聞得大君が御新下りの際の最初の休息地となった所と休憩の御用水を献じた拝所☆|沖縄放浪日記

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2017年8月8日火曜日

聞得大君が御新下りの際の最初の休息地となった所と休憩の御用水を献じた拝所☆

ハイサぁ~イ⭐

先週金曜日(4日)は、午後から与那原町と南城市にある史跡へ行ってきました。

まず最初に向かったのは与那原町内にある『東御廻り』で巡拝される"拝所"のうちの2ヵ所。

2ヵ所のうち、先に向かったのは『与那原町コミュニティーセンター』の裏にある拝所です。

沖縄県島尻郡与那原町与那原にある
『御殿山と与那原親川』
御殿山の写真
『与那原町コミュニティーセンター』裏手にある『御殿山』
『御殿山』は、与那原町の国道329号線331号線がぶつかる『与那原』の交差点から、国道329号線西原町向けに約260mほど進むと、国道沿い右側に『与那原町コミュニティーセンター』があり、その裏手の川沿いにあります。
与那原町コミュニティーセンターの写真
国道329号線沿いにある『与那原町コミュニティーセンター』
コミュニティーセンターの駐車場にクルマを停めさせてもらい、さっそく見学へと向かいました。

『御殿山』へ向かう前に、コミュニティーセンターの正面出入口の前にちょこっと寄り道(笑)
中島区の石獅子の写真
中島区の石獅子(西)
コミュニティーセンター正面出入口前には、『中島区の石獅子』が設置されています。

コミュニティーセンターの周辺一帯は、『中島区』と称されているようで、区内には、この『中島区の石獅子(西)』と、もう一体『中島区の石獅子(東)が設置されているんだそうです。
今回は『中島区の石獅子(東)』には、時間の都合上立ち寄りませんでした。

現在は、こちらに設置されていますが、以前は別の場所にあったんだそうです。

『中島区の石獅子』は、東と西、両方とも由来や設置された年代は不明なんだそうです。

『中島区の石獅子(西)』にご挨拶を済ませてから(笑)、『御殿山』へと向かいました。
御殿山の写真
『与那原町コミュニティーセンター』の裏の川沿いにある『御殿山』
『御殿山』の前には、与那原町教育委員会の説明板が設置されていたので、そちらを引用させて頂きます。
※『御殿山』は与那原町の文化財に指定されています。
御殿山の写真
与那原町教育委員会が設置した『御殿山』の説明板
≪御殿山≫
≪名前の由来は、山原から首里の御殿に納める木材の置場に指定されたことによる。

オモロでは「よなははま きこゑ 大きみ やちよ かけて と よまさに 又 あきりくち と よむ大きみ やちよ」とうたわれている。
御殿山の写真
正面から見た『御殿山』
「球陽・遺老説伝」に「漂流の大君加那志」として由来がのっており、戦前は立派なお宮があり、尚家の人々が年一度お参りしていたといわれる。
御殿山の写真
『御殿山』を示す標柱は、裏側に設置されており、表記も反対に記されていました。
聞得大君(きこえおおきみ)の御新下り(うあらうり)の際には最初の休息地となり御仮屋が設けられた場所である。

現在も町の行事や東御廻(アガリウマーイ)のコースにもなっている。
与那原町教育委員会≫
・・・とありました。
※『東御廻り』とは、『東世御廻り(アガリユウマーイ)』とも称され、東方聖域空間を巡拝することです。⇒≪YONABARU NAVI『東御廻り』

また、『沖縄の聖地 拝所と御嶽』という書籍によると、『琉球国由来記』には『御殿山』は『浜の御殿』と記されているらしく、神名は『アマオレツカサ』となっており、天女が天降りした場所と記されているんだそうですよ。
御殿山の写真
祠に向かって左側には2機の香炉が置かれていました。
また、地元の古老の言い伝えによると、天女が身ごもった子供は死産であったとする説と、子供は無事に生まれたが、御側御用人によって海に流されてしまい、ミズスルル(タジク)・タイワンダイ(マジク)となって浜に寄ってくるようになったとする説の2つがあるんだそうです。
御殿山の写真
祠の右側には3基の香炉が置かれていました。
先程の与那原町教育委員会の説明には、≪尚家の人々が年一度お参りしていたといわれる≫とありましたが、その他の士族や百姓などの門中は、こちらは拝まないとのことです。

