南城市玉城にある第一尚氏王統第六代尚泰久王の墓と尚布里王子の墓☆|沖縄放浪日記

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2017年6月13日火曜日

南城市玉城にある第一尚氏王統第六代尚泰久王の墓と尚布里王子の墓☆

ハイサぁ~イ⭐

この前、前々回にご紹介した南城市佐敷新里にある『場天御嶽(イビの森)』を見学した後、次に向かったのは、同市玉城富里。。。

こちらには、第一尚氏王統・第六代国王が葬られている陵墓があるんだそうで、その隣には国王の長男が葬られている御墓もあるんだとか。。。

沖縄県南城市玉城富里にある

『尚泰久王・安次富加那巴志の墓』

尚泰久王之墓の写真
国道331号線沿いにある巨岩の根元にある『尚泰久王之墓』
こちらは、南城市玉城富里の国道331号線県道48号線がぶつかる交差点から、国道331号線を同市玉城に属する『奥武島』向けに約160mほど進んでいくと、国道沿い右側にあります。
尚泰久王之墓の写真
国道上から見た『尚泰久王之墓』がある巨岩
こちらに到着したのは、午後4時を回ったくらい。。。

国道沿いにある駐車場らしきスペースにクルマを停め、さっそく見学へと向かいました。
尚泰久王之墓の写真
巨岩の根元へ延びる階段
クルマを停めた場所からは、巨岩の麓へと延びる階段が設けられており、そこを上がっていくと、すぐ目の前に3基の陵墓が現われます。
尚泰久王之墓の写真
巨岩の根元にある3基の陵墓。中央にある御墓が『尚泰久王之墓』です。
また、3基の御墓がある場所から左側へ伸びる参道があり、その途中に説明板が設置されていました。

その説明を読んでみると・・・
尚泰久王之墓の写真
御墓のある場所から北向けに伸びる参道
≪尚泰久王・安次富加那巴志の墓≫
≪尚泰久王(1415~1460。第一尚氏王統6代の王。在位7年)は尚巴志王の七男で、即位する前は越来(ごえく)王子と称しました。

その治世中に阿麻和利と護佐丸の乱(1458年)が起きたほか、多くの造寺、造鐘(万国津梁の鐘など)がなされ、また琉球最初の貨幣の「大世通宝」も鋳造されています。
尚泰久王之墓の写真
参道沿いに設置されていた説明板
尚泰久の最初の墓は、首里の天山陵に葬られていましたが、第二尚氏の成立により、ここから読谷山間切伊良皆に移されたといいます。

尚泰久王の骨だけは、ここから美里間切伊波村にかくして、誰にも知られないように安置されていました。
尚泰久王之墓の写真
説明と一緒に掲示されていた【第一尚氏世系図】
明治41(1910)年頃、字當山の屋良腹門中の子孫が骨の入った大きな石棺を伊波村から二日がかりで運び、現在の神座原(ウフギシモー)にあった尚泰久王の長男である安次富加那巴志の墓の隣に移葬しました。
南城市教育委員会 平成29年1月設置≫
・・・とありました。

説明の冒頭に尚泰久王は尚巴志王の七男』とありましたが、系図をみると『八男』になっていますね。

ネットで調べてみると、『尚金福王』が五男、『尚布里』が六男、『尚泰久王』が七男になっている情報が多かったんですが、どちらが正確な情報なのかは分かりませんでした。。。

また、『美里間切伊波村』とは、現在の『うるま市石川』にあたるみたいですね。
尚泰久王之墓の写真
参道から陵墓のある場所を見たところ。
説明を読み終え、再度、陵墓を見学に向かいます。

3基の御墓に向かって一番右側にある御墓が、『尚泰久王』の長男『安次富加那巴志之墓』です。
尚泰久王の長男 安次富加那巴志之墓の写真
尚泰久王 長男 安次富加那巴志之墓
墓口には1基の香炉が置かれていたんですが、右側にも線香を炊く場所が設けられており、左側には、先程の説明にもあった『屋良腹門中』の納骨に関する石碑が設置されていました。
安次富加那巴志之墓(尚泰久王之墓)の写真
『安次富加那巴志之墓』に設置されていた屋良腹門中の石碑
そして、『安次富加那巴志之墓』の左隣に『尚泰久王之墓』があります。
尚泰久王之墓の写真
第一尚氏王統 六代 尚泰久王之墓
説明によると、『尚泰久王之墓』は当初、『読谷山間切伊良皆』に移されたとありましたが、もしかすると、以前ご紹介した『尚巴志王之墓』がある読谷村伊良皆のサシチムイ(佐敷森)にあったのかもしれませんね。
※あくまでワタクシ個人の憶測ですので、もし違っていたらすいません。。。

