◎《首里城以前の琉球国王『中山王』のお城》の続き~(^.^)/|沖縄放浪日記

2015年3月24日火曜日

◎《首里城以前の琉球国王『中山王』のお城》の続き~(^.^)/

昨日、日中は晴れてたのに、夕方くらいからだんだん曇り空になってきて、日が暮れた後から雨が降っちゃいましたね・・・(ーー;)

風も少しでてきて、ちょっとだけ肌寒く感じませんでしたか。。。?

ホント、早く暖かくなってほしいものです(^-^;
冬も嫌いぢゃないんですけどね。。。

さてさて☆

今回は、この前の『浦添城跡』の話の続きです☆

『ディーグガマ』を見た後、次に向かったのは、浦添市の最高標高地点がある大きな岩☆

遠くから『浦添城跡』を望み、そこから尾根伝いにずーっと見て行くと、一ヶ所だけピョコっと凸になってる部分があります☆その部分が『ハナリジー』です( ̄▽ ̄)ノ☆
夕焼けに包まれる『ハナリジー』
『ディーグガマ』を出て、広場の奥の方の休憩所を兼ねてる展望台に向かって進んでくと、さらにその先に獣道みたいな通路?があります。

その通路の行き止まりのトコから『ハナリジー』を見ることができます☆
『ディーグガマ』の前にある広場と展望台♪
こちらの『通路』は、両側にロープが張られてるだけの簡易的な柵しかないので、慎重に歩いて行きます。

しばらく歩いて行くと、前方に『ハナリジー』の頂上部分が見えてきます♪
『ハナリジー』
この『ハナリジー』は、『ワカリジー(分かれ瀬)』とも『為朝岩(ためともいわ)』とも呼ばれてる岩です。

以前、ご紹介した『運天港』に、この為朝が漂着したとする伝説があることをお話したんですが、ここにも『為朝伝説』があるみたいですね(^艸^)

なんでも、2メートルを超す大男で弓の名手でもあった為朝が、このハナリジーの頂上から西に向かって矢を放つと、牧港に到達し、南に向かって矢を放つと、安里まで到達したとか。。。

それで、『為朝岩』って呼ばれるよぉになったんだそぉです☆
ホントかなぁ~(笑)
右側の先端が『知念半島』、その奥にうっすら見える離島が『久高島』です☆
この『為朝伝説』はいろいろ諸説あるみたいで、真相は定かぢゃないみたいですけど。。。
この『ハナリジー』が源為朝の社だったとゆー説とかもあるみたいで。。。

話を戻すと、この『ハナリジー』から太平洋を望むと、『斎場御獄』がある『知念半島』が見え、さらにその先には神の島と言われる『久高島』が望めます♪
『ハナリジー』の麓にある拝所
また『ハナリジー』には、大人1人がやっと通れるくらいの洞窟があるんですが、そこは先の沖縄戦の際、嘉谷隊の陣地壕だったみたいで、中はかなり広いみたいですね。
砲弾を受けた『ハナリジー』から崩れ落ちた岩が、その横に転がってます。

んで、ここから『ハナリジー』を撮影した後は、来た道を戻ったんですが、その途中右側に、下に降りれる小さな脇道を発見♪

降りてみると、ちょうど『安国寺浦添仲間霊園』とゆー墓団地の真後ろに出たんですが、そこで『前田高地平和之碑』とゆー慰霊碑を発見Σ( ̄□ ̄;
『前田高地平和之碑』
慰霊碑の隣にある『鎮魂』と書かれた石板より。

≪この前田高地は、去る沖縄戦で、日米両軍が、その争奪に市投を繰りひろげ、多数の貴い犠牲者をだした最大の激戦地である。

山三四七五部隊(歩兵第三二連隊)第二大隊は、昭和二○年四月二九日この地に進出し、全員傷つき斃れたが、なおこれを死守して、国軍の真価を遺憾なく発揮した。

関係各方面の絶大な御協力と第二大隊生存者の積年の悲願により、ここに碑を建立し、地下に眠る戦友の英霊を慰め、変わらない友情の確かな証となし、恒久の平和のゆるぎない礎にしたいと念ずるものである。
(昭和五四年三月一日 山三四七五部隊第二大隊戦友会)≫

