくるので、日に日に病棟には入れることが出来なくなり、仕方なく病院の前の道に寝かしていたんだとか。。。
国頭支隊本部壕跡
中には入れないみたいだったので、外からフラッシュを炊いて撮影してみました。奥行きはそんなに深くないみたいでしたね。
1945年4月16日の夜、名護市の多野岳へ撤退する際には、歩ける患者だけを連れていき、歩けない患者さんには、枕元に手榴弾と乾パンを配ったんだそうです。。。

本部町に残っている記録では、約300人くらいの負傷兵が取り残されたといわれているみたいです。。。

沖縄県立第三高等女学校は、1945年、沖縄戦が終結した際にそのまま自然閉校となり、その後は《名護高等学校》に統合されたんだそうです。
本部壕入口から案内板がある小道を見たところ。
今現在、この本部壕・野戦病院跡一帯は、深い木々に覆われており、静寂に包まれていますが、70年前には、この場所で連日連夜、凄惨な出来事が繰り広げられていたのかと思うと、胸が締め付けられる思いでしたね。。。

もし、本部町八重岳を訪れる機会があれば、こちらにも足を運んでみてはいかがでしょうか。。。

それでは、この辺で。。。でわでわ☆★☆

最後まで読んでくださって、ありがとうございますm(_ _)m
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☆『国頭支隊本部壕・野戦病院跡』☆

☆場所:〒905-0223
      沖縄県国頭郡本部町大嘉陽(八重岳中腹辺り)

☆時間:自由見学

☆トイレ:無し

☆駐車場:有り