ハイサぁ~イ⭐
今回は、読谷村喜名から恩納村山田に跨る多幸山に纏わる歴史のお話です。
以前、たまたま発見したんですが、その時は仕事中だったため、ゆっくり見ることができなかったので、日を改めて、友人と一緒に行ってきました。
まず最初に向かったのは、沖縄県国頭郡恩納村真栄田と同村山田の境界に位置する
小さい頃、親と北部方面に向かう際、恩納村山田辺りの58号線を通過中に、「ずーっと昔、この辺は『おいはぎ山』って呼ばれてて、山賊が通行人から金品を奪ってた山なんだよ」って話を聞いたことがあったんですが、まさかその岩が保存されてるとはぜんぜん知りませんでした。。。
その『おいはぎ山』が、この『多幸山のフェーレー岩』だったんですねぇ~😮
※『フェーレー』とは、『盗賊』・『山賊』とユー意味です。
『多幸山』は、『真栄田岬』の南東側から海を背に見た時、北西にのびる険しい山並みがあり、その北端の一段と高くなった山の事なんだそぉです。
資料によると、琉球王朝時代に『国頭方西海道(くにがみほうせいかいどう)』を歩いている旅人を狙って、山賊(フェーレー)達がこの岩の上に潜み、長いひっかけ棒などで、岩の間を通る旅人の、頭に載せてる荷物をひったくったと言われる岩なんだそぉで、ヤンバルへ行く街道の一大難所として最も恐れられた場所だったそぉです❗
この『フェーレー岩』がある『国頭方西海道』は、沖縄県国頭郡恩納村にある街道跡で、琉球王朝時代、首都である首里と国内各地を結ぶ宿道(しゅくみち)の一つです。
『西海道』とは、首里の西原間切から浦添、北谷、読谷山、金武、名護、今帰仁、国頭の各間切りを通る道のこと。
んで、読谷山の喜名から恩納を経て、国頭方面に向かう道のことを『国頭方西海道』と呼んでいたそぉです。
『首里の西原間切から浦添~』とゆーことは、以前、ブログで紹介した『当山の石畳』の『普天間参詣道』や『今帰仁間切所』などとも繋がってたんでしょうね✋😊
この『フェーレー岩』を見学した後、次に向かったのは・・・
『フェーレー岩』からさらに『多幸山』の奥の方にある恩納村指定文化財の
また、『真栄田の一里塚』は、土と炭を混ぜ合わせた土塚で、その上に琉球松等が植栽されています🎵
この『一里塚』は、県内でも少なく、一理区間を示す2ヶ所の『一里塚』が残っているのは、この『真栄田の一里塚』と『仲泊の一里塚』のみで、沖縄の交通史を解明するための貴重な文化財なんですよ✨
んで、この2ヶ所を見学した後、来た道を戻っていると、遠くの方にう~っすら『伊江島』が見えました😮❗
この日は、結構天気も良かったので、パシャッと一枚💨
肉眼では、もぉ~ちょっと綺麗に見えてたんですよぉ~😅
んで、真栄田集落まで戻ると、『真栄田公民館』の敷地内に、『日露戦争、大東亜戦争(太平洋戦争)』の戦没者慰霊塔である
『大東亜戦争』とは、当時の日本側の『太平洋戦争』の呼び名だったみたいですね。
まぁ、戦争の期間が細分化されて、その期間内の呼び名があるみたいなんですが、大まかにはこの通りみたいです。
戦後は、『GHQ』によってこの『大東亜戦争』という呼称は(事実上)禁止され、政治的に『太平洋戦争』と置き換えられることになったそぉです。
ホントいろいろ複雑ですね・・・😓
・・・と、ここまで見学した後は、そのまま帰路に就きました💨
今回見学した『フェーレー岩』や『真栄田の一里塚』の他に、この『国頭方西海道』には、『仲泊の一里塚』を始め、まだ『史跡』がいろいろ点在しているみたいなので、いろいろ調べてから、また時間を作って足を運びたいと思います。
それでは、そろそろこの辺で。。。でわでわ☆★☆
☆『多幸山のフェーレー岩』・『真栄田の一里塚』・『真魂の塔』☆
今回は、読谷村喜名から恩納村山田に跨る多幸山に纏わる歴史のお話です。