そして、『尚泰久王之墓』の左隣にも御墓があるんですが、こちらには墓標が設置されていませんでした。
尚泰久王之墓の写真
『尚泰久王之墓』の左隣にあった御墓
そして、こちらの3基の御墓と、先程の説明板の間の奥にも土砂と巨岩に挟まれるような形で古墓がありました。
尚泰久王之墓の写真
巨岩と土砂に挟まれるような形で古墓がありました。
こちらの古墓についても、いろいろ調べてはみたんですが、何も分かりませんでした。。。(泣)

『尚泰久王之墓』などを見学した後、参道の先へ行ってみることにしました。

すると・・・
尚泰久王之墓の写真
巨岩の北側にあった『尚泰久王之墓』の参道入口
第一尚氏王統 第六代 尚泰久王陵墓の写真
参道沿いに立てられていた『第一尚氏王統 第六代 尚泰久王陵墓』の標柱
参道入口横に『第一尚氏王統 第六代 尚泰久王陵墓』と刻まれた石柱が立てられていました。

陵墓とは反対向きに立てらていたので、もしかすると、こちら側が"正門"となっているんでしょうね。

この参道入口から少し東側へ向かうと、巨岩の手前にとても立派な門中墓がありました。
屋良門中墓(尚泰久王之墓)の写真
屋良門中墓
定期的に清掃が行われているようで、とても綺麗な状態が保たれていましたね。

こちらの『屋良門中墓』を通過して東側へ向かうと、国道へ出るんですが、その手前右側に『嶺井家按司添墓』と刻まれた墓標の御墓がありました。
嶺井家按司添墓(尚泰久王之墓)の写真
嶺井家按司添墓
『嶺井家按司添墓』についても少し調べてみたんですが、何も出てきませんでした。。。

しかし、"按司"と記されているので、もしかすると、かつての権力のある"豪族"だったのかもしれませんね。
※あくまでワタクシ個人の憶測ですので、定かではないのであしからず。。。

・・・と、こちらまで見学させて頂いた後、クルマへと戻り、今度は『尚泰久王之墓』の北側を走る県道48号線へと向かいました。

南城市玉城當山の県道48号線沿いには、第一王統・第二代国王『尚巴志』の六男である『尚布里王子の墓』があるんです。
尚布里王子 並 うなざら之墓の写真
県道48号線上から見た『尚布里王子 並 うなざら之墓』
『尚布里王子』は、うるま市宮里にある『江洲グスク』に居城していたそうなんですが、兄の第一尚氏王統・第五代国王『尚金福王』が亡くなった後、自身が王位を継承すると思っていたら、『尚金福王』の世子である『尚志魯』が即位することになったんだそうです。

その事を知った『尚布里王子』は兵を引き連れ首里へ赴き、甥の『尚志魯』と対立したんだそうです。

この対立が『志魯・布里の乱』と言われているんですが、この戦いによって両者とも共倒れになってしまったんだそうです。
尚布里王子 並 うなざら之墓の写真
『尚布里王子 並 うなざら之墓』
琉球王国最初の正史『中山世艦』や1743年~1745年にかけて正史として編纂された歴史書『球陽』には、両社ともこの戦いで死亡したと記されているようですが、実は『尚布里王子』は生きて城外へ逃げ延びたんだそうです。

逃げ延びた『尚布里王子』は、越来、富名腰、伊平屋、志堅原という地を転々としていたらしく、子孫の上江洲門中の位牌の底には、それらの地名が記されているらしく、この事が逃走経路にあたるのでは・・・と伝えられているんだそうですよ。
尚布里王子 並 うなざら之墓の写真
御墓の前に立てられた墓標
また、墓標には『うなざら』とも記されているんですが、これについては詳細が分かっていないようですね。。。

この『尚布里王子 並 うなざら之墓』の後方にある岩の裏側にも1基の古墓があります。
布里子之墓の写真
布里子之墓
墓標には『布里子之墓』と記されていたんですが、この人物は、どうやら『尚布里王子』の次男のようです。

そして、ここを訪れた時には気付かなかったんですが、この『布里子之墓』の近くには、『尚布里王子』の妻だったのではないかとされる『真佳度金(まかとがに)』の墓と言われる古墓があるんだそうです。
※『真佳度金』が、『尚布里王子』の妻であったかは、諸説あるようで、定かではないようです。

・・・と、こちらまで見学させて頂いた後、次の目的地へと向かいました。。。

今回も少し長くなってしまいましたが、そろそろこの辺で。。。でわでわ☆★☆

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『尚泰久王・安次富加那巴志の墓
☆『尚布里王子 並 うなざら之墓』☆


☆場所:〒901-1400
      沖縄県南城市玉城富里 (尚泰久王・安次富加那巴志の墓)

    〒901-1400
      沖縄県南城市玉城當山 (尚布里王子 並 うなざら之墓)
      ※県道48号線沿い

☆見 学:無料

☆お問合せ:098-946-8990(南城市役所/大里庁舎文化課)

☆駐車場:あり
※『尚布里王子 並 うなざら之墓』は駐車スペース無し

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