真壁区の住民達が遺骨収集を行い集落北側に建立した慰霊塔☆|沖縄放浪日記

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2017年5月13日土曜日

真壁区の住民達が遺骨収集を行い集落北側に建立した慰霊塔☆

ハイサぁ~イ⭐

この前糸満市真壁にある『真壁グスク(真壁公園)』を出て帰ろうとした際、公園前から真壁集落へと続く小道の先に木々が生い茂る場所を見つけたんですよ。

その木々の中に、いくつかの石碑が建立されているのが見えたので、そちらにも行ってみることにしました。

沖縄県糸満市真壁にある

『萬華之塔(まんげのとう)

萬華之塔の写真
真壁集落の北側にある木々に囲まれた場所にひっそりと佇む『萬華之塔』
こちらは、前々回にご紹介した『真壁グスク(真壁公園)』の入口から南に約240mほど進んでいくと、道路沿い左側にあります。
萬華之塔の写真
『真壁公園』の広場前から見た『萬華之塔』が建立されている場所(写真中央付近)
萬華之塔の写真
『萬華之塔』入口
その場所の入口まで行くと、入口に『萬華之塔』と記された石碑が立てられており、その後方には十数基の慰霊塔が、広場を囲うように建立されていました。
萬華之塔の写真
入口を入ったところ。正面奥に『萬華之塔』が建立されていました。
萬華之塔の写真
『萬華之塔』に向かって右側を見たところ。
まずは『萬華之塔』に向かって右側に建立されている二基の慰霊塔を見学することに。。。

入口側に建立されている石碑には、『珊瑚礁を朱にそめて』と題され、『臨時海軍砲大隊長 陸軍砲兵少佐 仁位顯』と記されており、続けて碑文が記されていました。
萬華之塔(「珊瑚礁を朱にそめて」と題された石碑)の写真
『珊瑚礁を朱にそめて』と題された石碑
萬華之塔(「珊瑚礁を朱にそめて」と題された石碑)の写真
碑文には、『陸軍砲兵少佐 仁位顯』という人物の沖縄戦においての業績が記されていました。
その碑文には、『陸軍砲兵少佐 仁位顯』という人物の沖縄戦での業績が記されていました。

どうやら沖縄戦を生き抜き、後に護国神社で慰霊につとめたようです。

そして、この石碑の左隣には『沖縄連隊区司令部戦没職員 慰霊碑』が建立されていました。
萬華之塔(沖縄連隊区司令部戦没職員 慰霊碑)の写真
『沖縄連隊区司令部戦没職員 慰霊碑』
こちらには碑文が見当たりませんでしたが、台座部分に『沖縄連隊区司令官 陸軍少将井口駿三閣下 祭霊外88柱』と記されていました。

この二基の石碑の広場を挟んで向かい側には、3基の慰霊碑が建立されています。
萬華之塔の写真
入口を入って右側に建立されていた三基の慰霊碑
向かって左側の石碑には、『山三四八〇部隊戦没者氏名』が記されていたんですが、表側だけでなく、裏側にも多くの戦没者の氏名が記されておりました。
萬華之塔(山三四八〇部隊戦没者氏名碑)の写真
『山三四八〇部隊戦没者氏名』
そして中央には大きな文字で『鎮魂』と記された慰霊碑が建立されており、その下部には『山3480部隊(野砲兵第42聠隊) 終焉之地』とありました。

また、裏側に碑文が記されていたので、こちらは、その碑文を引用させて頂きます。
萬華之塔(鎮魂 山3480部隊(野砲兵第42聠隊) 終焉之地碑)の写真
『鎮魂 山3480部隊(野砲兵第42聠隊) 終焉之地』碑
≪鎮魂 山3480部隊(野砲兵第42聯隊) 終焉之地碑 碑文≫
≪山三四八〇部隊(野砲兵第四十二聠隊)は昭和十四年秋関東軍に新設の第二十四師団の特科聠隊聠隊として創設され東部ソ満国境近い東安省西東安に駐屯していたが、同十九年七月動員下令により出動し、南西諸島防衛のため沖縄本島の守備に当っていた。

翌二十年三月末より本当に侵攻した連合軍を迎えて、想像を絶するほど激しい弾雨の中で、第一線友軍の支援射撃に、あるいは対戦車攻撃に威力を発揮し再三その進撃を阻止するなど、砲兵の本領そのままに敢闘したのである。

