◎幸地按司に滅ぼされたという伝承が残る西原町小波津にあるグスク跡☆|沖縄放浪日記

この記事をシェアする

2016年2月15日月曜日

◎幸地按司に滅ぼされたという伝承が残る西原町小波津にあるグスク跡☆

ハイサイ☆

今日は月曜日☆また新しい一週間がスタートしましたねo(^-^)o

今週、沖縄本島は、火曜日~木曜日の3日間は天気が回復しそうですが、また週末金曜日から21日の日曜日までは、崩れてくる見込みのようです。。。(´Д`;

最近、週末に天気が悪くなる率が高いので、ちょっと残念な気持ちになっちゃいますね。。。(泣)

さてさて☆

以前から、一度訪れてみたかった城跡があったんですが、天気が悪かったりして、なかなか行くことが出来なかったんですが、先週、いい天気が数日続いてたので、ようやっと行くことができましたヽ(^。^)ノ☆

沖縄県中頭郡西原町小波津にある
『チチンタグスク』
道沿いに立てられた『チチンタグスク』の標柱
こちらはまず、西原町那覇市首里石嶺の境界にある、県道29号線155号線がぶつかる『石嶺二丁目』の交差点から県道155号線に入り、西原町小波津向けに進みます。

しばらく道なりに進んでいくと、県道沿い右側に『愛和会(医療法人)介護 老人保健施設池田苑』がありますので、そこから約270mくらい進んだところの交差点を右折、今度は交差点から約200mほど進むと、『小波津団地』の入口がありますので、その手前側左手にある小高い丘が『チチンタグスク』です。
県道155号線上から見た『チチンタグスク』全景
この『チチンタグスク』は、別名『津喜武多グスク(チキンタグスク)』とも呼ばれ、グスク東側にある『小波津団地』ができる以前は、『ユツキーモー』と呼ばれていたんだそうです。

西原町の公式HPによると、伝承には、グスクの石垣は首里城を築城する際、手渡しで運び去られたといわれてるみたいですが、調査の結果、根石や中込め石などの遺構を確認できなかったらしく、「土より成る城」であった可能性が高いんだとか。。。
『チチンタグスク』の『小波津団地』側にある入口
入口を入って、頂上へ向かう途中の階段。雑草が生い茂り、かなり荒れてました。
また、グスクの各所に雛段状に削平された地形がみられ、特に削平地が顕著なところは西側で、腰曲輪の一つとして認識できるとのこと。

この腰曲輪は、西側の防御のために設けられたものなんだそうですよ。
階段を上がりきったところの分岐点。右側に手すりが伸びてました
グスクの入口は、丘の東側にある『小波津団地』へ伸びる道沿いにあります。

階段と手すりがあるので、すぐ分かると思うんですけど、ワタクシが訪れた時は、手入れが全くされてなく、雑草が生い茂ってました。。。

雑草を掻き分けながら、階段を上がっていくと、登り切ったところに分岐点があり、今度は手すりが右側の奥へと延びてました。

・・・が、まずは分岐点からさらに真っ直ぐ伸びる道の奥から見学してみることに☆
分岐点から真っ直ぐ進んできたところにあった個人所有らしきお墓と、崖をくり抜いて造ったような感じの古墓がありました。
分岐点から真っ直ぐ進んで行くと、手前側に個人所有らしき、比較的新しめの御墓があり、その隣りには、崖をくり抜いて造ったであろう古墓がありました。

さらに、古墓から奥へ進むと、拝所(?)のような石が置かれた場所がありました。
ちょっと分かりづらいんですが、写真の中央からやや右下の方に、拝所(?)らしき石が立てられてました。
んで、この奥は行き止まりになってるみたいだったので、先ほどの分岐点まで戻り、今度は、手すりが伸びてる奥へ行ってみることにしました。
階段から右側奥へと延びていた手すりが設置してある道。。。
道・・・とゆーかどこが道だか分かりませんね(笑)
分岐点まで戻り、意を決して、手すりを手繰りながら雑草が生い茂る中を突き進んでいきました。。。