以前、たまたま発見したんですが、その時は仕事中だったため、ゆっくり見ることができなかったので、日を改めて、友人と一緒に行ってきました。
まず最初に向かったのは、沖縄県国頭郡恩納村真栄田と同村山田の境界に位置する
『多幸山のフェーレー岩』☆
写真右側が『多幸山のフェーレー岩』 |
その『おいはぎ山』が、この『多幸山のフェーレー岩』だったんですねぇ~😮
※『フェーレー』とは、『盗賊』・『山賊』とユー意味です。
『多幸山』は、『真栄田岬』の南東側から海を背に見た時、北西にのびる険しい山並みがあり、その北端の一段と高くなった山の事なんだそぉです。
資料によると、琉球王朝時代に『国頭方西海道(くにがみほうせいかいどう)』を歩いている旅人を狙って、山賊(フェーレー)達がこの岩の上に潜み、長いひっかけ棒などで、岩の間を通る旅人の、頭に載せてる荷物をひったくったと言われる岩なんだそぉで、ヤンバルへ行く街道の一大難所として最も恐れられた場所だったそぉです❗
中頭方西海道の標識 |
『西海道』とは、首里の西原間切から浦添、北谷、読谷山、金武、名護、今帰仁、国頭の各間切りを通る道のこと。
んで、読谷山の喜名から恩納を経て、国頭方面に向かう道のことを『国頭方西海道』と呼んでいたそぉです。
『首里の西原間切から浦添~』とゆーことは、以前、ブログで紹介した『当山の石畳』の『普天間参詣道』や『今帰仁間切所』などとも繋がってたんでしょうね✋😊
この『フェーレー岩』を見学した後、次に向かったのは・・・
『フェーレー岩』からさらに『多幸山』の奥の方にある恩納村指定文化財の
『真栄田の一里塚』☆
この『一里塚』は、宿道に設置された、旅人の道程の目安とされた『土塚』で、宿道の両端に対で設置されていました⭐また、『真栄田の一里塚』は、土と炭を混ぜ合わせた土塚で、その上に琉球松等が植栽されています🎵
『真栄田の一里塚』 |
『真栄田の一里塚』の向かいにある解説と『国頭方西海道』の看板✨隣には対の『土塚』があります。 |
んで、この2ヶ所を見学した後、来た道を戻っていると、遠くの方にう~っすら『伊江島』が見えました😮❗
水平線上にうっすら『伊江島』があるのが分かりますかネ❓(笑) |
肉眼では、もぉ~ちょっと綺麗に見えてたんですよぉ~😅
んで、真栄田集落まで戻ると、『真栄田公民館』の敷地内に、『日露戦争、大東亜戦争(太平洋戦争)』の戦没者慰霊塔である
『真魂の塔』と『御嶽』がありました☆
左が『真魂の塔』、右が『御嶽』☆ |
まぁ、戦争の期間が細分化されて、その期間内の呼び名があるみたいなんですが、大まかにはこの通りみたいです。
戦後は、『GHQ』によってこの『大東亜戦争』という呼称は(事実上)禁止され、政治的に『太平洋戦争』と置き換えられることになったそぉです。
ホントいろいろ複雑ですね・・・😓
・・・と、ここまで見学した後は、そのまま帰路に就きました💨
今回見学した『フェーレー岩』や『真栄田の一里塚』の他に、この『国頭方西海道』には、『仲泊の一里塚』を始め、まだ『史跡』がいろいろ点在しているみたいなので、いろいろ調べてから、また時間を作って足を運びたいと思います。
それでは、そろそろこの辺で。。。でわでわ☆★☆
☆『多幸山のフェーレー岩』・『真栄田の一里塚』・『真魂の塔』☆
☆場所:〒904-0417
沖縄県国頭郡恩納村字真栄田(山田)
沖縄県国頭郡恩納村字真栄田(山田)
☆駐車場:無し(『真魂の塔』は有り)
☆トイレ:無し
☆入場料:無料
※訪れる際は、くれぐれもマナーを守って、他の来訪者や地元の方々に迷惑をかけないよう、十分気を付けてくださいね。
☆入場料:無料
※訪れる際は、くれぐれもマナーを守って、他の来訪者や地元の方々に迷惑をかけないよう、十分気を付けてくださいね。