やがて戦況の悪化に伴い、軍命令により島尻南部に後退した部隊は、ここ真壁を中心に陣地を展開してさらに奮戦するも、しだいに弾薬は途絶え死傷者は続出し各隊ごと最後の出撃を決行したがその殆どは、この地一帯で散華した。
萬華之塔(鎮魂 山3480部隊)終焉之地碑の写真
『山3480部隊』の鎮魂碑裏面に記された碑文
また、輓馬部隊だけに在満時代からの数多くの軍馬も共に戦野を駆けたが、日を追って斃れる数を増し、戦火の消えたときついに一頭の姿もみることはなかった。

沖縄決戦における我が部隊の戦没者は、聠隊長西沢勇雄大佐以下二千百十余名を数えるが、部隊に配属された防衛隊員はじめ炊事や看護などに献身的に尽くされ、最後は部隊と運命を共にした人や、戦火の犠牲となった多くの住民のいたことを忘れることはできない。

これらのことが、祖国に今日の平和と繁栄をもたらすための礎石となったことを明らかにし、とこしえに御霊安かれと念じつつ、我が部隊終焉の地にこの碑を建立する。
昭和六十二年三月 野砲兵第四十二聠隊戦友会 同 戦没者遺族有志≫
・・・とありました。

碑文にあったように、人間だけではなく、多くの馬たちも犠牲となったことから、『山3480部隊』の『鎮魂碑』の右隣には『馬魂碑』が建立されていました。
萬華之塔(馬魂碑)の写真
馬魂碑
『馬魂碑』には、『愛馬よ安らかに眠れ』と記されていましたね。。。

この『山三四八〇部隊戦没者氏名』碑・『鎮魂』碑・『馬魂碑』が建立されている場所のすぐ右隣りには、『顕彰碑』が建立されていました。
※石碑にある『顕彰碑』の文字の"彰"の部分は、"頌"とされているかもしれません。
萬華之塔(顕彰碑)の写真
顕彰碑
萬華之塔(故陸軍軍曹 滝沢不二夫命碑)の写真
顕彰碑の右隣には『故陸軍軍曹 滝沢不二夫命』と記された墓標がありました。
こちらの石碑にも『野戦重砲兵第一聠隊山吹会・有志一同』の碑文が記されており、その下部には戦没将兵出身地が記されていました。

そして、『萬華之塔』のある広場の奥には『砲兵山吹之塔』『萬華之塔』をはじめ、『独立重砲兵第百大隊(球一八八〇四部隊) 鎮魂碑』『山三四七四部隊(元満州第八八部隊) 慰霊之碑』、そして戦没者個々人の墓標や慰霊碑が建立されていました。
萬華之塔の写真
『萬華之塔』を中心に建立されている多くの慰霊碑や墓標
萬華之塔(砲兵山吹之塔)の写真
砲兵山吹之塔
広場奥に向かって左側には『砲兵山吹之塔』が建立されているんですが、塔には『御題 忠霊』と題された明治天皇の御製(天皇が詠んだ和歌)が記されていました。

この塔は、1966年6月に建立され、739柱が祀られているんだそうですよ。
萬華之塔(「諸霊よ安らかに」と記された慰霊碑)の写真
『砲兵山吹之塔』の後方にあった『諸霊よ安らかに』と記された慰霊碑
また、『砲兵山吹之塔』の左後方にも『諸霊よ安らかに』と記された小さな慰霊碑が、岩の上に建立されていましたね。。。
萬華之塔の写真
萬華之塔
そして『砲兵山吹之塔』の右隣には『萬華之塔』が建立されています。

