沖縄県庁最後の地と言われる避難壕として利用された糸満市伊敷の壕☆|沖縄放浪日記

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2017年7月19日水曜日

沖縄県庁最後の地と言われる避難壕として利用された糸満市伊敷の壕☆

ハイサぁ~イ⭐

前々回にご紹介した糸満市大里にある『沖縄兵站慰霊之碑』を後にし、次に向かったのは同市山城の『平和創造之森公園』内にある"ガマ"だったんですが、現在、こちらは見学や入壕には事前に連絡して許可が必要とのこと。。。

以前は自由に見学することが出来ていたようなんですけど、現在は、管理事務所に連絡しないと見学出来なくなってしまったようなんです。。。

・・・なので、今回は断念してまた改めて訪れることにし、この日最後の目的地である糸満市伊敷にある"ガマ"へ向かいました。

沖縄県糸満市伊敷にある

『轟壕(トゥドゥルチガマ)

轟壕(カーブヤーガマ)の写真
入口の前から見た『轟壕』。木々が生い茂ってこの場所からだと全体が見渡せなかったですね。
こちらは、糸満市の国道331号線県道7号線がぶつかる『米須』の交差点から、国道331号線を同市伊敷向けに進み、約3.6㎞ほどの距離にある交差点の左側の角にあります。

案内板や標柱などが設置されていないため、ちょっと分かりづらいんですが、交差点角から丘の上へと伸びる真新しい階段があるので、そちらが入口となっています。
轟壕(カーブヤーガマ)の写真
国道331号線(名城バイパス)から少し入った場所にある『轟壕』の入口。
また、専用駐車場もないので、この日は、近くの路肩にあまり邪魔にならないように駐車させて頂きました。

クルマを停め、すぐさま見学へと向かいました。

道路から丘の上へと伸びる階段を上がっていくと・・・
轟壕(カーブヤーガマ)の写真
壕の出入口へと続く小道
階段の頂上から奥の方へと未舗装の小道が伸びています。

その小道をちょこっとあるいていくと、小さな広場に辿り着きます。
小道の先にある小さな広場。
『轟壕』は、この広場の左側に位置しているんですが、ここからは内部の様子が全くと言っていいほど分かりません。。。
轟壕(カーブヤーガマ)の写真
広場から見た『轟壕』の出入口。
壕の出入口から下の方へと細い階段が伸びており、その先は少し薄暗くなっています。。。
轟壕(カーブヤーガマ)の写真
出入口から下の様子を伺ったところ。下の方は薄暗くなっています。
階段は細い上に、急勾配となっているので、下りていく際には注意が必要です。
轟壕(カーブヤーガマ)の写真
階段途中から下の方を見たところ。
ゆっくり階段を下りていくと、だんだん目が慣れてきて、下の様子が分かってくるんですが、かなり急勾配で、しかも結構深いです。

最下部の手前左側に踊り場的な場所があるんですが、そちらにも洞穴があり、その手前には3基の拝所が設けられていました。
轟壕(カーブヤーガマ)の写真
階段中腹付近にあった洞穴と3基の拝所。
この3基の拝所は、こちらで亡くなられた方々を慰霊するためのものだと思われます。

向って右側と中央に設けられた拝所は、詳細は不明ですが、左側の拝所の横には小さな石碑が建立されており『母しん あまんちゅうだ とぅるるち』と記されていました。
轟壕(カーブヤーガマ)の写真
向って右側の拝所
轟壕(カーブヤーガマ)の写真
中央に設けられた拝所
轟壕(カーブヤーガマ)の写真
左側に設けられた『母しん あまんちゅうだ とぅるるち』と記された石碑がある拝所
『母しん』・『あまんちゅうだ』は不明ですが、『とぅるるち』は『轟』の意だと思われます。

『轟壕』は、『トゥドゥルチガマ』や『トルルシガマ』、『トロドンガマ』、『トドロンガマ』などと呼ばれ、地元では『カーブヤーガマ』とも呼ばれているんだそうです。

そして、3基の拝所の後方にある洞穴は、戦時中は『上の壕』と呼ばれていた横穴で、避難してきた住民約50~60名ほどと、海軍部隊に所属していた数名の兵が身を隠していたとのことです。
轟壕(カーブヤーガマ)の写真
3基の拝所後方にある『上の壕』と呼ばれる横穴。
数十名が身を隠すにはとても狭いように思えましたが、避難民が出た後で、アメリカ軍によって爆破されたらしく、当時はもっと広かったのかもしれませんね。。。