そぉなんですよね。。。こちらも以前紹介した『嘉数高地の戦い』『西原の戦い』と共に激戦を繰りひろげた場所だったんですよ。。。
そぉそぉ!『ハナリジー』は、沖縄戦の際、米軍の艦砲射撃の目標にもなってたらしいですよ。

この『前田高地平和之碑』の後ろには、約900名もの亡くなられた方の名前が刻まれた石板があります。

「安らかにお眠りください」と手を合わせた後、再び城跡に戻りました☆
『浦添城の前の碑』『馬ヌイ石』
『ディーグガマ』の方には戻らず、その手前を下って行くと、『浦添城の前の碑』『馬ヌイ石』があります☆

説明板より☆
≪この石碑は、1957年に浦添グスクと首里を結ぶ道路を整備した時の竣工記念碑です。

石碑の表に平仮名の琉球文、裏に漢文で、尚寧王の命により国民が力をあわせて石を積んで橋を架け、岩を刻んで道路をつくったことが記されています。

碑首は、16世紀の琉球王国の象徴文様である日輪双鳳雲文(にちりんそうほううんもん)で飾られています。

石碑の前の大きな石は、『馬ヌイ石』と呼ばれ、馬にのるための踏み台といわれています。

もとの石碑がさる沖縄戦で台座もろとも破壊されたため、1999年に復元しました。
浦添市教育委員会≫

んで、ここを後にして、さらに下の方に行くと、今度は『カガンウカー』
『カガンウカー』
画像では、ちょっと小さく見えますネ。。。

『カー』とゆーと、『川』とか『湧水』とかを指すんですが、現在は残念ながら水は枯れてます。

ですが、昔はとても綺麗な、澄んだ水を湛えていたんだとか。。。

そして、こちらを後にし、いったん『浦添城の前の碑』の方に戻り、そこから下の遊歩道を城跡駐車場向けに進んでいくと、今度は『カラウカー』『石畳』があります。
左奥が『カラウカー』、右上にちょこっと見えてるのが『石畳』
こちらは井戸らしいのですが、ちょっと目立たなくて、「え?これ?」って感じでした(笑)
小さすぎて、いったん辺りを見渡しましたヨ(爆)

そして、奥の『石畳』の道は、以前紹介したことがある『当山の石畳』からこちらの『石畳』、そして『安波茶橋』へと続き、『中頭方西海道』に繋がってたみたいですね( ̄▽ ̄)ノ

また、ここら一帯には防空壕として使われた『ガマ』が多数存在します☆
『クチグヮーガマ』
遊歩道からすぐに見える『クチグヮーガマ』

洞穴の入り口が、人間が口を開いた形に似ていることからこの名が付いたと言われているそぉで、戦時中は、住民の避難壕として使用されてたんだそぉです。
草むら奥にあったガマ
この上のガマは、遊歩道から獣道に入り、奥まで行ったところにありました。

こちらのガマも、付近に説明書きは無かったんですが、たぶん避難壕だったんでしょうね。。。

入口にフェンスがされてて、中に入ることはできませんでしたが、結構広かったです。

このガマの上の方に、前回の記事に掲載した『伊波普猷の墓』があったと思います。

んで、また遊歩道に戻り、あとは駐車場にたどり着きます☆

いかがでしたでしょーか?

今回も、ちょっと長くなってしまいましたが、『浦添城跡』内の遺跡・史跡等は、大まかではありますが、ご紹介できたかと思います☆

『浦添よーどれ』の方は、またの機会にご紹介しましょーね☆

大変長くなりましたが、この辺で。。。でわでわ☆★☆

最後まで読んでくださって、ありがとうございますm(_ _)m
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☆『浦添城跡・浦添よーどれ』情報☆

☆場所:〒901-2103 沖縄県浦添市仲間2

☆問い合わせ:浦添市商工産業課≫098-876-1234

☆駐車場:有り

☆トイレ:無し

☆入場料無料

※国指定史跡・文化財