◎那覇市と豊見城市の間を流れる国場川に架けられた人柱伝説が残る橋。。。|沖縄放浪日記

2015年12月5日土曜日

◎那覇市と豊見城市の間を流れる国場川に架けられた人柱伝説が残る橋。。。

ハイサぁ~イ☆

週末土曜日の沖縄本島は、降水確率が10%となっており、昨日と同じく、いい天気になりそうですね♪

しかし、明日(12月6日)日曜日は、『第31回 NAHAマラソン』が開催されるんですが、今現在の予報では降水確率が70%となっており、朝から雨が降りそうです。。。

曇りや小雨程度なら、参加するランナーさんにとっては好都合だと思いますが、激しく降っちゃうとかなり厳しい状況になるのではないでしょうか。。。(;´・ω・)

今回のNAHAマラソンは、3万人の方が出走されるとのことなので、なるべくランナーさん達にとって、走りやすい天気になってほしいものですねo(^-^)o
ワタクシも、時間があれば応援に行こうかと思っております( ̄▽ ̄)v

さてさて☆

この前、『第5回 沖縄そばスタンプラリー』参加店舗の豊見城市字高安にある『わらいそば』さんで食事した後、少し時間があったので、帰りがけに同市内にある史跡を見に行ってきました☆

沖縄県豊見城市字真玉橋にある
『真玉橋遺構』
豊見城市側にある『真玉橋遺構』の一つ(手前)と新しく作られた現在の『真玉橋』
こちらは、豊見城市の国道329号線県道11号線が交差する『真玉橋(南)』交差点から、県道11号線を那覇市の国道507号線県道11号線交差する『真玉橋(北)』交差点向けに進むと、豊見城市側に二基、那覇市側に一基あり、それぞれ左側にあります☆

この『真玉橋』は、1522年(嘉靖元)に首里と島尻地方を結ぶ交通の要として、那覇市と豊見城市の間を流れる国場川に架かる橋で、第二尚氏第三代国王の尚真王によって築かれた橋です。

現在、豊見城市の有形文化財に指定されています。
豊見城市側から見た現在の『真玉橋』
現在、『真玉橋遺構』は3基展示されてるんですが、3基それぞれに説明版が設置されており、そのうちの1つの説明版によると・・・
※3つの説明版は、ほとんど同じ内容なので、その中で一番詳細が書かれてる説明版より引用しています。

≪真玉橋は1522年(嘉靖元)に首里城並びに軍事的要所である那覇港及び那覇を防御することを目的として、第二尚氏第三代国王尚真の時代に架けられた橋です。また、琉球王府時代には首里と島尻地方を結ぶ交通の要でもありました。

当初、真玉橋は五連橋の木橋であり、中央を真玉橋、南側に世待橋、北側に世寄橋、両端は名前のない橋でした。1707年(康熙46)に木橋から石橋への改築工事が開始され、翌年には完成しました。1809年(嘉慶14)に大雨のため川が氾濫し、世寄橋が破損したために仮の木橋が架けられましたが、大雨により再び破壊されました。

その後、1836年(道光16)に世寄橋を改築し、その北側に新たな橋の世済橋を築き工事は翌年に終了したと言われています。
現在の真玉橋の豊見城市側にある遺構
この二度にわたる改修工事を伝える記録として『重修真玉橋碑文』があります。碑文の裏面には改修工事にかかった費用や人夫数などが記されており、当時の大工事の様子がうかがわれます。

真玉橋は、大きく美しい曲線の5つのアーチが連なり、脚部には、かわの流れによる水圧を弱めるためにスーチリー(潮切り)が設けられ、構造的にも景観的にも、沖縄独特の石造文化を代表する橋でしたが、1945年(昭和20)の沖縄線で破壊されてしまいました。

1996年(平成8)には戦後つくられた橋の改修工事に伴う発掘調査によって、戦前の真玉橋が豊見城市側と那覇市側の双方で姿を現しました。
以降のアーチ部分
沖縄線によって県内では数多くの文化遺産が失われました。しかし、戦後半世紀を過ぎて再び「真玉橋の石橋」が私たちにその風格ある姿を現したことによって、当時の石工技術の高さを見ることができ、これまではその姿を写真でしか見ることができませんでしたが、実際に「視覚」で確認される貴重な文化遺産としての価値が再認識されました。

このようなことから後世のためにも現地保存し、復元・活用できるようにと1997年(平成9)「真玉橋の石橋遺構現地保存推進協議会」が発足し、「真玉橋」の保存方法について議論してきました。その結果、豊見城市側の橋は一部埋め戻し保存、一部移設保存という二つの保存方法を決定し、その遺構を保存しています。