かつての『御殿山』は、もともとは別の場所にあったそうなんですが、『御殿山青少年広場』の建設に伴い、現在の場所に移築したんだそうです。

戦前までは木々が生い茂る小高い丘で、立派なお宮があったそうなんですが、沖縄戦で消失してしまったとのことです。(参考:『沖縄の聖地 拝所と御嶽』)
町立綱曳資料館の写真
与那原町立『綱曳資料館』
『御殿山』を見学した後は、『御殿山』の横を流れる水路に架けられた『世持橋』を渡り、与那原町立『綱曳資料館』へと向かいました。

『東御廻り(アガリウマーイ)』で巡拝するもう1ヵ所の拝所が、この『綱曳資料館』の敷地内にあるんですよ。
町立綱曳資料館の写真
『綱曳資料館』の入口
ワタクシはこの日、徒歩で向かいましたが、クルマでこちらに向かう場合は、先程の『与那原』の交差点から、国道331号線南城市向けに進み、約250mほどの距離にある2つめの信号を左折、そして左側にある二つ目の脇道へ左折し、約90mほど進むと、右側にあります。
与那原親川の写真
与那原親川(よなばるうぇーがー)
こちらは、『与那原親川(よなばるうぇーがー)』と称される拝所で、『御殿山』と同様に与那原町の文化財に指定されています。

こちらにも与那原町教育委員会の説明板が設置されていたので、そちらを引用させて頂きます。

≪与那原親川(よなばるうぇーがー)
≪天地開闢の昔、御殿山に天降りした天女が、その御子の出産にあたり、産場を召したとの神話に発し、琉球王朝時代には国王の久高参詣(旧八月の神拝)の東廻や聞得大君の御新下りの際、「お水撫で(ウビィナビィ)」の儀式を行うなど、首里出発後、最初の拝所として、休憩の御用水を献じた所と伝えられている。
与那原親川の写真
『与那原親川』の説明板
「琉球国由来記」によると「聞得大君の御新下り」の際の与那原の儀礼は親川の「お水撫で」が主役であることがわかる。

「お水撫で」とは親川から汲んだ(お水ーウビー)を盛った器に中指を浸し、額を撫でる呪法で「孵で水=スディミジ(脱皮・再生の聖水の儀)」の儀式である。

すなわち、天女やその子が浴びた親川で儀礼的に聖なる水を浴びることによって、天女の霊力を獲得(御新下り)する儀礼としての意味があった。
与那原親川の写真
祠は、表の道路と反対側を向いていますが、標柱は道路側に向けて立てられています。
琉歌にも「与那原の親川にあまくらがいちゃうんあまくらやあらん思姉おすじ」と歌われた。

澄みきって、冷たい水がこんこんと湧きでるこの石泉は人々の崇拝をあつめた霊所である。
与那原町教育委員会≫
・・・とありました。

また、祠の側面にも『与那原親川』の説明が記された石板が設置されていたんですが、その説明によると、与那原発祥の頃に、与那原の人々の祖先が、上の毛から隆起沖積しつつある海岸に降り立ち、この『与那原親川』を中心に村立をはじめ、ここから湧き出る水を利用して広い水田を開いたんだそうです。
与那原親川の写真
祠の側面に設置されていた『与那原親川』の説明板
町の発展と人々の健康を祈願する場所であるため、与那原町の大行事である『与那原大綱曳』も、ここから出発して、ここで終結するんだそうですよ。

『与那原親川』の祠の横には、『与那原親川』を詠んだ歌碑が建立されています。
与那原親川の写真
『与那原親川』の歌碑
歌碑の右側には、『与那原節』と題されており、≪与那原の親川 あまくらかゐちやうん なまくらやあらぬ 思姉おすし≫と記されていました。

そして左側には、歌人の飯田秀真氏の作品である"短歌"が記されており、≪沖縄の与那原道の古泉 水清かりき今もあらむか≫と書かれているんだそうです。
与那原親川の写真
正面から見た『与那原親川』
・・・と、ここまで見学させて頂いた後は、そのままクルマへと戻り、次の目的地へと向かいました。

『御殿山』・『与那原親川』の2ヵ所に設置されていた説明板には、与那原町内に点在する史跡が記されていたので、また、機会を設けて、そちらの方にも足を運んでみたいですね。

それでは、そろそろこの辺で。。。でわでわ☆★☆

最後まで読んで下さいまして、誠にありがとうございますm(_ _)m
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『中島区の石獅子(西)』・『御殿山』・『与那原親川』

☆場所:〒901-1303
      沖縄県島尻郡与那原町与那原

☆見 学:無料

☆駐車場:無し