すると、崖の窪んだ場所に『御先王号 尚円長子 嘉手苅按司前之墓 平成元年旧九月吉日』と刻まれた石碑があり、その左後方には、香炉が設けられた御墓がありました。
『御先王号 尚円長子 嘉手苅按司前之墓 平成元年旧九月吉日』と刻まれた石碑とお墓(石碑左側)
この『嘉手苅按司前之墓』の石碑右横から、手すりがさらに崖後方に伸びてたので、ちょこっと覗き込んでみたんですけど、この先は進めそうもなかったので、このまま引き返しました。
『嘉手苅按司前之墓』右横からの道。
『嘉手苅按司前之墓』がある場所からは、津喜武多按司を滅ぼしたとされる幸地按司の居城『幸地グスク』が見えました。
写真中央の一本だけ上に伸びる木のすぐ右側にある丘が『幸地グスク』です。
最初は、グスク東側から入って見学したので、今度は西側を見学しに行ってみることにしました。
『タンパラ按司墓』
グスク南側には、個人所有の御墓がたくさん建てられてますが、西側まで行くと、『タンパラ按司墓』と刻まれた石碑が建てられた御墓があります。
『タンパラ按司墓』と刻まれた石碑
『タンパラ按司墓』には香炉が置かれてました。
この『タンパラ按司』については、全く不明なんだそうで、なぜここにあるのか?または、『チチンタグスク』との関連は?などなど、何も分かっていないみたいですね。。。

この按司墓横から、グスクの上へと続く簡易的な道がありましたので、そちらも行ってみることにしました。
『タンパラ按司墓』横から上へと続く簡易的な道
急勾配の簡易的な道を登っていくと、先程の『嘉手苅按司前之墓』裏手側に出た感じでしたね。

この場所にも、崖の穴が塞がれた部分があり、たぶんこちらも御墓なんでしょうね。
登りきったところ。『内間ノロ之墓』らしいです。
こちらには、御墓が2ヵ所ありました。

ちょこっとネットで調べると、『内間ノロ之墓』といわれる御墓のようです。

2基の御墓があるこの場所には、登ってきた道以外に他の道は見当たらなかったので、そのまま引き返しました。
右側にも御墓がありました。
この『チチンタグスク』は、いろいろ伝承が残されており、その中で一番有名なのが次の伝承です。

≪津喜武多按司には美しい夫人がいたそうなんですが、ある日、夫人が井戸で髪を洗っていた時、夫人に恋心を抱く『幸地グスク』の城主・幸地熱田子が偶然を装って現れ、夫人に悪戯をしたんだそうです。

そのことを聞いた津喜武多按司は、とても憤慨するんですが、相手はあの猛将で知られる幸地熱田子なので、手を出すことは出来ませんでした。。。

しかし、津喜武多按司が憤慨してるとゆーことを聞いた幸地熱田子は、先手を打つため、策略を練り、部下を連れてチチンタグスクに向かいます。

幸地熱田子は、津喜武多按司に謝罪を申し入れ、津喜武多按司はそれを受け入れ饗宴を催します。

宴も終わりに近づいた頃、幸地熱田子は、津喜武多按司が持つとても珍しい宝剣が見たいと嘆願します。

すっかり気を良くしていた津喜武多按司は、その宝剣を渡してしまいます。

宝剣を手にした瞬間、幸地熱田子は、津喜武多按司を斬り捨てます。そして、部下や隠れていた伏兵達とともに、泥酔してしまってる津喜武多按司の家臣たちまで皆斬り捨ててしまいました。

津喜武多按司の夫人は、なんとか城から逃げ出しますが、すぐに捕まってしまい、幸地熱田子に言い寄られます。

貞淑な津喜武多按司は、断固拒否し、井戸にその身を投じてしまったんだそうです。≫
・・・と、ここまでが『チチンタグスク』に纏わる一番有名な伝承です。

最後に、『チチンタグスク』の標柱が立てられている場所の近くには、沖縄戦の際に、旧日本軍の『独立重砲兵隊第100大隊の一個小隊が布陣していた『小波津陣地壕』が残ってます。
小波津陣地壕跡
こちらの壕は、崖に掘って造られた墓を利用して造られたみたいですね。。。
壕入口から見た内部の様子
結構大きな壕だったんですけど、崩落の危険性があるため、内部に入ることは遠慮致しました。

今回は、久しぶりにかなり長くなってしまいましたが、史跡や戦跡などに興味がある方は、一度足を運んでみてはいかがですか?

それでは、この辺で。。。でわでわ☆★☆

最後まで読んでくださって、ありがとうございますm(_ _)m
宜しければブログランキングへ 御協力お願い致します。
ブログランキング・にほんブログ村へ    
『チチンタグスク(津喜武多グスク)』・『小波津陣地壕跡』☆



☆場所:〒903-0118
      沖縄県中頭郡西原町小波津

☆時間:自由見学

☆トイレ:無し

☆駐車場:無し