"塔"となっているんですが、この"塔"自体が納骨堂となっているようです。

糸満市の公式HP内にある『萬華之塔』のページによると、沖縄戦後に真壁地区の人々が共同で遺骨収集の作業を行い、1951年に納骨堂を建立し、収集した遺骨を安置したんだそうです。
萬華之塔の写真
『萬華之塔』の寄付者の氏名が記された石板。
また、塔の手前には寄付者の氏名が記された石板が設置されており、その右隣には、後に設置したであろう『諸霊よ安らかに』と題された碑文らしき石板が設置されていました。
萬華之塔(独立重砲兵第百大隊(球一八八〇四部隊) 鎮魂碑)の写真
独立重砲兵第百大隊(球一八八〇四部隊) 鎮魂碑
萬華之塔(慰霊碑・墓標)の写真
『萬華之塔』の右側、『独立重砲兵第百大隊 鎮魂碑』の後方にあった十数基の慰霊碑。
そして、『萬華之塔』に向かって右側には『独立重砲兵第百大隊(球一八八〇四部隊) 鎮魂碑』や『山三四七四部隊(元満州第八八部隊) 慰霊之碑』をはじめ、別の部隊や個々人の慰霊碑や墓標などが十数基ほど建立されていました。
萬華之塔(山三四七四部隊(元満州第八八部隊) 慰霊之碑)の写真
山三四七四部隊(元満州第八八部隊) 慰霊之碑
萬華之塔(墓標)の写真
『山三四七四部隊(元満州第八八部隊) 慰霊之碑』に隣接してあった『俗芽衣谷嶋秀敏』と記された墓標。
・・・と、この場所に建立されている『萬華之塔』をはじめとする慰霊塔は、これですべてなんですが、『独立重砲兵第百大隊(球一八八〇四部隊) 鎮魂碑』と『山三四七四部隊(元満州第八八部隊) 慰霊之碑』の横から、林の奥へと続く小道がありました。
アンディラガマ(真壁千人壕)の写真
『萬華之塔』をはじめとする慰霊塔が建立された場所から奥へと続く小道
その小道の先へ行ってみると、奥の突き当りに大きな口を開けたガマ(壕)がありました。

小道の両側は鬱蒼とした茂みとなっていたんですが、定期的に草刈りなどの清掃が行われているらしく、思いのほか綺麗な状態が保たれていましたね。
アンティラガマ(真壁千人壕)の写真
『アンティラガマ(真壁千人壕)』に続く小道
こちらは『アンティラガマ』と称されるガマ(壕)なんだそうで、『真壁千人壕』とも呼ばれているんだそうです。

全長約250mとなっており、コウモリの生息するガマとしても知られているとのことです。

沖縄戦当時、このガマには地元民だけでなく他地域の住民も多数避難していたらしく、それと同時に日本兵も雑居していたみたいです。
アンティラガマ(真壁千人壕)の写真
アンティラガマ(真壁千人壕)
戦況が悪化していく中、日本軍の命により住民は明け渡しを強要されて追い出され、砲兵部隊の陣地となっていったとのことです。

しかしその後、1945年の6月20日には米軍に包囲されてしまい、ガマにいた部隊は全滅してしまったんだそうです。

当初、『アンティラガマ』には水源が無いと思われていたらしく、この近くにある『ターチューグムイ』や『真壁アンガーガマ』で水を確保していたそうなんですが、戦況が悪化するにつれ、避難してきた人数が多くなり、ガマの奥へ追いやられた避難民が湧水を発見したとのことです。

・・ですが、1945年の7月末には米軍の火炎放射のために、入口付近で多くの犠牲者が出てしまったんだそうですよ。。。
(※沖縄ガマ情報『アンティラガマ』のページより一部引用)
アンティラガマ(真壁千人壕)の写真
洞口ギリギリまで接近して撮影。現在も洞内には遺留品などがあるらしいので、入壕は遠慮しました。
あと、余談なんですが、こちらのガマに生息しているコウモリは、絶滅危惧種に指定されている種なんだそうで、入壕する際には、注意が必要とのことです。

特に5月~7月にかけての繁殖期には、むやみに入壕してしまうと、親たちが驚いて育児放棄してしまう恐れがあり、さらには赤ちゃんが落下して死んでしまうことがあるんだそうです。

なので、入壕する際は、ライトでコウモリを照らしたり、また、コウモリの糞には絶対に触れてはいけないとのことです。

そして、入壕した後は、感染防止のため手洗い必須なんだそうですよ!

壕内には、まだ遺留品などが残されているらしいので、いずれにせよ、入壕は遠慮した方が無難なようですね。

今回も、かなり長くなってしまいましたが、そろそろこの辺で。。。でわでわ☆★☆

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『萬華之塔

☆場所:〒901-0336
      沖縄県糸満市真壁1292(萬華之塔)
※『アンティラガマ』へは、『萬華之塔』から徒歩で向かうことが出来ます。

☆お問合せ:098-840-8111(糸満市役所)
※糸満市公式HP『萬華之塔』のページ⇒http://www.city.itoman.lg.jp/kankou-navi/docs-kankou/2013022500029/

☆見 学:無料

☆駐車場:無し