「石橋」の二度にわたる改修工事をきねんして1837年(道光17)に建てられた「重修真玉橋碑文」は、「石橋」同様に沖縄線によって破壊されました。その残存資料は1995年(平成7)に市有形文化財に指定され、現在は豊見城市歴史民俗資料展示室に展示されています。
豊見城市側にあるもう一つの遺構
真玉橋自治会では1980年(昭和55)に沖縄線によって失われた碑文を現公民館前に復元し、「石橋」の存在を後世に伝えるなどの活動を積極的に展開してきました。

「真玉橋の石橋」は真玉橋住民さらには豊見城市の誇りと心のよりどころであり、地域の住民の深い愛情とともに歩んできたのです。≫
・・・と書かれてました。

各説明版には、旧『真玉橋』の白黒写真や作図などが掲載されています。
もう一つの遺構の裏側
ちょっと見えにくいですが、説明版に掲載されていた戦前の真玉橋の写真
もう一つの遺構の説明版に掲載してある戦前の写真と作図
同じく説明版に掲載されている1996年の発掘調査の際の様子
また、この『真玉橋』には、古くから言い伝えが諸説残されています。

その言い伝えとは、橋の下に人柱を生贄として生き埋めにしたというお話なんですが、今回は諸説ある中で一番有名な『七色ムーティ(元結)』と呼ばれる話をご紹介しましょうね。

≪昔、夫婦と娘の3人家族が暮らしており、母親はいつも七色の髪飾り『七色ムーティ(元結)』をしていました。

真玉橋が造られた当初、川の増水などで橋が幾度となく破壊されてしまい、何度も架け直していたんだそうです。

幾度となく橋が破壊され、人々は大変困り果てていました。すると、そこにいたユタ(巫女)が「七色のムーティ(元結)をいつも身につけている女性を、生贄として橋の下に生き埋めにすると、増水で橋が流されることはなくなる」と言いました。
那覇市側にある遺構
その話を聞いた人々は、『七色ムーティ』を身につけた女性を探しはじめ、3人家族の母親が『七色ムーティ』を身につけているのを見つけました。

母親は、生贄として橋の下に埋められることになってしまい、橋のところまで連れていかれました。

生き埋めにされる直前、娘に向かって「あなたが幸せになるためには、これから他人より先に話をし始めてはいけません」と言い残し、人柱として生き埋めにされてしまいました。

その後、橋は川の増水によって破壊されることは起きませんでした。

残された父親と娘は、もうここでは住んでいくことは出来ないと、本島北部のヤンバルへ移住したんだそうです。

それから何年か経ち、娘は大きくなりましたが、母親の遺言を守り、あの日から言葉を発することは全くありませんでした。
那覇市側にある遺構
父親と娘がヤンバルに移住したことを、数年経った時に、橋の責任者の耳に入ります。すると、責任者は自分の息子に、父親と娘のところへ行き、丁重に謝罪してきなさいと言ったんだそうです。

父親と娘を訪ねてヤンバルに行った息子は、海辺で一人遊んでいる女性を見つけました。

息子が、その女性に訪ねたい家の場所を聞くと、女性は黙ったまま身振りでその家を教えたんだそうです。

その家まで案内してほしいと、息子が再度お願いすると、女性は頷いて連れて行ってくれました。
那覇市側遺構の説明版に掲載されている写真
すると、連れていかれた先は、息子が訪ねたかった父親と娘の家で、案内してくれた女性は、その娘でした。

息子は、自身の親に言われた通り、父親と娘に礼儀を尽くして謝罪しました。

その後、息子は父親に、娘さんが言葉を発さないのは何故なのか尋ねてみると、母親が遺した娘への最期の言葉を守り、一言も話さなくなったと言いました。

その話を聞いた後、今度は息子の方から話始め、自身の父親から、謝罪した後で娘さんを自分の嫁に来て貰えないか頼んでみなさいと言われた、と伝えました。
那覇市側からみた新しい真玉橋と『真玉橋遺構』
3人でいろいろ話し合った後、父親は娘に、「この人の嫁になりたいなら、そうしなさい。けれど、嫁になった後で、ちゃんと言葉を話すことができるのか?」と聞いてみると、「はい。そうします。」と言葉を発して、答えたんだそうです。

娘の話によると、数日前に母親が蝶に姿を変えて自分の前に現れ、この方の嫁になりなさいと言われたと話しました。

その後、娘は息子が住む首里に嫁いでいき、夫婦円満で、息子は出世したんだそうですよ。≫

・・・と、少し長くなってしまいましたが、『真玉橋』に纏わる言い伝えのうちの一つ『七色ムーティ』のお話でした。

もし、『真玉橋遺構』を訪れる機会があれば、この『七色ムーティ』を思い出しながら見学してみてくださいねヽ(^。^)

今回は、かなり長くなってしまいましたが、そろそろこの辺で。。。でわでわ☆★☆

最後まで読んでくださって、ありがとうございますm(_ _)m
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☆『真玉橋遺構』☆

☆場所:〒901-0201
      沖縄県豊見城市字真玉橋

☆時間:自由見学

☆駐車場:無し

☆トイレ:無し