この3基の拝所がある場所から、階段はさらに下の方へと続いています。
轟壕(カーブヤーガマ)の写真
3基の拝所がある場所から下の方を見たところ。
階段の最下部には小さな洞穴が見えるんですが、この洞穴の先には大きな洞窟があるんだそうです。
※今回も、入壕は遠慮させて頂きました。

また、洞穴の手前左側にも慰霊のための拝所が設けられていましたね。。。
轟壕(カーブヤーガマ)の写真
階段の先にあった小さな洞穴。内部にも慰霊のための拝所があるんだそうです。
沖縄戦の際には、先程の『上の壕』に対して、こちらは『下の壕』と呼ばれていた洞窟なんだそうです。

沖縄戦末期には、約500~600名(千数百名とも)の避難民と県庁職員、そして数十名の軍人が立てこもっていたんだそうです。

沖縄県高教組教育資料センター『ガマ』編集委員会が編纂した『沖縄の戦跡ブック ガマ』によると、沖縄戦前には、この『轟壕』は真壁村名城(現糸満市)住民の避難壕として整備してあったんだそうです。

そして沖縄戦が始まった3月23日以降に壕に避難してきたそうなんですが、後に日本軍に追い出されてしまったとのことです。。。
轟壕(カーブヤーガマ)の写真
3基の拝所の前からドリーネ(窪地)部分の中央付近を見たところ。
日本軍が、首里にあった司令部を摩文仁に移した頃からは、他の地区の避難民も入ってきたんだそうで、6月4日頃には、島田知事一行と県庁職員らが入ってきたんだとか。。。

そして3日後の6月7日には、「後方指導挺身隊」や「警察部警備中隊」などを解散し、県庁業務を停止させたんだそうですよ。

島田知事が、この『轟壕』で県庁業務を停止させたことから、「沖縄県庁最後の地」と言われているんだそうです。
轟壕(カーブヤーガマ)の写真
頭上を見上げると円形になっているのがよくわかります。
その後、島田知事一行らは6月16日には、摩文仁の司令部と合流するために壕を出たそうなんですが、島田知事らが出た後、大塚曹長ら15~16名の日本兵が壕に入ってきて、住民や官民らを奥の湿地帯へ追いやって監視をはじめ、食料強奪や幼児虐殺などを行ったんだそうです。。。
轟壕(カーブヤーガマ)の写真
ドリーネ部分の側面にあった壕の入り口の跡。以前はこちらも開いていたみたいですが、ワタクシが
訪れた時は、土砂で塞がれていました。
6月16日~18日には、アメリカ軍の「馬乗り攻撃」に合い、壕内では避難民の中から餓死者が続出しだしたんだそうです。

それから約1週間後の6月25日には、壕内を流れる水路の上流へ向かい、アメリカ軍の捕虜となった避難民らが、投降を呼びかけに戻ってきたとのこと。。。

そして、3度目の呼びかけでようやく応じた住民は、壕を出たんだそうです。
轟壕(カーブヤーガマ)の写真
階段がある場所の反対側にある窪み。こちらも岩が崩れたような感じでしたね。。。
壕のドリーネ部分はとても広いんですが、中央付近には現在草木が繁茂しており、そこを回り込むように奥へ進むことが出来ます。

その途中に、壕の入口らしき窪地があったんですが、以前はもう少し開いていたようです。

しかし、ワタクシが訪れた時は、土砂で塞がれた状態になっていました。
轟壕(カーブヤーガマ)の写真
ドリーネ部分の中央付近。
轟壕(カーブヤーガマ)の写真
木々が繁茂して空がほとんど見えなくなっていました。
また、奥の方にも壕の入口のような窪んだ場所があったんですが、あちらは洞窟にはなっていないんだそうです。
轟壕(カーブヤーガマ)の写真
ドリーネの奥から階段側を見たところ。
・・・と、ここまで見学させて頂いた後は、そのまま壕を出てクルマへと戻り、この場を後にしました。

糸満市内には、今回ご紹介したような"ガマ(壕跡)"や"慰霊塔"などがまだまだあちらこちらに点在しているので、また機会を設けて少しずつ足を運びたいと思います。
轟壕(カーブヤーガマ)の写真
木々の合間から木漏れ日が差し込んでいました。
それでは、今回はこの辺で。。。でわでわ☆★☆

最後まで読んで下さいまして、誠にありがとうございますm(_ _)m
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『轟壕(トゥドゥルチガマ)

☆場所:〒901-0363
      沖縄県糸満市伊敷

☆見 学:無料

☆駐車場:なし